(※ここだけ1912年)
「どこ行くんですか!甲板への出口はこっちです!」
「まな構うな!」
赤司が叫んだ。だけど、私はこの老夫婦二人を止めずにはいられない。「…もういいんじゃよ。老いぼれの乗るボートなどないじゃろう。最期は、婆さんと二人だけで静かに」老女が老紳士に寄り添う。その目に、死の恐怖などなかった。ただ在るのは限りない、この老紳士への愛情と信頼のみ。皺の入った頬が優しく微笑んだ。
「ありがとうお嬢さん。楽しい時間でした。貴女は生きて」
「そんなだめですミヒャエルさん!お孫さんの顔が見たいってあれほど!」
時間がない、と赤司が無理やり私の手を引いた。「もうだめだ!行くぞ!まな!」引っ張られながら、涙が溢れ出してきた。振り向くと、客室へと戻っていく二人の曲がった背中が見える。足元の海水はもう膝まで来ていた。
「ああああああ…!」
耐えきれなくて絶叫する。目に映る赤司の背中が滲む。足がもつれるが、まだどうにか進んでいられた。どこからか銃声が聞こえてきた。「ひっ…」なんでどうして!死にたくない死にたくない死にたくない私はまだ死にたくない。
「よく聞け!お前は生きる!生きて日本に帰る!それから!あんなこともあったんです!こんなこともあったんです!と後日新聞ニュースに出まくるんだ!だからいつまでも泣くな馬鹿者が!」
赤司が私を叱った。その大きな声はたくさんの悲鳴にかき消された。外で何かが起こったらしい。何か、はわからない。だって、私たちはまだ船内にいるから。「うわああああん!」小さな子供が泣き出した。あんなに小さな子供が、まだ船内に取り残されている。親はどこだ?!とキョロキョロしても見当たらない。この混乱の中、はぐれずにいられるほうが難しかった。「うるさい!黙れ!」煌びやかに着飾った女性がその子を蹴った。高いピンヒールは確実にその子の急所をついたのだろう。その子は痙攣した後、ピクリとも動かなくなった。プカリ、と海水に浮かぶ。死んだのだ。途端、溢れ出す非難の声。それらを、女性は全く気にしていないようだった。当たり前だ、この状況で人の生死など構っていられないのだろう。みんな自分が生きるのに必死なのだ。しばらくすると非難の声も止んだ。異様な状況に、喉がカラカラした。目の前で、人が死んだ。
「あ、…あ…」
「…こっちだ」
甲板への出口であるその小さな扉には人がごった返していた。いつ出られるかわからない順番を待つより、赤司は他の扉を探すことに決めたようだ。再び手を引かれ、海水に足をとられながらも進む。ガタガタガタガタ震えが止まらない。もうイヤだ。見つかる当てのない出口。甲板へ出たとしても、救命ボートに乗れるかも分からない。運良くボートに乗れたとしても、今後どうなる?この真冬にドレス一つで大西洋にほっぽりだされるのだ。死ぬなと言う方が酷だろう。
それにこの混乱の中、いつまで二人でいられるのかも分からない。
――――人間どうせ死ぬ。
早いか遅いか。今日か明日か。溺死か凍死か。どうせ死ぬのだ、私も赤司も。それならばいっそ。
「…私たちも客室に戻ろう?」
あの老夫婦のように、二人で永遠にここに沈むのだ。
「僕は戻らない。戻るなら一人で戻れ馬鹿者が」
――――ギロリ。
オッドアイが鋭く私を睨みつけた。それでも、その進む足は止まらないし、私を握るその手は相変わらず強い。
ぐんぐんぐんぐん赤司に引かれていく。ばしゃばしゃばしゃばしゃ足を動かす。ぽたぽたぽたぽた、私の目からも海水は止め止めもなく溢れ出す。
(ああそうか)
赤司はこの手を離す気などさらさらないのだ。
「…赤司と生きるっ!」
「当たり前だ馬鹿!」
怒鳴られた。私は赤司と生きるんだ。
