MY BEST FRIEND


 何があったのかも分かっていないはずの娘がわんわんと泣くのを慣れない手つきで抱き寄せながら、本当は思っていた。
 俺だって泣きたいんだ、と。
 云えてしまったらどんなに楽だっただろう。
 だが、云えるはずもない。
 幼い娘の前で、泣くことだけは出来なかった。
 アイツの残した唯一の結晶を、これ以上悲しませることなど出来ない。
 だから、娘の前でだけは変わらず笑顔でいた。
 それでも徐々に、何かが抜け落ちていく。
 すべてが煩わしい。
 呼吸をしていることさえ。
 娘の存在でさえ。
 重い、自分の肉体すら。
 ――役立たずなヒーローに、存在価値はあるのか。
 俺にはもう、分からない。




「おかわり」
 空になったグラスをカウンターの上に載せる。
 バーテンダーは一瞬眉を寄せた後、それでも何も云わずにグラスを引っ込めた。一分ほど間を置いて、新しいグラスに注がれた酒が目の前に置かれる。
 黙ってグラスを取って口に運ぼうとしたが、まっすぐに運べずに少し零した。
 何杯目だっただろう。かなりキている。
 しかし、身体とは裏腹に頭は冴えていた。
 酔えない。
 何倍飲んでも酔えない気がして、結局グラスは元に戻した。
「虎徹?」
 不意に声を掛けられて、後ろを振り返った――つもりだったが、天井が見えて不思議に思う。
「危ない!」
 先程よりも大きな声がして、グラついた身体が誰かに支えられた。
「何してるんだ……って、随分飲んでるみたいだな」
「……アントニオ?」
 身体を支えていたのは、親友のアントニオだった。
 久しぶりに会った気がする。いつ以来だ?
「久しぶりだなぁ、アントニオ」
「……大丈夫か?」
 何か云いたそうな顔をしたアントニオは、気遣わしげな顔でそれだけ云った。
 ああ、そうだった。二週間ぶりか。
「大丈夫、大丈夫」
 ぱんぱん、と身体を支える逞しい二の腕を叩いて、椅子に座り直す。それから「まあ、座れよ」と左隣の椅子にアントニオを促した。
 アントニオは躊躇った様子を見せたが、結局大人しく腰を下ろした。
 アントニオの巨躯に下敷きにされた椅子は今にも壊れてしまいそうな玩具に見える。
 それが酷く可笑しくて笑っていると、アントニオの眉が益々気遣わしげに寄って、それがまた面白くて笑った。
 ずっと笑っていたが、アントニオは止めなかった。お陰で苦しい。息ができない。
 笑いが止まったのは、いつの間にかアントニオが頼んだ酒が届いて、一口飲んだ後だった。
「……楓ちゃんは?」
 コトリ、と音を立ててグラスを置いた後、アントニオはやけに神妙な顔をして云った。
「……んん? ……なんか、お袋がさぁ、暫く預かるって、連れてった」
「そうか……そうだな、その方が良いかも知れん」
「ええー、なんでよ? 俺の娘だろ?」
 そうだ。何で連れてったんだろう。俺の娘なのに。
 母親も変な顔をしていた。今のアントニオのように。
「お前、今自分がどんな顔してるか分かってるか?」
「……ん?」
 云われて顔を触ってみる。じょりじょりとした感触。
 そういえば暫く髭を整えていない気がする。いつからだっけ。
「確かに随分伸びたなぁ……。あ、それで楓が俺の顔見てビビるのか……?」
「そうだな。だが、そうじゃない」
「……?」
 何の謎掛けだ。
 訳がわからずアントニオを見ると、彼は疲れたように首を左右に降っていた。
「どうした、疲れてるのか?」
 云うと、何故か今度は怒ったような顔で俺を見る。
「気づいてないのか?」
「何が?」
「……疲れてるのは、お前だろう」
「…………」
 疲れてる?
 そうだろうか……。
「でも仕事も休みだし別に――」
「そうじゃない。……お前、寝てるのか?」
「寝る……」
 一瞬、何のことか分からなかった。
 すぐに思い出す。寝る。そう、睡眠だ。
「ああ、寝る、な……うん、寝るよ」
「最後に寝たのはいつだ」
「なんだよ、顔こえェよ、アントニオ」
「誤魔化すな」
 何だってアントニオの奴、こんなに恐い顔してんだ。
 俺が寝ようが寝まいが、どうだって良い話だろうに。
「……二週間前……くらい……? かな……?」
 自信はない。
 ここ二週間の記憶は朧げで、その間に寝た気もするし、寝なかったような気もする。
「馬鹿! お前……ッ、幾らヒーローでも二週間なんて身体が参っちまうだろうが……!」
 アントニオは一瞬、辺りを窺うように視線を彷徨わせてから、声のトーンを落として怒鳴った。
「まあ……でも大丈夫だし」
「その顔でか? お前、この二週間鏡見たのか?」
「……見てないけど」
「じゃあ見ろ!」
 そう云ってアントニオはジャケットから折り畳み式のコンパクトミラーを取り出した。
 ヒーローだから外見に気を配るのは当然かも知れないが、アントニオがそんなものを持っているとなると不似合いに感じてならない。
 そのことを突っ込もうとした口は、アントニオがこちらに向けた鏡を見て、開いたまま塞がらなくなった。
 そこにあったのは幽鬼か亡霊か――とにかく生気のない男だった。
 目は落ち窪み、頬は痩けて、その上を不揃いな無精髭が覆っている。肌は艶もなくガサガサで、唇は裂けて血の滲んだような痕があった。
「どうだ、酷いとは思わんか?」
「……まあ」
 反論の余地もない。スラムの裏通りにいる連中だってもっとマシだと思った。
 だが、これがワイルドタイガーの現状だ。
 役立たずのヒーローにはお似合いじゃないか。
「何を笑っている?」
「え?」
 笑ってる?
 確かに未だにこちらに向けられた鏡の中男は笑っていた。
 ただ目だけが笑っていない。
「もうひとつ訊く」
 パチリと音を立てて、コンパクトミラーがと閉じた。幽鬼は消え失せた。
「この二週間、一度でも良い――お前はちゃんと泣いたのか?」
 すぅ、と周囲の温度が下がった。
「……何?」
「泣いたのか、と聞いている」
 何で俺が泣かなきゃならない?
 アントニオの真っ直ぐな視線に晒されることに息苦しさを感じた。
 じっと視線を合わせていられなくて、意味もなくグラスを手に取った。
 時間が経ったせいか、グラスはもう温くなっていた。
 期待していなかったが、喉に流し込むとカッ喉を灼くような熱が走った。何だ、これなら酔えそうだ。
 しかし、それも胃に辿り着くと冷えてしまう。
「おい」
「何で俺が泣かなきゃなんねえんだよ」
 自分でも聞いたことがないような冷たい声だった。
 寒いからだ。だから声まで冷たくなる。
 続けて酒を流し込もうとした手を、アントニオの手が邪魔した。熱い。
「……! お前……」
「俺が泣くわけないだろ」
「おい……っ」
 俺が泣くわけない。泣けるわけがない。
 アイツの前で。
 アイツが遺した唯一の――。
「お前、離せよ、熱い。寒くなるだろ」
 アントニオに押さえつけられた手が熱かった。
 裏腹に、それ以外の場所がすべて冷えていく。
 ガタガタと手が震えているのが見えた。
 手だけじゃない、体全部が震える。寒い。
「何で、こんなに寒いんだ、この店。なあ、マスター、エアコンつけてくれよ」
「おい!」
 肩を掴まれた。揺さぶられた。グラスが落ちる。掴まれた肩が熱い。
 ――寒い。
 息が出来ない。
 良いんだ。煩わしかったんだから。
 俺は。
 カチリ、と音がするように、アントニオと目が合った。

