滝さんが持ってきてくれた救急箱で、適当に怪我の応急処置をする。そして、カバンの一番上に入っていたトレーナーとジーンズを取り出す。
 壊れてしまったブーツは諦めて、履き慣れたグランドスタンドに足を通す。少し低くなった視界には、安心感があった。
 ボディバッグにバシャーモのモンスターボールだけ入れる。準備万端と出掛けよとしたのだが、プクリンの恨みがましい顔を見て、アイスを食べる約束をしていたのを思い出した。
 先程のようなことが再発してはたまったものではない。と、プクリンのボールに、さっきの男に貼られていた飛び出し防止のシールを貼ってから鞄に入れた。
 スマホで跡部さんに電話をすると、大聖堂の入り口に来るように言われた。

「え、ここどうやって下行くのかな」

 角部屋なので、右に行けばとりあえず行き止まり。左に行けば良いのだろうが、そもそも跡部さんの言った大聖堂の入り口とは、一体どこを指しているのだろうか。
 いかんせん入り口から入ってきていないのだ。五年以上前の話にはなるが、大聖堂には一度入ったことのある。だがハキノセリーグの地下バトルステージは、確か全く違う入り口から入った気がする。
ロビーのようなところがあってそこが出口になっているのか。はたまたこの通路のどこかが、大聖堂の大広間のようなところにつながっているのか。
アクト正教徒ならば知っているのかもしれないが、私はホウエン出身の父と、イッシュ出身の母の子供だ。我が家はもれなく無宗教である。
観光でここに幼い頃に連れてきてもらった記憶はあるが、家族全員揃ってこの大聖堂を見た感想は「すごい」だとか、「綺麗」だとかその程度である。
 すると、タイミングよく隣の隣の扉が開いた。跡部さんにはすぐに行くと言ってしまったし、これを逃せばチャンスが無くなる。背に腹はかえられぬと、部屋から出てきた人物をとっ捕まえた。

「あ、あの! すいません! 入り口ってどうやっていけば……って」
「ん?」

 勢いに任せて腕を掴んでから気がついた。この人、とても見覚えがある。
 特徴的な丸眼鏡に、ふわふわと跳ねる長い猫っ毛の長身。腕を掴んだ私の顔を訝しむように見てから、顔を覗き込むように腰をかがめた。

「…お、したり、ゆうし!?」
「…今おるところの入り口聞いてくるやつなんか、会うたことないで」

 さすがアング。さすがポケモンリーグの本拠地。ノースチュア大聖堂。というより、この一角がおそらく四天王および、チャンピオンに振り分けられている区画なのだろう。あまりの驚きに掴んだ腕をものすごい勢いで離してしまった。

「あの、これには事情が、あ、すいません、はじめまして私……!」
「あー、わかったで。あんたが噂の妹やろ」

 デジャヴであろうか。
 何故ここにいる人間は、私を噂のと呼んで楽しそうに笑うのだろうか。私の噂を私と面識のない2人が知っているとうことは、完全に発信源は兄で確定だ。
 たしかに少し部屋は汚いし、怪我の武勇伝もたくさんある。兄にバトルで負けて泣かされた回数も数知れない。だが、そんな噂になるようなことをした記憶はなかった。

「ま、また噂……」
「そこは置いとこか」
「気になるんですが……」
「俺は入り口知らん理由の方が気になるけど。ま、どうせ跡部のせいやろ。知らんけど」

 忍足さんは、話を逸らすかのようにボールを取り出す。中からはサーナイトが出てきた。
 忍足さんは入り口やって、と一言告げる。サーナイトはにっこり笑うと、私と忍足さんの手を取った。一瞬だった。視界がぐるりとわまるような、反転するかのような、崩れるかのような。そんな感覚が少し恐ろしくて目を瞑る。
 しかし、目を開けてみると、噴水の縁に腰をかけて、チルットの相手をしている跡部さんがいた。そうか、サーナイトのテレポートだ。

「はい到着」
「なんだ、忍足も一緒だったのか」

 跡部さんは隣にいたチルットの羽毛を数回撫でてから、おしまいだと言うように頭をポンポンと叩く。満足げなチルットが空に飛び立つと、立ち上がってグッと背伸びをした。忍足さんはボールにサーナイトを戻すと、ため息を吐き出す。

「何やねん。ちゅうか入り口知らんてどういうこっちゃ」
「まぁ色々あってな」
「やっぱ跡部のせいやん」
「ちょうどいい。サーナイトを貸してくれ」
「なんでやねん」
「メイン通りに行く」

