FEAR これまでヒーローであることに嫌気が差したことなどない。面倒だと思ったことすらなかった。
それはすべて確固たる目的が自分の中にあり、それを差し置いて問題となることなど何ひとつとしてなかったからだ。
ヒーローたることは手段であり目的ではない。
手段とは道具だ。
故に迷いや煩いを感じることもない。
そう、当然恐れなど抱くことなどないはずだった。
それがこの体たらくだ。
――僕は今、恐れている。
重い足を引き摺るように歩を進める。
行かなければならない。どんなに気が重くても。
自分の仕出かした事態の責任は、自分で取らなければならない。
そうは思うものの、今この時ばかりは世の犯罪者すべてが死滅すれば良い、と思わずにはいられなかった。
トレーニングルームのドアが僅かな音を立てて開く。
恐れていた時間はあっという間に訪れた。
思っていたよりも、少しだけ早く。
「よぉ」
先客がいた。
彼はカーブベンチに背を着けた状態から、顔だけをこちらに向けて、それだけ云った。そ して半ば逆さ釣りに近い状態から腹筋の力だけで身を起こすと、反復動作を繰り返す。
背を着ける度にトレーニングウェアの裾が腹まで捲れ上がるのを、見ていられずに目を逸らした。
「今日は随分と早いんですね」
気が付けばそんなことを口走っていた。
幾度となくシミュレーションして来たどの台詞とも違った。
どうしてそんなことを口走ったのだろう。当然、その後の展開すら想定から外れることになる。
「ああ、まあ、ちょっとな」
何が「ちょっと」なのか、まるでわからない。しかし、それに突っ込む気はなかった。
どこまでも深い底なしの墓穴を掘ってしまうのではないかと思ったからだ。
しばらくの間、無言が続いた。
他の社員は来ないのか、とストレッチをしながら閑散としたトレーニングルームを横目で見渡す。
普段はもっと人がいるのだが、今日に限って空いていた。
二人きりになることを想定していなかったわけではないが、心の大部分では第三者がこの場にいることを期待していた。
これも天罰ということだろうか。
「おい、バニーちゃん」
「…………バーナビーです」
「歯切れが悪いねえ、らしくないぜ?」
どうしろというのだ。
僕がどんな気持ちでここにいるのか分かっているのか?
昨日の今日で。
僕は夜も眠れず過ごしたというのに。
まるで何事もなかったかのように、言葉を交わせるのか。
大して気にもしていないような、いつも通りの態度で。
日常茶飯事だとでもいうつもりか――。
理不尽な思いだとは知りつつも、あまりに普段通りの態度が癪に障る。
気づけばまた、口を開いていた。
「……どうしてアナタは、そうなんですか」
「何がだ?」
「僕は――……」
衝動的に口を開くものの、いざ口にするとなると酷く動揺した。
僕は何をしているんだ。
どんな叱責も罵倒も受けるつもりでいたのに、既になって尻込みをしてしまう。
情けない、と思った。
だが、それ以上に恐ろしかったのだ。
面と向かって、彼に拒絶されることが。
「僕は……」
不気味なほどの静寂が訪れる。
彼は腹筋をやめて、カーブベンチに横たわっていた。
真っ直ぐな視線が突き刺さるようで痛かった。
けれど、目を背けてはならない。
だって、僕は。
――僕は、アナタを犯したんですよ。
「僕は、謝りませんから――」
彼は一瞬だけ僅かに目を見張ると、昨日そうして見せたように、手の掛かる子供を見るような眼差しで云った。
「そうかい」
「……それだけですか」
「じゃあ、お前はどう云ったら満足するってんだ、バニーちゃん」
「…………」
答えられるはずがない。
答えは、僕の中にも見つからないのだから。
ただひとつだけ、刺のように喉奥に引っかかっている言葉がある。
それを吐き出したくて堪らなかった。
このままでは窒息して死んでしまう。
目的を達成してもいないのに、こんなところで死ぬわけにはいかない。
あまつさえ、こんな中年男のせいで死ぬだなんて、冗談にしては笑えなさ過ぎる。
「……ひとつだけ、云い忘れたことがあります」
静寂に満ちたトレーニングルームに、自分の足音だけが響く。
一歩、また一歩と進む度、不思議なほどに冷静な自分がいることに気がついた。
そして同じくらいには、彼も冷静でいるように見える。
日頃が暑苦しく落ち着きがないせいで、その冷静さは余計に不自然に見えた。
大人だからか?
違う――。
漸く気づいた。
恐れていたのは、僕だけではなかったのだ。
目の前に立った時、彼が少しだけ動揺したように瞼を数度瞬かせた。
足元にある彼の顔を見下ろしながら、僕は勝ったと思った。
根拠はない。
ただ、そう思った。
「僕は、アナタが好きなんですよ」
彼の瞳の中で、僕は笑っていた。
恐れも、迷いも、必要なかったのだ。
ただ、貴方を手に入れることが、第二の目的となっただけなのだから。
END