万丈目#不気味な万丈目 | ナノ
やっぱりおろしたてのヒールを履くんじゃなかったと夜道を歩きながら思った。ただでさえ残業で体が疲れているのに、歩き慣れてない新しいパンプスで歩く辛さ。休みの日に軽く履きならしとくべきだった、とため息が夜風に流されて行く。買ったばかりのものをすぐに使いたがるのは昔からの性分だ。それにしても今日はヘビーな日だった。もともと大きな仕事を抱えていたのにも関わらず、後輩のとんでもないミスの発覚、からのサポート。必死で謝り涙目で修正をかける後輩の先ほどの姿が目に浮かぶ。もともと私たちがきちんと気がついていればもっと早い段階で手を打つこともできただろう、こちらの落ち度もあるのに悲愴に沈んだ彼の姿は少し気の毒だった。きっと彼なら一度犯したミスは二度としないだろう、そんな人柄だとわかっているから彼の後始末に時間を割くことは厭わなかった。まあおかげで終電コースなんだけれども。家に着いたら靴を脱ぎ捨て風呂に入ってさっさと寝よう。幸い残業しながらコンビニで買ったものを同僚たちとつまんでいたものだから、今夜の食事は済んだようなものだし。マンションのエレベーターを降り部屋の前で鍵を取り出したところで、思わず息を飲み込んだ。部屋の換気扇が動いている。確かに家を出る前消したはず。親が部屋に遊びに来る予定もない。嫌な予感がしつつも部屋のドアを開け、室内に入り込んだ。玄関にはわたしのものでは無い黒のブーツが一足。そしてリビングに明かりが付いている。歩きにくいパンプスから解放された足で一歩一歩リビングへ近づいて行く。誰がそこにいるかなんて予想はできていたけれど、そんなことあるはずが無いと頭が否定をしたがる。


「おかえり、残業大変だったな」


さも当たり前かのようにそこにいたのはやはりわたしの予想していた人物で。笑えない冗談は勘弁してくれと心から思った。ソファに座ったままわたしの方に振り向き、へらりといったように笑いかけてくる。その一動が不気味で一歩後ずさると、ヒールで靴擦れた踵が痛んだ。彼はそれから呆れたような顔をして、ほらやっぱりおろしたての靴を仕事場に履いてくもんじゃないと言った。履きならしてからじゃないと足が辛いだろう、と言いながら彼はわたしの手を取り優しく自分の隣に座らせる。まるで全てわかっていたかのように、すぐそばに用意してあった消毒液と絆創膏に手にする彼。


「ねえ準、わたしたち、別れたはずよね」


意を決して彼に問いかけた。彼はまたもへらりと笑みを浮かべ、ほら靴ずれた足を早く出せ、と言う。まるでわたしの言葉が聞こえてないかのようで、気持ちが悪い。準が薄く皮がめくれた踵に消毒液が染み込んだティッシュを優しく当てると、ちりりとした小さな痛みが走った。その痛みがこれは現実のことだとわたしに教えてくる。聞きたいことがたくさんある。なぜわたしが残業だったと知っているのだ。なぜわたしが昨日買いたての靴を履いていったと知っているのだ。そもそも、なぜ、わたしの部屋に入ることができたのか。別れる前と変わらず私に笑みを向ける彼が気持ちが悪い。大切なものを愛でるかのようにわたしの足に触れる彼の体温が気持ちが悪い。


「ねえ、準、」
「あの男、邪魔だなあ」
「…、誰の、こと」
「あの男のせいで君は残業する羽目になったんだ。残業なんかしてたら俺たちの時間がなくなるじゃないか」


お前も足手まといの部下なんて要らないだろう、明日にでも俺が片付けとくさ。彼の静かなつぶやきと換気扇の稼働音が部屋いっぱいに広がる。不気味な空気に胸が押しつぶされそうになり、思わず自分の手を強く握りしめた。おかしい、こいつはおかしいのだ。絆創膏を貼った踵をさすりながら準はわたしの瞳を覗き込む。心配そうにわたしを見つめる瞳が真剣で、真っ直ぐで、まるでわたしが狂っているかのような錯覚に陥る。きっと今の彼は、口にしたことを現実にするだろう。片付ける、と言う言葉の裏に思わず恐怖し、わたしの瞳からは涙が零れた。


「なにも心配することはない、俺がずっとそばにいる」


見当違いなことをいいながら彼はわたしの涙を指先でぬぐい取り、それから優しく頬に口付けた。これならいっそ甲高い笑いを上げながらぶん殴られた方が幾分かましだ。優しく大切に、わたしは壊されて行くのだろう。抱きしめられたぬるい体温が、得も言えぬほど、気持ちが悪かった。


靴擦れの痛みがわたしに囁くのだ。
これは現実なのだと。

20160307
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