一人目。
放課後。オレンジ色の光が差し込む教室の中で、俺と赤司は将棋盤を挟んで向かい合っている。全中も順調に勝ち進んでいる今、たまには息抜きも必要だと監督が休みをくださったのだ。
パチ、パチ…
「………」
いつもなら気にしない程度の無言。存在するのはお互いが駒を打つ音、それのみ。しかし今日だけは、なぜか言いようのない気まずさを感じた。場を取り直すように言葉を発す。
「…無断欠席したというのは本当か?」
赤司は少し驚いたような素振りを見せた。
「…本当だよ。まなのせいでね」
「あの馬鹿、」
「初めてだった。先生に怒られたのは」
「先生もお前にはさぞかし怒りにくかったことだろう。栄坂が迷惑かけて悪かったな」
「ははは、そうだね。ところで、どうして緑間が謝るんだい?」
(…?)
少しだけ、敵意を向けられたように感じた。(…なぜ?)驚きつつも、それに気付かないふりをして会話を続ける。
どうしてか、だったか。それは、いつもこうだったからだ。
「栄坂の尻拭いはいつも俺だった。昔からの癖だ。気に障ったのなら、それこそ謝ろう。すまん」
「そうか」
赤司の目が鋭いものから穏やかなものへと変化する。少しだけホッとした。
「羨ましいね」
「なにが」
「僕がお前の位置にいたかった」
「位置?」
「まなの幼なじみという位置」
思わず顔が崩れた。
「…なにバカなことを。冗談は寝て言え」
お前は耐えれるか?あの栄坂の幼なじみだぞ?
罪をなすりつけられることなんてしょっちゅうだった。俺は少しも悪くないのに、あいつのせいで怒られることが何度もあった。しかも、あいつはそれを少しも悪いと思っていなかった。俺が遂にキレて喧嘩になると、すぐに泣いてこれまた俺が悪いみたいになった。あいつの兄が亡くなってからは、それまでが馬鹿みたいに俺に懐いた。周りの視線も気になるからと少し突き放すと、今度は遠くに離れていく。繋ぎとめようと優しくすると、またくっついてくる。非常に手が掛かって面倒だった。あいつのお守りは大変だった。
(それでも俺が羨ましいと言うか)
信じられない、という目で俺は赤司を見つめた。その視線を真っ直ぐに受け取って、赤司は俺に何とも痛い言葉を吐く。
「僕がお前なら、もっと上手くやれたのに」
瞬間、背筋を何かが通った。
「…どういうことだ」
「緑間、わかるだろう?」
「わからん」
「逃げるな」
「…逃げてなどいない」
「じゃあ、噛み砕いて言ってやろうか。お前が上手くやれなかったおかげで、僕が今、まなの隣にいる。お前がもう少し器用だったのなら、まなの依存の対象は僕じゃなくてお前だった」
そこには僕が入り込む余地などなかっただろうね。怖い話だ。と赤司はつけ加えた。さらに続ける。
「羨ましいといったのは、お前ではなくお前の位置だ。そこを勘違いするなよ。僕がお前だったら絶対に上手くやれた。…まあそれとは別に、過去のまなを知っているお前は単純に羨ましいとは思うが」
(…何を、)
何を言っているのだよ、赤司。お前はまなを全然わかっていない。今でこそまなはあれだが、昔はただのギャングだ。
「…赤司、まなは、」
その空虚な妄想を壊してやらねば、と思った。しかし口をつぐむ。瞬間的に雰囲気が変わったのを感じた。赤司の目が映すのは、俺への敵意。いや、違う。これはきっと、
「お前に教えてもらうことなど何もない、緑間」
僕はお前なんかよりよっぽどまなのことを知っている、と赤司は言いたいのだろう。
「っ…」
これはきっと、まなとの微妙な距離を保つ俺への非難。
「…すまない。少し過敏になっているようだ」
「…気にするな、」
赤司が謝ったことで俺たち二人の雰囲気は、表面上、和んだ。しかし痛いところを突かれたという気持ちに変わりはない。
盤上の駒たちはいつの間にか俺を裏切って、赤司有利に動き出していた。
「…栄坂のどこがそんなにいいのか俺にはわからん」
