ほしいものなんてなかった。ただ確認はしたかった。私があれをほしいって言ったら、お兄ちゃんは私のためにあれを穫ってくれるの?
「あー…それはさすがのお兄ちゃんも無理」
「…何で」
「だってちびっこレースの景品だし。お兄ちゃんもう高校生だし。さすがのお兄ちゃんも、五歳児に混じってかけっこする勇気はないよ」
「でもまなはあれがほしいんだもん」
「じゃ、真太郎に頼め」
「うん」
別にいらなかった。セーラームーン変身セットになんて微塵も興味はない。だけど、あれがほしいと言った手前、我が儘を貫き通さなければいけない気がした。
「…真太郎、ちびっこレースに出て一位になって。お願い。私、セーラームーンになりたいの」
「いやなのだよ。欲しければ自分で穫るのだよ」
「お願い」
「断る」
「…うわああん!」
別にいらなかった。泣く必要もなかった。だけど、泣かないと必死さが伝わらない気がして。
「真太郎、頼むよこの通り」
お兄ちゃんが困ったように真太郎に頭を下げた。真太郎は泣き喚く私を一瞥して、文句を言う。
「俺よりまなの方が足が速いのに何で自分で穫ろうとしない?」
真太郎の言葉をかき消すような大声でまた泣いた。
結局、真太郎は二位で終わった。セーラームーン変身セットは別の奴の手に渡った。私の手に二位の景品を押し付けながら、「だから言っただろう!まなが出れば良かったのだよ!」と、プライドを傷付けられた真太郎は私に怒っているらしい。
私はどうしようかと思った。真太郎を怒らせるのはいつもの事だから気にならない。だけど困ったように眉を下げるお兄ちゃんは見ていられなかった。
「…帰りに玩具屋に寄るか」
お兄ちゃんはそんな事を呟いていた。当時五歳児の私は小さいながらも、それはやり過ぎだと冷や汗が垂れた。もう一度言う。私はセーラームーンセットが欲しかったわけではない。お兄ちゃんが私にどこまで尽くしてくれるかが知りたかったのだ。つまるところ、もういいのだ。
「お兄ちゃん、もういいよ。まな、水鉄砲嬉しい」
「…でも、」
「いいよ!ほら、見て!」
ピュッと真太郎に向かって水を噴射した。水に濡れた真太郎が何やら文句を言っているが耳に入らない。私は水鉄砲に夢中になる女の子でいなければならなかった。悩むお兄ちゃんを安心させなければならなかった。ちなみに水鉄砲は二位の景品である。
それが、"健気な女の子。気丈に振る舞っている女の子"そういう印象を周りに与えたらしい。
「やあ。こんにちは」
お兄ちゃんや真太郎から離れて、一人お手洗いに向かっていた時、突然声をかけられた。私もその赤髪の男の子にこんにちはと返す。
「僕、一位だったんだ。だから、」
あげるよ、と差し出されたのはあのセーラームーン変身セットだった。
「………」
驚いたようにそれを見つめるだけで受け取ろうとはしない私を男の子は不思議そうに見ている。だって、その男の子の優しさは素直に嬉しいが、私は一位の景品なんて別にいらなかった。いらない、そう言うと赤髪の男の子は不思議そうに首を傾げた後、納得したように頷いた。
「…別に遠慮する必要はない」
泣くほどこれが欲しかったんだろう?僕のことは気にしなくていい。そう言われ再び差し出されたそれを私が受け取ることはなかった。もう一度言う。
「…いらない」
男の子の顔が不機嫌そうに歪んだ。
「人の厚意を無下にするな。受け取れ」
「……だから…いらないって」
「…これが最後の忠告だ。受け取れ」
ちゅうこく?何やら難しい言葉を使うこの男の子が好きになれそうになかった。それに雰囲気も少し怖い。
後から思うと、この男の子だって困っていたんだと思う。セーラームーンになりたい男の子はなかなかいないだろう。
当時五歳児の私は変に正義感が強かった。そして意地っ張りだった。その景品は男の子の物だから私が手を出してはいけないと思っていた。変に律儀だった。変に真面目だった。その気持ちが"いらない"という一言でこの男の子に全て伝わるはずがなかった。不躾なヤツだと思われないはずがなかった。
「いらないよ」
「…………」
「いらない」
