ぼんやりと浮かべて
ベッドの上であれこれ好き勝手に色んなポーズを取らされて、もう二時間になる。
結構きつい。
少なくとも想像してたよりは全然ラクじゃなかった。
短時間で結構な額なのは、別に羞恥心の代価でもなんでもなく全うな肉体労働に対する対価なんだと、身にしみて実感した。
相手がほとんど無言だというのも面白くない。
「なあ、」
「動かないで」
途端に嗜められる。
男は無心に手を動かしていた。
筆を走らせる音だけが部屋に流れる。
「モデルになってもらえませんか」と声を掛けられた時は、ファッションモデルなんだと思っていた。そういう誘いなら何度も受けたからだ――OKしたことはない、面倒臭いから。だけど男は画家と名乗った。
「絵を描かせてくれ」と。
男はまだ二十代前半くらいに見えた。それで画家というのは偏見かもしれないが胡散臭い。
だが、ちらと見ると、油絵だかなんだか分からないが、染みついたように青灰色になっている指先が嘘ではないことを証明していた。
俺はふたつ返事でOKした。
絵なんて全く興味はないし、センスもない。誘いを掛けて来たのがこの男でなければ、俺は一瞥しただけでやり過ごしていただろう。
男は鬼気迫るようなオーラを垂れ流していた。
必死に呼び止められたわけでもない、会話は至って穏やかでさえあったと思う。
だが俺にはこの男が生き急いでいるかのように見えた。
だからOKした。
アトリエ兼自宅だという建物に連れて来られて、簡単な自己紹介と報酬に関する説明を受けた。
それから「できればヌードになって欲しい」とも。
別段驚きはしなかった。
その手の連中にコナをかけられることはしょっちゅうだったし、俺自身も軽く経験はあったから、ここで男が絵のモデルでなく売春を要求して来ても驚かなかっただろう。むしろ、その可能性を考えていた。
たとえそうだったとしても俺はモデルの依頼を受けたのと同じ理由でOKした。
だが男はアトリエに俺を通すと、服を脱いだ俺に対し、時折ポーズの指示を出すだけであとは黙々と手を動かしていた。
二十畳程度の広さのアトリエには無数の絵があった。
服を着ているものもあったが、大半がヌードの、細身の少年か青年のものだった――やっぱりホモかも知れない。
素人目には善し悪しなどさっぱり分からないが、青や灰色を基調にしたヌード画というものは暗い感じがしたし、暖かみはまるでなく、男が秘めている危機感のようなものが押し出されていて気味が悪かった。
どの絵にも顔が描かれていないからだろうか。
百枚以上あるだろう絵は、顔がすべて灰色に塗りつぶされていたり、顔そのものが見えない角度から描かれていた。
ゲージュツカの考えることは分からない。
俺は最初のうちこそぼんやりとアトリエを見渡しながら時間をつぶしていたが、二時間を越えるとさすがにキツい。
最初は数分置きくらいに、あれこれポーズを変えるように指示されていたが、クロッキーをキャンバスに変えてからはポーズを変える回数がぐんと減った。
男の方を向いてベッドに横たわっているだけだが、このポーズを初めて三十分以上は経っている。寝返りが打てないのがこんなにしんどいものだとは思わなかった。
男は相変わらず鬼気迫る顔をしている。
ずっとあんな調子で疲れないのだろうか。
男の指先は真っ青に染まっていた。
ここからは男がどう自分を描いているのかは見えないが、この部屋にある絵と同じくらいには、血色の悪い男になっているのだろうなとは思った。
それからさらに三十分ほど経って、ようやく男は筆を置いた。
俺も自然と長い溜め息が漏れ、強張っていた手足を無理矢理動かして伸びをした。
動いても良いとは云われなかったが、文句も云われなかったので良いのだろう。
男は魂が抜けたように、ぼうっと自分の描いた絵を見ていた。心ここにあらずといった感じだ。
俺はベッドを降りると、そのまま男の傍に行った。
裸のままだったが空調は快適だったし、三時間近く晒した相手に羞恥心も湧かなかった。
男の背後に回ってキャンバスを見た。
30インチくらいのテレビ大のキャンバスに描かれているのは、多分俺なんだろう。
暗い青を基調に描かれた薄暗い印象のそれは、死体が転がっているように俺には見えた。この部屋の絵はどれも似たようなもんだったから、それには驚かなかった。
ただ――、
「これ、俺?」
「……そうだよ」
男は魂どころか身体の力まで抜けたような声で云った。
それには顔があった。
精密な描写ではないが、目があり、鼻があり、口がある。
塗りつぶされてもいないし、曖昧に誤摩化しているわけでもない。
人間の顔がある。
「なんで、顔を描いた」
「……分からない。何故、描けたのか」
「描けた」という言葉に、この部屋を埋め尽くしている顔のない絵を、男が意図して描いたのではないのだろうと察したが、それが分かったところで俺には関係のないことだった。
ただし、その顔については別だ。
「目がある、ふたつ」
「そうだね」
「何で」
「さあ……」
絵の中の俺は、じっとこっちを見ていた――ふたつの目で。
俺は右目に眼帯をしている。医療用の味気ないやつだ。
この男が画家の想像力とかいうもので眼帯を取っ払ったというのなら、それで良かった。
だが何故、
「なんで、水色?」
絵の中の俺は、左目が黒で、右目が水色をしていた。
全体的に薄暗く濁った絵の中で、その右目だけが澄んだ薄い水色をしているせいで酷く浮いているように見える。
「さあ、何でだろうね」
男が不思議そうに呟く。
今、俺がどんな気持ちでこの絵に向き合っているのか、男は知る筈もない。
俺は知らず右目に触れようとしていた手を、男に気付かれないようにそっと降ろした。
男は相変わらず椅子に座ったまま、魂を吸い取られたように絵に見入っている。
それを見て、気が付いた。
あの鬼気迫るようなオーラが消えている。
男は、生き急ぐのをやめたのだ。たった今。
俺を描くことで、あるいは顔のある絵を描けたことで、男の中で何かが変わったのだろうか。
俺には分からない。
「なあ、アンタ」
「ん?」
絵を描き終えて、男が初めて俺を見た。
穏やかな目だった。
「アンタは、これで良かったのか」
「……多分、ね。上手く云えないけど――欠けていた何かを、取り戻せた気がする。俺のして来たことに、意味があったような気がする」
だから、ありがとう――と、男は云った。
そう云って、笑った。
だから、
「多分、アンタは俺にも意味をくれた。青が、水色が綺麗だと思ったのは初めてだ」
俺も、ほんの僅かに残っていた迷いを捨てて、眼帯に手を掛けた。
盲目に、水
END