どうしてお前は栄坂みたいなのと一緒にいられるのだよ、と少し話を逸らす。
「それは僕よりもお前が分かっているはずだろう?今となっては僕が羨ましくて羨ましくて仕方ないくせに、よくそんなこと言えるものだ」
「……っ(なっ何なのだ、一体!)」
ここで赤司が「ははは」とでも笑っていてくれたのなら、微妙な雰囲気はすぐに修正されていただろう。それを期待しての発言だった。だけど赤司はそうしなかった。
返す言葉がない。
再び剣呑な雰囲気が顔を出す。
(ちっ…)
こんなことになるならば最初から口を開かなければ良かったと思う。今日の赤司はいつもと違う。一つ一つの言葉にトゲがある。まるで糾弾されているようだ。
(これはきっと、まなとの微妙な距離を保つ俺への非難)
しばしの無言の後、赤司が再び言葉を発した。幸いなことに、それは話題を変えるものだった。
「…で、お前はどこの高校への進学を考えているんだ?」
まだ全中も終わってないのに気が早いかな。と赤司は笑ったが、その腹を、その真意を、この状況では探らずにはいられない。何と答えようかと迷った。本当のことを言えばさらに赤司を怒らせるだろうと思った。
だが、それでいいと思い直す。俺は栄坂の幼なじみだ。たとえ、微妙な距離であったとしても。赤司に遠慮することなどないのだ。
「…高校は、俺が栄坂の学力に合わせることになるのだよ」
当然のことだ。ずっと前から決めていた。栄坂が俺から離れていったあの日から。遠くから見守ることを決めたのだ。高校で離れるつもりなど、毛頭なかった。
怒らせるか、と思ったが赤司の表情に今のところ変化はない。
「その必要はない」
ただ、その声を除いて。
「お前らはもう離れる時期だ。まなにお前はもう不要」
「…何を分かったようなことを」
「緑間、今まで僕が間違えたことがあったかい?」
たたみかけるように言葉をかぶせられ、有無を言わさないような目で直視されれば。
思わず頷いてしまいそうになる。
だが、ここで屈するわけにはいかなかった。
「赤司、聞け」
自信を持って言おう。
「お前らは、危ない」
「どういうことだ?」
これはただの勘に過ぎない。ただの勘が赤司を納得させられるわけがない。
そんなことは百も承知。
しかし、俺には、ただの勘が何よりも大切だ。人事を尽くして天命を待つ。その俺には。
そしてまなも同じくらいに大切だ。
何度でも言おう。お前らは、危ない。
そう口を開きかけたその時、
「二人ともー、まなちんが倒れたって。熱出してバタンキュー。親さんとも連絡つかなくて保健室の先生が困ってるってー」
紫原の抜けたような声に遮られた。「…それは本当か!」と腰を浮かそうとすると、赤司に止められる。
「…僕が行く」
(何て、)
何て冷たい目で俺を見るのだ。背筋が凍った。
「…緑間、見ろ」
赤司が指差す先をたどる。そこには、今や完全に赤司の勝利を告げている駒たちの姿があった。いつの間に?数分前まではまだ俺が勝つ道は残されていたはずだった。いつから?いつからだ?…わからない。「どうだ?」「……俺の負けだ」「そうだ。どこで流れが変わったのかもわからないようじゃ、困る」それじゃあ、なんて赤司は行ってしまう。追いかけようとするが、体は動かなかった。
どこで流れが変わったのかもわからないようじゃ困る。
それは、まなのことをも言っているのか。
「赤ちん、こわー。最近妙に苛々してるよねー。噂によると、峰ちんが何かやらかしたらしーよー」
「…青峰が?」
「うんー。何かは知らないけど」
青峰のことなど今はどうでもいい。それより…。いや、今はそれどころでもない。
「…紫原、薬局に行くぞ。薬を買わねばならん」
「えー。ダルい。一人で行きなよー」
「お前の力が必要なのだ。お菓子みたいな、飲みやすい薬が売れてる所、どこか知らんか?」
将棋は敗者自ら負けを宣言するゲーム。
つくづく思う。なんて残酷なのだろうと。