「朝は教会の一階にある食堂においで。SNS映えするオーガニックな朝食食べられるよ。まさにティファニーで朝食。どう?」

 昨晩、滝さんにそう言われた言葉を信じてまた少し早起きをしてみた。
 ぬるま湯で顔を洗って化粧水を叩き込む。たっぷり保湿をしてから愛用のコスメで少し気合を入れて化粧をした。
 長い石の廊下を抜けて、西側の階段を降りた先。開け放たれた大きな木の扉をくぐると、円形の広いフロアの真ん中には水路が引き込まれ、大きな木が植えられている。
 吹き抜けの天井に貼られたアンティークガラス越しに、暖かな朝日を差し込んでいた。陽の光がふんだんに当たる木の腰掛けで、コロトックがいたずらっぽく演奏をしている。
 SNS映えと言った滝さんの言葉は間違っていなかったようだ。まるでファンタジー映画やRPGの中に迷い込んだかのようである。
 すれ違う真っ白なシルクの修道服を着たシスターたちは、一人服装の違う私を見ても嫌な顔一つせず、爽やかな笑顔を浮かべて御機嫌ようと挨拶をしてくれる。

「本日の朝食はジャガイモのガレットと、ほうれん草のキッシュ、生ハムのサラダに根菜のコンソメスープですよ。焼きたてのパンはおかわり自由です。デザートには、ミルタンクのミルクを使った水切りヨーグルトにザロクのジャムを添えたものもあります。苦手であればモモンの甘いジャムもありますから、遠慮なく仰ってね」

 ガレットって何だっけ。そんな私の疑問なんてどこ吹く風。千切りしたジャガイモが葉脈のような焦げ目をつけた、綺麗なガレットが出てきた。
 ほうれん草の緑も鮮やかだし、真っ白な粉チーズのかかったサラダも美味しそう。こんな健康的なおしゃれなもの毎日食べ続けるのだろうか。
 朝食を受け取り、どこに座ろうかとトレイを抱えてキョロキョロしていると、一人のシスターが私の肩を叩いて日の当たる端っこのソファ席を指差してくれた。そこにはすでに食事を終えたのか、パソコンと新聞片手にコーヒーを飲む跡部さんと滝さんの姿があった。
 一人だけ服装の違う私はさぞかし目ににつくのだろう。私に気が付いた滝さんは、すぐに手招きしてくれた。おはようございますと挨拶をすると、二人とも少しだけ微笑んで挨拶を返してくれた。隣を開けてくれた滝さんの隣にトレイを置いて、食い気味に滝さんに話しかける。

「本当にすごい朝食ですね!!」
「でしょ?」
「こんなの初めてです!」
「日吉や忍足は嫌がって毎日は食べないけどね。俺は好きだよ」
「そうなんですか?」
「ジョウトの朝は米と味噌汁と……えっとオコウコ? の文化なんだってさ」

 滝さんの話に頷きながら、温め直してもらったほうれん草のキッシュを口にほうりこむ。ほろほろと口の中で溶けていく生地とほうれん草が何とも言えなく美味しい。じゃがいものガレットなんて田舎にはなかった。
 今度は自分で作ろうとニコニコしながら食べていると、イエッサンがカゴを抱えて席に寄ってきた。ニコニコと笑う女の子のイエッサンの抱えるカゴを覗き込むと、まだホカホカと湯気をあげる焼きたてのパンが入っていた。
 クロワッサンにデニッシュにバケット。菓子パンまである。おそらく入り口でシスターの言っていたおかわり自由のパンとはこれのことなのだろう。
 どれも美味しそうだが、ちらりと滝さんの方を見ると、私の意図がすぐに伝わったようだ。すぐに身を乗り出してカゴの中を指差した。

「クロワッサンとサワードウバケットは外せないくらい美味しいよ。あと外のパン屋にも売ってるけど超高い」
「じゃそれを二つください」

 中には食事を終了する人たちの姿も見える。私と滝さんがパンを取ったのが嬉しかったのか、さらにイエッサンはニコニコと笑う。あまりにその笑顔が可愛かったのか、食事を終えていた跡部さんもクロワッサンを一つもらっていた。
表面がつやつやとしたサクサクのクロワッサンに、ぎっしりと重たいサワードウ。口に放り込むと、鼻から抜けるライ麦の程よい酸味が何ともクセになる。