「泣けるわけ、ねえじゃねえか、楓がいるのに、そんな、アイツが死んだなんて、認めるようなこと」

 寒い。
 雪でも降ってるのか。
 目の前が真っ白に――――。
 ああ、お前……そんなところにいたのか。
 探したじゃないか……。




 それからどうなったのか、覚えてない。
 殆ど覚えてない、と云うべきだろうか。
 目が覚めるとベッドの上だった。
 隣にはアントニオ。
 彼の部屋だということは知っていた。親友だ――これまでに何度も家には上がったことはある。
 それでも寝室に入ったのは今回が初めてだった。
 セックスをしたのも。
 セックス、と云えるのか分からない。
 合意のないそれに近かった。
 アントニオを利用した。親友を利用した。
 介抱しようとした彼に縋り付いた。
 姑息な手だ。
 彼に対するそういう意味での愛情はなかったし、当然彼にもなかっただろう。
 それでも俺は彼が優しいことを知っていた。
 なかったことにしてくれることも。
 だから利用した。
 何のために?
 ――分からない。
 強いて云えば、寒かったからだ。
 バーで気を失う寸前、彼女の声を聞いた。
 たったひと言――『生きて』。
 だから俺は、しがみつこうと思った。生に。
 誰かに体温を分け与えて欲しかった。
 だから彼に縋り付いた。恥も外聞もなく。
 彼にして見れば訳の分からない行動だっただろう。気が狂ったと思われても仕方がない。
 それでも俺は熱が欲しかった。生きているという実感が欲しかった。
 そのためだけに利用したのだ。
 アントニオのペニスを受け入れながら、俺は彼女の名を呼び続けた。
 その度に、彼が痛ましそうに顔を歪めるのに気づいていても。
 みっともなく声を上げ、泣き叫んでも、彼はただ俺が望むように熱を打ち付け続けた。
 彼女との思い出に浸れるように、彼自身はひと言も声を上げることなく――。
 酷いことをしている、という自覚はあった。
 私事に大事な親友を巻き込んでしまっている、ということも分かっていた。
 それでも助けて欲しかった。俺のエゴだ。
「ありがとな」
 こちらに背を向けて眠る親友に小さく呟く。
 彼が眠ってなどいないことくらい分かっていた。
 彼はなかったことにしてくれる。
 だから、俺に出来ることも、なかったことにすることだ。
 ベッドを降りる。
 久しぶりに眠った。身体は軽かった。




「よお、アントニオ」
 いつもの席に先客がいるのを目に留めて、振り返った彼に手を挙げる。
「虎徹」
 何気なく振り返った彼は、その後、少し驚いたように目を見張った。
「そいつは……」
「そうそう、例のバニーちゃん」
「バーナビーです。……『例の』って何ですか」
「まあまあ、良いから座れよ」
 渋面を浮かべながら眼鏡の位置を直す相棒の背を、ぽんと叩いて押す。
 自分はアントニオの右隣に腰を降ろし、更に右隣にバーナビーを座らせた。
 ぶつぶつと小言を漏らしていた相棒も、初対面の年上には礼儀を払うのか、視線が合うと目礼した。釣られるようにアントニオも会釈する。
「アントニオ。俺のパートナーのバーナビー・ブルックス Jrことバニーちゃん」
「それを云うなら逆でしょう。そうじゃなくて、何度云ったら分かるんですか、バニーではなくバーナビーです」
「細かいこと云うなよ、話が進まねえだろ。で、バニーちゃん、こっちが――」
 左隣に座るアントニオを親指で指さしながら、云う。
「アントニオ・ロペス――俺の親友だ」

END
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