On the impulse of the moment


 それを見たのはあくまで偶然に過ぎない。
 見なかったことにすれば良いだけだし、態々首を突っ込むのも馬鹿馬鹿しいことだと思った。
 それでも見過ごせなかったのは、男の肩口から覗いたハンチング帽と、微かに届いた吐息のせいで。
 気づけば僕は、彼を抑えつけていた男の肩を掴んでいた。




 そして今に至る。
 肩で息を吐く彼に、僕は足を止めた。
「もうちょっと鍛えたらどうなんですか」
「い、きなり、走っといて云うなよ! おっさんの体力舐めンな! いっぱいいっぱいだよ!」
「そうですね、歩幅も違いますし」
「お、ンまえ〜ムカツク!」
 彼は膝に手をついて、ぜいぜいとみっともなく息を喘がせていた。
 片方の手を自分が握り締めていることに気づいてさりげなく手を放すと、彼は何も云わず残ったその手も膝に置いた。
 僕は何をしてるんだ。
 こんなオジサンの手を取って、駆け落ちよろしくビルの中を駆けずって。一体何人の人間に目撃されただろう。それ程多くはないと思うが。
 当て所なく走ったが、辺りを見れば資材倉庫のあるフロアだということは分かった。人の出入りがどれほどあるのかは知らないが、今のところ人の気配はない。廊下にまではみ出した番組のセットらしき資材が、少々の目は誤魔化してくれるだろう。
 再び彼に目をやると、さすがに息は落ち着いていたようだったが、前屈みになった姿勢は崩していなかった。
 そこで思い至る。
「まだ、勃ってるんですか」
「……分かってて走らす辺りがドSよね」
 はあ、と深く息を吐いた彼が、酷くいやらしく見える。
 僕は馬鹿か。
 シャツを引き摺り出され、スボンのホックを外されて。乱れた息を吐く彼を見た時に感じた衝動は何だったのだろう。
 褐色の肌が僅かに赤く染まって、寄せられた眉が悩ましくて。
 本当に。
「馬鹿ですね」
「……るせえッ」
「助けてあげたのにその態度は何です? ……ああ、合意だったんですか。もしかしなくても僕は邪魔をしてしまったというわけですか」
「……スポンサーのひとりだったんだよ、……昔の」
 答えになっていない。
 カッとなる僕と、酷く冷静に彼を見下ろす僕がいた。
「へえ。それはそれは。ビジネスチャンスを潰してなければ良いですがね」
「何だよ……やけに突っかかるな」
 少し苛立ったように呟いた彼は、ようやく姿勢を伸ばし、背後の壁に凭れた。ガリガリと襟足を掻き毟る。ネクタイが緩められ、一番上のボタンは外されていた。僅かに首筋には、鬱血の痕。
「……一応、パートナーですからね。悪評が立っては、僕が困るんです。そもそも何です、あんな、いつ人が通りかかるかも分からない場所で――」
「へいへい、悪かったよ。人目につかなきゃ良いんだろ――っ痛てええッ!」
「減らない口ですね」
 乱れた襟首を掴んで引き寄せ、反転させた身体を壁に投げ捨てた。
 ぶつけた顔を庇おうとする手を背後で一纏めにする。
「そんなに溜まってるのなら、僕が処理してあげますよ。気持ちの良いものではありませんが、あちこちで盛って変なスキャンダルを起こされるより余程マシです」
「おま……っ」
 空いた右手を前に回し、臍下からスラックスに挿し込むと、びくりと彼の身体が震えた。下着越しになぞる。
 そこはまだ緩やかに勃起していて、どれだけあの男に嬲られていたのだろうかと想像させる。僅かに湿っている気さえした。
「ボクサー派なんですね。オジサンだからてっきりブリーフかと思いましたよ」
「馬……っ、やめろ……!」
 前開きから手を挿し込み、彼のペニスを取り出すのは容易だった。
 彼の身体が面白いように跳ね、次いで追い詰められた小動物のように身体を縮こませた。
 そうすると日に焼けた褐色の項が顕になる。緊張からかそこは汗ばんでいて、薄暗い廊下ですら光を反射して光っていた。
 汗を舐めとると、俯いた彼の喉奥から呻くような悲鳴が漏れた。
 その間も休むことなく手の中のペニスをあやすように揉み込む。
 びくびくと過剰に反応する身体を、面白くないと思った。
「まったく、ワイルドタイガーが聞いて呆れる。アナタはただの雌猫ですよ」
「……っ!」
 僕の言葉に傷ついたのか、それともペニスに施される刺激に反応しただけなのか、彼は声を押し殺して一層身体を縮めようとする。しかし逃げ場はない。自然と彼は顔を壁に押し付け、引けた腰は僕のペニスに押し付けられた。
 僕が勃起したのは、だからそのせいだ。
「ふ…っ、く……ッ」
「随分良さそうですね。もしかしてご無沙汰だったんですか?」
 彼をあやす手が、滑らかに動くようになった。徐々に湿った音が混じり始める。手が濡れていくのが分かる。
 ここまで溢れていては、下着も無事では済まない。
 つまり、あの男はここまでは出来なかったのだ。
 感じたのは充足感だった。
「も、う……っ」
「良いですよ、イカせてあげます」
 スパートをかけて擦り上げると、彼は顔をのけぞらせ呆気無く精を吐き出した。
 同時に、僕はのけぞった彼の首筋の鬱血の痕に歯を立て、勃起したペニスを彼の突き出した尻に押し付けた。
 達しはしなかったが、脳裏で僕は確かに彼を犯していたのだ。




「これに懲りたら、所構わず盛らないで下さいね、オジサン」
 彼の呼吸が落ち着いた頃、僕もまた普段の僕を取り戻していた。
 彼は埃の積もった廊下に座り込み、項垂れていた。
「……所構わずなのはどっちだよ……」
「何か云いましたか」
「……別にぃ」
 彼は大仰に溜め息を吐くと、乱れた服装を整えた。
「掃除、してから来てくださいね。僕は先に行きますから」
「はいはい……」
「それから、」
 顔を上げた彼をまっすぐに見下ろす。
 まだ僅かに紅潮している頬に、ずくりと腹の底が熱くなった。
「僕がパートナーである限り、勝手な行動は謹んでください。元だろうが何だろうが、次またスポンサーに尻尾を振るような真似をしたら、お仕置きしますよ」
「……わぁったよ……そもそもアレは合意じゃねえっつーの。何勘違いしてんのか知らねえけど……」
「へえ、その割に抵抗しているようには見えませんでしたけど」
「そ、れは……」
 何やらぶつくさと言い訳している彼の言葉など聞く気などなかった。
「それから、もうひとつ――僕が殴り倒したあの男。何か聞かれても知らぬ存ぜぬを通してくださいよ。一応、顔は見られてないはずなんで」
「……知るかよ、ばーか」
 不貞腐れてようにそっぽを向いた彼を尻目に、僕は背を向けて歩き出した。
 取り出したハンカチで手を拭う。
 そこにはまだ彼の温もりと、独特のぬめりが残っていた。
 不思議と嫌悪感は湧かなかった。
 疑問に思うとすれば、彼が一体どこまで《男》を知っているかだ。
 それを思うと無性に腹が立ったが、その理由は考えないことにした。
 今は、まだ。

END
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