「滝さんはどちらのご出身なんですか?」
「俺は生まれも育ちもハキノセだよ。ナマエもだよね?」
「はい。父がホウエンで母がイッシュの出身なので、たまに行くくらいで他は全然」
「跡部さんは?」

 話の流れでパソコンと新聞を広げていた跡部さんにも話を振ると、少し驚いた顔をされてしまった。
 何かまずいことを聞いただろうかと、思わず口元を押さえる。というか、読んでる新聞が経済系の新聞だ。おそらくパソコンで見ているのも会社か何かの資料やメールなのだろう。
 邪魔をしてしまっただろうか。とオロオロしていると、隣の滝さんがくすくすと笑いながら大丈夫だと言った。その代わりに跡部さんは少し気まずそうである。滝さんを去なすかのように、こほんと一度咳払いをした。

「……生まれはハキノセだが、物心つく前から十五の時までガラルにいた」
「え、ガラル? ガラル人はどこでもかしこでもカレー作り始めるってあれ本当です?」
「カレーはガラルの文化だ。今度作ってやるよ」
「え、食べたいです!」
「今度な。それから今日は大切な用があるから……あー、お前フォーマル持ってるか?」
「え? フォーマル?」
「……よし買いに行くか」

 フォーマルな服が必要な予定とは、一体なんなのだろうか。フォーマルを持っていないわけではない。きっと実家のクローゼットの中で埃除けカバーを被せられているはずだ。最後に着たのは、二年前の友達の結婚式。ここにはバトルの修行、または二回目の旅くらいの感覚で来てしまったので、持ってきているわけがない。なんならこんな立派な部屋を用意されることすら想定外だったのだから。
 取りに帰るのはどうかと提案するが、腕時計を見るとすぐに首を振る。跡部さんは、そのまま渋い顔をしてスマホでどこかに電話をかけ始めた。電話の相手は誰だかわからないが、苦虫を噛み潰したような顔をして買い物に行くことを伝えている。跡部さんのこんな顔は初めて見た。

跡部さんの電話の行方を見守りながら、朝食をひたすら口に運ぶ作業をしていると、食堂の入り口の方からわっと声が上がる。そこら中にいたシスターや修道士たちがまるで波が起こったかのように頭を下げ始めた。あまりに異様な光景に倣って頭を下げようとするが、隣にいた滝さんがしなくても大丈夫だと囁いた。
 皆の頭を下げた先にいたのは、一人の若い男性だった。アクト正教のことも、アングのことも正直詳しくない。そんな私でも知っている人だった。

「アスター司教……!!!」

 銀色の髪に、銀色の目尻に、垂れ下がった目。緑色の目のふちには、長いレースのようなまつ毛がお行儀よく並んでいる。色素の薄い肌に、男性では珍しいピンク色に色づいた唇。
 まるで跡部さんと対になるようなカラーリングの彼は、若くしてアクト正教にたったの数人しかいない司教の座を射止めた。詳しく無いので司教が何人存在するのかはわからないが。数年前に、圧倒的なカリスマ性で年齢不詳とまで言われた人。
 見た目がメディアや女子受けするようで、よくアクト正教の催事で撮られた写真がSNSに上げられている。要するにアクト正教のアイドル的人気を誇る司教。

ここでしばらく過ごしてきたが、アスター司教の姿を見たのはこれが初めてである。おそらく、食堂にいるみんなの反応を見るからに、そう簡単に人前に現れるような人でもないのだろう。
 アスター司教は一通り皆に挨拶をすると、こちらに向かってまっすぐ歩いてくる。司教のみが着用を許させるらしい真っ白なローブをふわりとたなびかせて私の前に立ち止まる。
 状況があまりに飲み込めず、固まっていたが、目の前の跡部さんは通話の途中で電話を切った。そしてすぐさま頭を下げて挨拶をした。慌てて頭を下げると、アスター司教はコロコロと笑った。

