とある成人女性の手記T


届くかはわからないが、あなたには聞いてほしいと思う。だから私は残業あがりの身体に鞭打って、こうして暗い部屋で一人、スタンドの明かりを頼りにペンを取っている。独りよがりだとは分かっている。あなたに届くことがないことも分かっている。自己整理の理由をあなたに当て付けているだけだ。でも私はあなたのために話す。とても長くなると思う。私は馬鹿なあなたでも理解出来るよう、順を追って話す。長くなる。仕方がない。

回顧に入る前に、最初に謝らせてほしい。私は今日、あなたの妹を傷つけてきた。殴ってきた。泣かしてきた。相変わらず、馬鹿みたいに甘えた生き方しか出来ていなかったから。でも、今となっては反省している。その理由も後で話す。

今は兎に角、あなたに逢いたい。再びあなたに縋るようになった私を、あの屈託のない笑顔で出迎えてほしいと心から涙が出る。




あなたはまるで、太陽のような人だった。良い人だった。私には眩しかった。どことなく蔑んだ視点を通してしか世界を見れなくなっていた私とは違って、あなたはこちらが恥ずかしくなるほどに真っ直ぐだった。住む世界が違うのだと思っていた。そしてあなたと私、まるで隠と陽、そんな二人、万が一口を交わすことがあったとしても、それは形式的な、それ以上もそれ以下も為さない、二言三言程度のものだろうと考えていた、高三の夏。

「好きです。付き合ってください」

知り合いの垣根を乗り越えようとしてきたのはあなたの方だった。正直に言うと、私はあなたが嫌いではなかった。むしろ顔は好みだったし、バスケ部で期待のルーキーと評されてるのも知っていた。あなたは私の彼氏として十分相応しい資格があった。

「ごめんね、栄坂君」

しかし、あなたも知っているように、私は一度あなたを拒否した。何故かと聞かれても私は曖昧に笑うだけだったが、今なら理由を話してもいいと思える。

私とあなた、二つも年が違えば、互いの精神年齢の隔たりはかなり大きなものだろうと思っていたのだ。

この思春期、見たもの全てを吸収するこの時期だから。二年間という数字は、あなたより長く生きてきた私と、私より短く生きてきたあなたの、価値観の差、つまり人間的な重みをそのまま表しているんだと私は考えていた。

十八になって大人への仲間入りを目前に控えていた私にとって、十六にしか過ぎなかったあの頃のあなたがたとえどんなに良い人だったとしても、それは逆に経験の浅い未熟な子どもであることを示しているのだとしか思えなかった。

この世の汚さを知らない、だからそんなに真っ直ぐでいられるんだ、と。あなたが良い人なのは人の醜さをまだ知らないから、あなたはきっと馬鹿で生きる力がないのね、と。

そして逆に、私のように卑見な視点を持っているということは、この世界の不条理を理解し受け入れたことの象徴だとも思っていた。


まあ、長々と語ってきたけれど、馬鹿なあなたにも分かるように簡単に噛み砕いて言えば、高三女子にとって高一男子はただのお子様に過ぎなかった、ということ。


それが何時の間にか。三度かしら、四度かしら。兎に角あなたは私を諦めなかった。ついに、私があなたに根負けする日が来る。そして気がついたら、あなたは私の隣にいた。当たり前のように。


そして、気が付けば。優等生だった私が大学なんてあなたと通えるならばどこでも構わないと思うほどに、あなたに嵌ってしまっていた。あなたに惹かれてしまっていた。お子様だとしか思えなかった、あなたに何時の間にか。


そしてさらに、私は気がつくことになる。あなたは良い人なんかじゃない。良い人面した哀しい人だ。あなたのその太陽のような明るさは、いろんな悲しみを乗り越えてそして隠し通してやっと掴み取ることが出来た、虚無的な演技の側面にしか過ぎないことに。

本当は誰よりもこの世を鬱陶しく思っていたくせに。あなたが太陽のような明るさで全てを隠していたから、私や周りはちっとも気が付かなかった。馬鹿なのはあなたじゃなくて私の方だった。


今となって、やっと私はあなたたち二人はやはり兄妹だと認めることが出来るらしい。二人とも知らないところで勝手に傷付いて、不器用に隠して、そして笑って生きている。そうして限界になれば、他人に縋りついてお涙頂戴。私のような人があなたたちに騙され一生懸命になった頃、そして突然スッと消えていく。最終的に他人までもを傷付けながら逃げていく。まなちゃんとあなた、内面まで、本当にそっくり。さすが兄妹。

今はいなくなってしまった愛しいあなたの、僅かな断片とも言えるまなちゃん。私にとっては大切なものであるべきだろうけど、やっぱり、私は、相変わらず彼女のことが苦手だ。

優しいあなたは、「まなのことが苦手ですか。でも本当はいい子なんですよ」と困ったように笑うだろう。だけど、大人の「苦手」は「嫌い」の丁寧語だということが、高校生で時の止まったままのあなたには分かるかしら。


話を戻す。あなたは文字通りのお馬鹿さんだったから、大学はあなたのことを考えて選んだ。勿論、偏差値がそれ程高くなくバスケ部が有名なところだ。私は自分の将来をあなたに委ねるくらい、あなた一色だった。あなたは気付いていたかしら。