どうにか甲板への扉を見つけ、外に出ると凄まじい光景が目に入った。
お願いだボートに乗せてくれ、と船員に金をバラまく人。もうだめだ、と自ら冷たい海水に飛び込む人。最期までエンターティナーでいることを望んだのだろうか、この混乱の中で優雅な旋律を奏でるヴァイオリニストまでいる。異様な光景、その全てが網膜に焼き付き、そして大脳に流れ込んでくる。私を握る赤司の手が強くなった。私がまた取り乱すのではないかと思ったのだろう。大丈夫、と強く強く握り返した。私は赤司と生きるよ。決めたんだ。その時、ある男と船員のもはや怒鳴り合いに近い言い合いが聞こえてきた。
「乗客分の救命ボートがないってどういうことだ!」
「女子供だけだ!男は下がれ!」
強く握られていた手が急に離された。
「赤司…!」
何考えてるの!と今度は私から繋いだ。離されはしなかったので少しだけ安心する。赤司が足早に歩き出した。私もついていく。そうだ、二人で脱出の道を探すのだ。一隻くらい、内緒で男性を乗せているボートもあるはずだ。命がかかる状況下で、不正を行う人間がいないはずがなかった。そうだ、人間はそういうものだ。
「ここに女性がいます!空いているボートはどこかありませんか!」
「赤司?!なに考えてるの!やだ!やだ!やだ!」
「すいません!ここにまだ女性がいます!お腹には子がいるんです!乗せてやってください!空いているボートはありませんか!」
私をボートに乗せるために、大声でそれでも流暢な英語で、赤司は平気で嘘を吐いた。船員たちはそれを聞いて、ボートの空きを懸命に探し出した。私のお腹に子など、いないというのに。
「おい日本人!こっちまだ空いてるぞ!」
「ありがとうございます!まなほら行け!」
「やだ!やだ!一緒じゃないと絶対にいやだ!赤司と一緒じゃないといや!」
「我が儘言うな!」
赤司が怒鳴った。
僕もあとで行くから!絶対に後で合流しよう!そうだ、陸地についたら港で会おう!出港したリヴァプールだ分かるだろ?!僕もあとからそこに行く!約束だ!少しの別れくらい我慢しろ!
「嘘吐き!!」
今度は私が怒鳴る番だった。平気で嘘をつくこの男を叱ってやらねばと思った。港で会える可能性など0に等しいことくらいこの私でも分かる。赤司から手が離された。「やっやだ!」無理やりに繋ごうとしたら、空振った。代わりにぐいっと抱きしめられて熱くキスされた。お別れのキスみたいで嫌だった。
「…少しの別れだから、な?」
諭された。怒鳴られるんじゃなくて諭された。ぼろぼろと涙が出てきた。
「早くしろ日本人!」
「今行きます!」
あまりのことに足が震えて動けない私を引きずって、赤司が歩き出す。
――――そんな、
死にたくない死にたくない死にたくない。でもそれ以上に、離れたくない。
「赤司と生きるって…」
決めたのに。
小さな呟きはちゃんと届いたらしい。
子どもは二人がいい。日本に帰ったら頑張ろうな。男の子と女の子、両方欲しい。まなに似るといい。僕に似ても、何もいいことないだろうから。
なんて言う赤司に「…絶対生きて。命令だよ。赤司が死んだら迷わず後追うから」と震える声でなんとか返した私を誉めてほしい。
船員に赤司から無理やり引き剥がされた。女だらけのボートに、半ば投げるように乗せられた。先ほどの煌びやかな女性もいた。赤司を見ると、何とも穏やかな目で私を見ていた。タキシードは全身海水で濡れ、ところどころ破れている。
「…後でな、まな」