「御機嫌よう、ナマエさん。調子はどうですか」
「お、おはようございます司教……!」

なぜ私の名前を知っているのか。そんな質問は憚られた。

「昨日ネットハイシンで見ましたよ。素晴らしい行いでしたね」
「ネット……配信????」
「ええ、ヤナギ神父が見せてくれました」

アスター司教は、こてんと首をかしげる。私も彼と同じ様に首をかしげると、いつの間にやら電話を終えていた跡部さんは、見かねた様に私に自分のスマホを寄越した。
 昨日はバトルの疲れてめまいがひどくてすぐに寝てしまったが、何かあったのだろうかとスマホの画面を覗き込む。開かれていたページはとても有名なネットニュース。そこには、トップに昨日のネムたちとのダブルバトルの映像が載っていた。ネットニュースの見出しは一言。「タイジュの妹現る」しかも急上昇ワード一位である。

「なにこれ!?」
「昨日のバトル、誰かが撮ってSNSに上げたらしいな。まぁ、今のご時世良いバトルがネットに上で回るのは珍しいことじゃねえからな」
「私も最後まで見ましたよ。とても素晴らしいバトルでしたナマエさん」
「恥ずかしい!」

 アスター司教の緑の目が私をまっすぐに見据える。彼の目は優しく、何者でも受け入れるという、まるでこの協会の空気そのものであった。

「善なる事を選べば彼女は必ず導いてくれます、ミス。僕からもあなたを四天王に推挙しておきました」
「え?」
「タイジュのことも僕が見つけますから。きっといつも通り元気です。困ったら私の家族があなたを助けます。だから安心なさい」
「あ、ありがとうございます……」

 そういうと、アスター司教は跡部さんを見て目を細めていたずらっぽく笑う。跡部さんはアスター司教の様子を見ると、似たような笑みを返す。

「構いませんね? アトベ」
「もちろん。では大司教によろしくお伝えください」
「……ええ、必ず。さて、朝の忙しい時間にお邪魔して申し訳ない。皆さんどうぞお食事を続けてください」

 アスター司教は、胸元でキラキラと輝く真っ赤な石にキスをしてから祈りを捧げる。
 深い赤みを帯びた水晶のような石。アクト正教の信徒がお祈りに使う石だ。アクト神の涙が固まってできたものと言われており、ネットショップなどではめちゃくちゃな数のまがい物が出回っている。
 しばしばファッションやヘアの業界でもトレンドカラーに上がる、「アクトガーネット」と呼ばれるもの。
 ちなみに本物のアクトガーネットが、たったの一粒12の数字の代わりについたハイブランドのウォッチは、一つ桁が増える。
 アクトガーネットがふんだんにあしらわれたアクト正教の大司教の持つ祭杖は、年に一度人前に現れると海外の有名な雑誌に載るほどだ。金持ちのインステグラマーは、エンゲージリングにこぞって選ぶ。

 初めて見た巨大なアクトガーネットに目を奪われていると、目の前から跡部さんが咳払いをした。アスター司教が去ったのを確認すると、跡部さんは私に向き直った。

「今司教の口からあったように、お前をアクト正教、ひいてはポケモン協会に正式に四天王として推薦した。アスター司教率いる派閥はでかいから、あそこが推してくれるなら間違いなく通る」
「……あの動画は跡部さんが載せたんですか?」
「まさか。ということだ。お前は記者たちの晒し者になるわけだから、フォーマルを買いに行くぞ」
「あっ、そこにフォーマルが繋がるのですね……」
「げ」
「え?」

 跡部さんが入り口の方へと目線をやる。そして体を屈めた。疑問に思い、滝さんと二人で入り口に目をやると、ひとりの女の人が立っていた。
 シスターたちとはまた違った、異質な存在。その人は、食堂中を見渡して何かを探している。おそらく、今「げ」と声をあげた跡部さんだろう。滝さんはその様子を見るとケラケラ笑った。どうやら、あの人物に見覚えがあるらしい。跡部さんの代わりに手を挙げた滝さんを確認すると、一目散にこちらに向かってくる。
 コツコツ、と白い石の床に軽快に響くヒールの音。ここまで急いできたのだろう。オフィスカジュアルに身を包んだ彼女は、肩を上下させて息を荒くしている。息を整えがてら、食事をしていた私たちを一瞥。
 マスカラたっぷりのボリューミーでドーリーな目は、最後に跡部さんを捉えて睨みつけた。大ぶりやピアスが音を立てる。

「ねえ! なに! 急に仕事行けないってどういうこと!?」
「……もっと静かに歩け。リコ」
「ヒールで静かに歩けるわけないでしょ!」
「うるせえ」
「これも今日までなの! これも、これも!!」
「あとでやる」
「後っていつの話!?!?」