ああ、そうね。気が付いたら嵌っている、そんなところまであなたたち二人はそっくりよ。


「妹です」

あなたの家に呼ばれた時に紹介してもらった幼い少女、それがまなちゃんだった。私は子供が嫌いではなかった。それに彼女はあなたと血が繋がっているのだと考えた途端、たまらなく彼女のことが愛しく感じられた。だから、私は彼女と仲良くなろうとした。しかし彼女は私を嫌った。

まなちゃんは、兄妹二人の世界に突如現れた私が相当憎かったらしい。

「まなはあなたに嫉妬してるんです。あなたが綺麗だから」

彼女に無視され、水をかけられ、足を引っ掛けられた。その度、あなたはそんなことを言った。「本当はいい子のはずなんですが」と私に謝るあなただった。彼女が私に嫉妬してるのは一目瞭然だったが、それはあなたの言うように私の容姿ではなく、あなたの自由時間を独り占め出来る私の位置に対してのものだった事くらい、良い人面したあなたは気が付いていたくせに。だけど、あなたは馬鹿だったから、どうしていいのか分からなかったのだろう。

嫌われているのだと知りながらも、私は彼女とコミュニケーションが取りたかった。だって彼女はいつかは私の妹になる―――そんな下らない理由を大切にしていた。誠意をもって接していればいつかは届くはず―――そんな根拠のない期待を抱いていた。

大学入学後に、彼女の誕生日だからとケーキを作って持っていった事をあなたは覚えているかしら。綺麗な包装箱を見て彼女は嬉しそうな顔をしてくれた。私に初めて見せてくれた笑顔だった。(ああ、良かった)(これで仲良くなれる)私らしくもなく、ホッとしたものだ。

しかし、私からケーキを受け取ろうとしたとき、彼女はその手を滑らしたのだった。それは故意のものではなかった。ケーキが潰れたときの彼女の顔、あっ…という表情がそれを如実に語ってくれていた。

「いい加減にしろ!」

バーンと机を叩いたあなただった。あなたは彼女を叱りつけてしまった。彼女は何も悪くない、私は勿論彼女を庇った。しかしあなたはそれをよしとせず、今までの彼女の態度全てを糾弾し始めた。今思えば、あなたも我慢の限界だったのかもしれない。彼女、まなちゃんは、何はどうあれあなたに怒られたという事実が許せないようだった。泣きながらふらふらと外に出て行ってしまった。あなたが追いかけようとはしなかったので私が追いかけた。

「お兄ちゃんに叱られた全部あんたのせい」

せっかく縮みかけた距離は以前よりも遠くなってしまったのだと悟った。

「あんたなんかいなくなればいいのに。まなからお兄ちゃんを取るひどい人。大嫌い。あんたなんかいなくなっちゃえ」

彼女は私を詰る。

「嫌い嫌い嫌い、まなは心からあんたが嫌いだ」
「…まなちゃん、」

何か言わなければ、と思っていた。だけど、こういう時、何を、どうすればいいのか、全く分からなかった。その時私はもうすぐ二十歳を迎える頃だったが、自分を明らかに嫌う人の心を融かす術などまだ知らなかった。それと同時に、私が持てる限りの優しさはこの少女には何の意味を成さないのだと知って、(…もう無理かな)と諦めの気持ちが入ってしまったことも否定出来ない。

(ああ、でも、まなちゃんは私の義妹になるのだから、仲良くしておかないと)

そう思い直そうとしては、

(何で私がこいつのご機嫌取らなきゃなんないの。もう疲れた。私だってあんたのことが嫌いになりそうだ、)

感情が付いていかない。

「成実さん、」

悩む私の背後から、突如声をかけたあなただった。「いいんです。ほっといて下さい」と彼女を見下ろしながら言うあなただった。

あなたの言葉がまなちゃんは信じられなかったみたい。

「…ほっとく?ほっとくってお兄ちゃん、まなを?まなをほっとくの?そんな…お兄ちゃん、そんなの、ひどい。…嘘だよね?」
「………」
「…あれ?…もしかしてお兄ちゃん、怒ってる?あれ?何で?…もしかしてまなが悪いの?あれれ?」
「………」
「お兄ちゃん?」
「………」
「…お兄ちゃん、どうして?」
「……分かんねーの?」
「分かんないよ。まなはお兄ちゃんと一緒にいたいだけだよ。何でお兄ちゃんが怒ってるのか全く分かんないよ。というか、まなからしたら分かってないのはお兄ちゃんの方だよ。どうして分かってくれないの、お兄ちゃん、ねえ」
「…まな、」
「お兄ちゃん、何でそんな目でまなを見るの?お兄ちゃん?」
「…兎に角、お前、我が儘過ぎる。他人様に迷惑かけんな!」
「え?我が儘?お兄ちゃんと一緒にいたいと思うのが我が儘なの?それに今、まなのことお前って呼んだ?嘘だよね?ねえ?お兄ちゃん?」
「………」
「お兄ちゃん?」
「………」
「…………分かった。じゃあもういい」
「まなちゃん!どこ行くの!」
「成実さん、いいんです」

行き場所は分かっていますから、と私の肩に手を置いたあなただった。



私はあなたを救いたかった。あなたの苦労を少しでも減らしたかった。ただ、それだけで動いていた。

それだけは分かってほしい。
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