「………僕は君みたいなやつが嫌いだ」
押し問答の末、面と向かって嫌い宣告をされた時、顔がカッと熱くなって心臓をギュッと握りしめられたような感じがした。
「………」
「………」
無言になって、当時五歳児の私はどうしていいのか分からず、足を擦り寄せて下を向くしかなかった。先に口を開いたのは赤髪の男の子だった。
「…お互いのためにも、もう一生会うことがないことを願うよ」
今度は頭をバットで殴られ心臓を杭で刺されたように苦しくなった。ショックを受けながらも、なぜ男の子がそんな非道いことを言うのかが分からず、(何か言わなきゃ)と気が動転していた私だった。おしっこがしたかった事もあって、口から出た言葉は、
「…お前なんかトイレに流されろ」
だった。終わった、と思った。喧嘩が始まる、と思った。私はこんな事が言いたかったんじゃないのに。でも、その赤髪の男の子は私がよく知る真太郎とは違って、
「下品なやつだな」
僕はもう君と会話すらしたくない、とそう言い残しただけで、私の前から去っていったのだった。セーラームーン変身セットを抱えながら。
当時五歳児ながらも、関係を切られたことは分かった。赤髪の男の子の私を見る目は、もう私を同等の人間だと見ていなかった。これ以上私と関わるのは面倒だからと関係を切ろうとし、実際に切られた。たとえ喧嘩になっても、まだ私とぶつかろうとしてくる真太郎の方が良かった。
とてもとても悲しく感じられて、わんわん泣いた。そんな私を見てお兄ちゃんは驚き、結局玩具屋にて私はセーラームーンに変身することになった。「可愛いね。こんな女の子に守ってもらえるならお兄ちゃんは自ら敵に捕まりに行っちゃうよ」と何度褒めてもらっても涙が止まることはなかった。
そして今、
あの時の赤髪の男の子は今、私の横ですやすや寝ているこの人らしい。人生って本当に分からないものだなあ、と懐かしむと同時に笑いが漏れた。何が「お互いのためにも、もう一生会うことがないことを願うよ」だ。私達は明日結婚するじゃないか。そう思うとさらに笑いが大きくなってしまう。起こしちゃだめ、とは分かってはいても、私の手があの赤髪を愛おしそうに撫でるのを止められそうにない。
「……?」
「……あら、起きた?」
「…何してる?」
「何も」
「…寝ろ。明日は早い」
やめろ、と赤髪を撫でるその手の動きを止められた。ふふふ、と笑ってしまう。そんな私を眠そうな目で訝しんでいる。その目とあの時の赤髪の男の子の目は全く一緒なのに、写している色は全く違う。本当に、人生何があるのかわからない。
「…何だ?」
「別に?」
「………」
「………ふふふ」
「…ああ、分かった。興奮して眠れないんだろう」
「当たり」
「……ったく」
文句を言いながらも赤司は起き上がってくれた。嬉しい。ベッド横に明かりを灯しながら「眠いんじゃないの?」と聞くと「誰かのせいで眠気が吹っ飛んだ」と目を擦りながらも言ってくれるので。ふふふ。幸せ。最大限の愛を伝えるために寄り添った。
「…早いな」
「何が?」
「…僕達は明日結婚する」
「うん」
「君は明日から赤司だ」
「うん」
「今日が栄坂でいられる最後の日だ。何かやり残した事はないかい?」
うーん…やりたい事は一通りやったしなあ、と思いを巡らす私に赤司は提案した。
「…昔話をしてやろうか」
「うん。お願い」
「始まりは中学校一年生の時から。僕の机でまなが寝ていた。我が物顔で。涎垂らしながら」
「ああ!懐かしい!」
私は嬉しそうな声をあげたが、「でも違うよ。始まりはそこじゃないよ」と、この愛しい人の話に口を挟んだ。私はセーラームーンが好きだったんだ。変に正義感が強くて意地っ張りで律儀で真面目だった。あなたは優しいけれどプライドの高い五歳児だった。
「…ふふふ、覚えてないでしょ?」
言っている意味が分からないといったような顔をしている赤司に、「トイレに流されろ!」とヒントを出してあげる。しばらく逡巡する時間があって、それから驚いたように目を見開いたので。ふふふ。意味ありげに笑ったのだった。
結婚式前夜
(明日、私はこの人がくれたウエディングドレスを着る)