 そういうと、忍足さんは少し伸びた髪の毛をボサボサにする勢いで頭をかいた。

「あほか。アングでテレポートしてみい、条例違反や罰金や」
「そうなんです?」
「せやで。アングにはぎょうさん小難しい条例たくさんあんねん。テレポートの規制の他にも、ローテとトリプル以外は表で三体以上出したらあかんし、規定場所以外のバトルもあかん。トレーナー乗せての飛行も高度とかあるから気いつけや」
「今テレポートしてきただろお前」

 ニヤリと笑った跡部さんに、忍足さんは苦笑いをする。どうやら条例のことも、テレポートのことも跡部さんは知っているみたいだ。アングに暮らしているのなら当然といえば当然なのだが。

「ここは治外法権みたいなもんやろ」
「ま、そういうことだ。プクリンはちゃんと連れてきたな?」
「はい!」
「おいサーナイトがダメなら忍足。車出せ暇だろ」
「……どこ行くん?」
「アイスを食べに」
「はあ?」

 ☆

「どれにするんだプクリン」
「……」
「……」
「おい、お前達も早く選べ。奢ってやるよ」
「はあ、」
「いや、なんちゅうか」

 お目当てのアイス屋さんは、メイン通りに近いメイン広場にあった。人がまあ多いのだが、別の理由で私たちの周りには人垣ができていた。
 身長が足りず、メニューが見えないプクリンを抱えるチャンピオンの跡部さん。先も指摘された通り、プクリンはハキノセでは珍しいポケモンだ。裏路地に持ち込めば、掻っ攫われるくらいには。
 そしてハキノセで一番と言っても過言ではないトレーナーが、それを抱えている。しかもプクリンのお目当てのアイス屋さん、パステルカラーのピンク色の看板に水色のネオン。客層は女子高生ばかり。気がひけるくらい周囲の注目の的になってしまった。
 アイスの列に並んでいる若い女の子達は、スマホを構えて写真を撮ったりしている。跡部さんは慣れっこなのかどこ吹く風と言った様子。昔から写真が大好きなプクリンは、ニコニコ笑いながら渾身のポーズを決めている。とても目立つ。

「あ、じゃあプクリンと全く同じものをお願いします」
「俺もそれでええわ」

 そういうと少しだけ眉をひそめてから跡部さんは、アイスを三つとコーヒーを頼んだ。
 なぜあんな顔をしたのかと忍足さんと顔を見合わせる。数分後に手渡されたアイスは、星とハートがキラキラと大量に輝くウサギのアイスだった。忍足さんが持つには少し可愛すぎる。今度は眉をひそめたのは、忍足さんの方だった。跡部さんは大爆笑しながらコーヒーを飲んでいた。
 広場のベンチに腰掛けながら、 アイスを食べる。自分と同じピンク色の耳が生えたウサギのアイスにプクリンは満足げだ。完全に共食いである。

 このメイン広場には一度だけきたことがある。アングの名物でもあり、腕利きのトレーナーが集まる場所だ。街の至る所でバトル規制がかかっている中、此処には5面の広いフィールドが設けられている。
 私が訪れたときにはなかったが、夜遅くまでバトルに励むトレーナーのためにナイター施設、それからバトルの成績が表示される大きな電光掲示板まである。
 タイミングがよければ、リーグに挑戦間際のトレーナーに相手してもらえることもある。反面、生半可な気持ちで参加すると、財布の中身を根こそぎ持っていかれてしまう。
 懐かしい。ここに来るのももう五年以上前のことだ。アイスを食べているプクリンも、珍しさから何回かバトルを申し込まれるも、本人がすごい嫌そうな顔をして断っている。
そういえば、私はこの子が具体的にどんな技を使えるのかさっぱり知らない。お風呂が大好きで、扉にぶつかるだけで痛いと大騒ぎするこの子が、たいあたりをするところが全く想像ができなかった。まあプクリンの攻撃はたかが知れているのだが。

 向こうのフィールドでは、フライゴンが砂嵐を巻き上げて、どこかのフィールドからはじしんが起こっている。老若男女問わず集まるここは、強さを求めるトレーナーにとっては最高の場所だろう。
 すると、ムーランドを連れ立った少年が一人、こちらに近付いてきた。跡部さんと忍足さんもその存在に気がついたようで、まっすぐに少年を眺めている。知り合いなのだろうか、と少年の動向を伺っていると彼の前に仁王立ちをした。

「今日こそバトルしてよ!」
「よお、この間の大会見たぜヒイラギ」

 ヒイラギと呼ばれた少年は、年齢は十五歳くらいだろうか。声変わり途中で掠れた声。少し焼けた肌が、まだ真っ白な歯がよく似合う。凛とした大きなつり目が、まだ幼さを残していた。
 隣にいるムーランドも、よく育っているのことがよくわかる。これだけの年齢も実力も幅広いトレーナーがいる中で、ポケモンが堂々としているというのは強さの象徴でもある。ヒゲのように伸びた毛並みがツヤツヤしていて、トレーナーの手入れの良さも伺えた。