いつものように、すかした仕草で手を振られた。振り返せるわけないじゃない、と顔が歪んだ。色々なことを思い出した。ホールで踊ったダンス、映画館で見たロマンス、遊戯室でしたビリヤード。走馬灯みたいで嫌な思い出たちは、この沈みゆく豪華客船の中でのものから始まりどんどん過去へと遡る。ハネムーンの行き先を決めた日、結婚した日、仲直りした日、喧嘩した日、付き合った日、出逢った日。全て赤司との思い出だった。涙は止まることを知らない。
「…降ろすぞー!」
ついに船員がボートを繋ぐ紐に手をかけた。「赤司っ…!」ボート共々降ろされていく私を見て、赤司はフと笑った。
「…っ降ります!降ります!」
急に立ち上がったから、ボートが盛大に揺れた。先ほどの煌びやかな女性を筆頭に悲鳴が上がった。そしてすぐに罵声に変わる。「危ないじゃない!」船員も私の行動に肝を冷やしたようだ。「ボートごと落ちるとこだっただろが!」と訛りのある英語で怒鳴られたが、耳に入る全ての声を無視して私はボートから勢いよくジャンプした。その反動でボートはさらに大きく揺れたようだ。酷くなった罵声と飛んできたピンヒールをまたもや無視して、そして沈みゆくこの豪華客船に何とかしがみつくことに成功した。「馬鹿!」赤司が悲鳴に近い声をあげた。「馬鹿!馬鹿!馬鹿!阿呆!阿呆!阿呆!」これは今までにないほど怒らせたかもしれない。私を船へと引き上げる、赤司の口から出る言葉の何とも陳腐なこと。
「何を考えてるんだ!一歩間違えればそのまま海に落ちてたぞ!この高さだと即死だ!昇天だ!ご愁傷様だ!」
本当に馬鹿で阿呆で愚かな行動だ!あのままボートに乗っていれば無事に陸地に辿り着けたかもしれないのに!戻ってきてももう死ぬしかないだろうが!と怒鳴る赤司に抱きついた。
「だから戻ってきたの」
赤司はハッと息を飲んだ。それから衝動的に私を抱きしめた。その腕の力は、相変わらず強かった。
「赤司、諦めてたでしょう」
私をボートに乗せたからって安心したでしょう。
自分の役目終わったからって笑ったでしょう。
「諦めさせやしないわ。赤司の役目もまだ終わってないわ」
生きるよ!私も赤司も!
今度は私が赤司の手を引いた。もう絶対に離しはしない。うじうじしてる私は子どもよりも弱く、心を決めた私は赤司よりも強いことを私は知っていた。
「赤司!考えて!この状況どうやったら打破できる?!」
あとしばらくすれば、この船はきっと真ん中から真っ二つだろう。そうなればもう沈む。デッドエンド、二人で仲良く昇天だ。
難しい。今までに遭ったことがないほどの困難だ。成功すれば赤司と子作り、失敗すれば赤司と死。ハイリスクハイリターンだが、ああでも、どちらにしてもこれで最期まで赤司といられる。今の私にはとって、どちらに転ぼうとイッちゃうくらいに幸せであることには変わりない。
「何で戻ってきたんだ。僕はお前が生きてくれたらそれで」とまだ嘆いているこの男に言ってやる。いいか、よく聞けよ。
「ボートにいるより赤司といる方が生存率が高そうに思えたの」
何年一緒にいると思ってるの。私も赤司も何かを背負ってるときの方が力を発揮するタイプの人間でしょうが。とまくし立てると、まだまだ言いたいことはあったのだが、熱い熱いキスで黙らされてしまった。私に説教などされたくないらしい。
「…時間がない。行くぞ!」
「赤司と生きるっ!」
当たり前だ馬鹿!
赤司が引っ張るでもなく、私が引っ張るでもなく、今度は二人で走り出した。
後日、自宅にてタイタニック号死亡者名簿を辿るとそこにはあのピンヒール女の名前があった。「ほら、ボートにいるより赤司といる方が良かったでしょう?」と得意気な私に、赤司は降参、とでも言うように笑った。
「子作りしようか」
「激しいのお願いね」
それこそ、生きてるって感じられるくらいに。
刧刧刧刧
赤司君お誕生日おめでとう。
衝動的にこんなの書いてしまった。