 美女が来た。
 濃い色の口紅で、綺麗に縁取られた唇。カールしたアプリコットオレンジの髪の毛が、ガラス越しに差し込む光を受けてツヤツヤ光っている。つんと上を向いた小さな鼻には、真珠みたいな綺麗なハイライト。絵に描いたような美女の登場に、思わず目を見開いてしまった。彼女は、跡部さんと知り合いのよう。おそらく、先程すごい顔をして電話をしていた相手が彼女だろう。
 美女は、正面に座っていた跡部さんをソファーの奥に追いやると、跡部さんの隣に腰かけた。そしてすぐさまカバンから手帳やら書類を取り出して、跡部さんに突きつけた。リコ、と呼ばれた女性は、自らをぞんざいに扱う跡部さんの頬を摘んだ。そのまま仕事の話が始まってしまい、私と滝さんは完全に蚊帳の外だ。

 いつもより少し乱暴で、砕けた口調。跡部さんは不機嫌そうに終始眉を潜めているが、美女は御構い無し。慣れっこといった様子。加えて、リコ、景吾くんと呼び合える間柄とは一体なんなのだろうか。
 二人の様子をじっと観察していると、胸のあたりがムカムカしてきた。もやもやと広がるこの感情は、ヤキモチなどというにはあまりに漠然としていた。なんと例えれば良いだろう。少しいいなと思っていた、隣の隣くらいのクラスの人が彼女と歩いているところを見たような。ショックを受けると表現するには程遠い。

「…リーグの関係者の?」
「いや、跡部の子会社の子だね。幼なじみ」
「なるほど」
「出向してるんだってさ」
「……跡部さんはもしかしなくても忙しいんですね」
「そうだねえ、忙しいね」

しばらく二人は荒っぽい口調で言い合っていたが、跡部さんが私を指差して話が終わった。

「こいつのフォーマル買いに行くんだよ。この格好で記者の前に放り出すのか? お前もなかなか殺生なことするもんだ。知らなかったぜ」
「は?こいつって……誰」

 美女は眉を潜めて私を見た。つま先からてっぺんまで舐めるように。まるで、オーロラビームのように冷たい目線だ。瞬きをするたびに風が吹きそうなくらい長い睫毛。少し羨ましく思えて、自分の睫毛に手を伸ばした。

「新しい四天王」
「……ふうん」
「あの、私一人で買いに行くので、お気になさらず……」
「あなた、名前は」
「え、ナマエです」
「……え、あなたが?」
「え、まさか」
「あなたが噂の」
「やっぱり!」

 またでた。跡部さんを取り巻く周辺には、私に対して何らの噂が存在するらしい。今までしかめっ面していたはずの美女が一転、ただでさえ大きな目をこれでもかと大きく見開いた。

「……いいわ、私もついて行ってあげる」
「いらねえよ」
「はあ?! 景吾くんウィメンズのトレンド知ってんの!?」
「知らなくとも店員が知ってる」
「いいじゃん、跡部の車五人乗りだしさ。俺も行こうかな」
「何で俺様が運転するで決まりなんだよ」
「車の保険景吾くん以外無理じゃん」
「当たり前だ」

 ワイワイと賑わっている間に、話がどんどんまとまっていく。私の服を買いに行くだけなのに、話がどんどん大きくなってきてしまった。私が一人で買いに行けば済むのではなかろうか。
 みんな私を頼りない子供のように扱うが、こう見えても成人済みの大人である。クレジットカードもキャッシュカードも、銀行に貯金だってある。
 傷をほじくり返すことになるが、彼と結婚式で使う予定で溜めていたお金も。一人で行ってきますと切り出すタイミングを繋がっていると、跡部さんとバッチリ目が合った。

「行くか」




「真っ黒と真っ白は後々面倒だからやめなさい。あと赤」
「ナマエ、どれがいい」
「えっ、いや、あの」
「あっ、これこの間パパラッチされてたセレブが来てたやつ」
「こっちは女優がガラで着てたな」
「これはルリナがコレクションで着てたやつ!」
「よかったな買っちまえ」

 愛を込めて大声で言いたい。この人たちは馬鹿なのかと。
 英語で書かれたタグをくるくるひっくり返す作業すら、もう嫌になってしまった。そもそも表記されてる通貨が違う。
 なんですぐ使うフォーマルを買いに来ただけなのに、なぜセレブ御用達のショップにまっすぐ入るのだろうか。
 スニーカーにティーシャツとジーンズではダメ。流石にこれはわかる。ほかの所では良いのかもしれないが、リーグの起源が起源なだけあってノー。リーグに誰かが新たに就任しようものなら、それ専用の式典が執り行われる。
 お布施の一環であったとはいえ、あくまで我々のバトルは神に捧げるもの、という名残が感じられる。なので、式典の際はフォーマルで参列するのが無難だろう。
 だが、なぜ私はこんな桁の多いドレスを見ているのだろうか。さっきの深い赤のロングドレスなんて十万円を優に超えていた。そこらのショッピングモールですら、ドレスの専門店が入っていて、一万円でつま先まで揃う時代なのに。

「絶対膝は見えてないほうがいいわ」
「あんまり時間ねえんだ気に入ったの探せ」

高くても三万程度でなんとかなると思っていたのが大間違いだった。痛い出費だ。気に入ったもクソもあるものか。後一桁少なければ、可愛いのに。

「えっと、」

 まったくもってドレスのデザインが頭に入ってこない。袖があって、露出が少なくて、膝が出ないデザイン。それから黒と白と赤以外。それだけを頭に入れて次から次へとドレスをめくる。が、何もピンとこなくて最後までめくり終えてしまった。当たり前だ。
 すると、私の様子がおかしいことにようやく気付いた跡部さん。私に一歩近づくと、あっちの棚を見ようと提案して連れ出してくれた。滝さんと美女は、まだ同じラックを漁っていた。

「どうした? 気分でも悪いか?」
「いえ、そんなことは、ないんですけど……」

 お金が。なんて口が裂けても言えなかった。誤魔化すようにちょうど目の前にあったドレスを掴んで、素敵ですねと取り繕う。ちなみに今掴んだドレスの値段は、レートを適当に計算すると二十三万円だ。すると、跡部さんはおもむろに私が掴んでいたドレスを私からやんわりと奪った。そして、そのまままたラックに戻してしまった。

「えっ」
「わかった」

 と優しい声でそう言うと、跡部さんは私の頭を一度撫でてから美女のところへ戻ってしまった。
 気分を悪くさせてしまっただろうか。それもそうだろう。仕事が忙しい中、自分の時間を割いてわざわざこんな所まで連れてきてくれたのに。私は嬉しそうな顔ひとつしないのだから。
 やってしまったという後悔が、波のように押し寄せてくる。第一、最初から「自分の予算はこのくらいだ」と価格帯を明確にしていなかったのが悪いのだ。
 なんと言って謝ればいいのだろうか。今更喜んで見せるのもおかしな話だが、彼の行為を無下にしてしまったことをどうしても謝りたい。先ほどとったドレスが気に入ったと言えば良いだろうか。すぐさまここから逃げ出したい気持ちを抑えて、先ほどのドレスを取りに戻ろうとすると、後ろから誰かに腕を引かれた。

「う、わ」

 バサリと音を立てて、私の前に綺麗な淡い青の膝丈のドレスがあてがわれた。ちょうど目の前に用意された鏡には、泣きそうな顔をしている私。それから、このドレスを私にあてがう跡部さんが写っていた。

「……え」
「ショーケース見た時からずっとこれが似合うと思ってた」
「これ、」

 この店は、跡部さんが車を止めて、一番最初に立ち止まった。このドレスは、ショーケースに飾られていたマネキンが着ていたものだ。

「悪かったな。好みの店じゃなかったかも知れねえが、俺様がお前に贈りたいドレスはここのだったんでな」
「え?」
「一応お前の好みも聞こうと思ったが……。第一、お前が行きたいかどうかも確認してないような店で、お前に払わせるわけないだろ」
「……き、気付いてたんですね。でもお金は払います」
「ばあか、ここは俺様を立てると思え」

 そう言うと、彼は近くにあったヒールとドレスを私に持たせると、そのまま試着室に押し込んだ。ようやく一人になってへなへなと床に座り込む。
 ガラル人やばい! というより、跡部景吾という人間がやばい。どう考えても身がもたない。急激に集まる熱を押し返すかのように手で顔を仰ぐ。

 ドレスを着て試着室から出たら、彼から浴びせられる屈託のない賞賛に元どおりの茹でダコなってしまったのは、また別の話。
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