「彼は?」
「ああ、このあいだのアンダー18の大会の優勝者。十四歳やねんて。末恐ろしいガキやでホンマ」
「へえ、今はそんな大会があるんですね」
「ハキノセ中回ってバッジ集めるのには、どうしょうもない金と時間かかるからな。本格的にジム巡りやってるんはやっぱりハタチ超えてからがほとんどや」
「あぁ、確かに私もすごく時間がかかったなあ……」
「持ってなくても強い奴は強い。ハキノセはアクトさんのおかげでバトルが盛んやからな」

 兄は、十歳で一緒に育ったリオル一匹を連れて家を出た。私はなかなか踏ん切りが付かなくて、十二の冬に家を出た。それでも元彼と付き合うギリギリまでは、バッジ巡りの旅をしていたのだ。全て集めるのにそれこそ六年近くかかった気がする。
 資金もない。ポケモンだって一朝一夕で強くなったりしない。何度か資金が尽きて実家に帰ったりもした。気持ちが折れて、ただ街を観光していただけの時期もあった。
 十歳から参加が許されるポケモンジム。たった十歳の子供が、トレーナーとして頑張るのは、風当たりが強いことばかりだ。
特にアングは、女性のトレーナーが極めて少ない。トレーナー達によってたかられて、カモにされたこともある。嫌な思い出だ。
 ヒイラギという少年。たったの十四歳で、アンダー18大会で優勝してしまうほどの彼は、本当に芯が強いのだろう。
跡部さんに素直に褒め称えられたヒイラギくんは、誇らしげな顔をしていた。しかし笑顔とは裏腹に、目は座っている。笑っていないと表現して良いものか。満足していないと表現すべきか。ヒイラギくんは、跡部さんに自らと目を合わせろというかのように自らの両目を指差した。

「目を合わせてよチャンピオン」
「フン、生意気だな」
「だってこんなチャンスなかなかないからさ。それとも逃げるの?」
「ばーか。そんなやすい挑発に乗るか」
「なんでだよ! いーじゃん! けち!」
「けちもクソもあるか。チャレンジャーに失礼だろうが。せめてバッジ全部揃えてからいうんだな」

 威勢のよかったヒイラギくんは、跡部さんに軽くあしらわれてむくれてしまった。
 私の時と同じだ。彼は自らがチャンピオンであることに、強い誇りと責任を持っている。彼とノースチュアのバトルフィールドでバトルすることができるのは、八つのバッジを集めた中でもほんの一握り。そこに至らないトレーナーもたくさんいる。その価値を跡部さんは痛いほどに知っている。
毎回リーグ挑戦者が彼と彼のポケモンと対戦する為の、汗水垂らし血の滲むような努力を彼は軽んじたりしないのだ。
 子供から見れば、それはサービス精神のない「けち」なのかもしれないが、ポケモンリーグという価値を考えると妥当な対応だ。
 さすがだな。と思ったのも束の間だった。ヒイラギくんは今度は忍足さんを見た。アイスを食べていた忍足さんも気怠そうに首を横に降る。そして何故か彼は私を指差した。

「じゃあお姉さんでいいや」
「え?」
「バトル出来るの」
「え、できなくは、無いけど……」
「俺お姉さんの事知らないけど強い?」
「……強いかと言われると、まぁ、そうでもないです」
「そっか……。まぁ、お姉さん女だしね」

 ヒイラギくんはもうやけくそだったのだろう。勢いに任せて私にバトルを売ったが、すぐな冷静になった。ニコッと笑った。ほっと胸をなでおろす。
 彼は強いトレーナー探しを再開するかのように、五面のフィールドを遠巻きに物色し始めた。まるで北風にも似たいたずらな子だ。
 少し溶けかけたアイスが手に垂れる。うさぎの顔が半分崩壊しようとしていた。隣に座っていたプクリンのアイスも、同じようにウサギの顔が崩壊している。プクリンが食べるには大きかっただろうか。溶けていることを指摘しようとプクリンの顔を見た。
 すると、何故かプクリンは風船のようにパンパンに頬を膨らませて、エメラルドグリーンの大きな目を不機嫌そうに細めていた。近くでぐしゃりと何かが潰れた音がしたのは、ほぼ同じタイミングだった。

「おい、撤回しろ」

 潰れたのは、空になったコーヒーの容器だった。跡部さんの青い目は、プクリンと同じように細く鋭い。
 怒りが完全に表に出ていて、とても子供相手に発して良いオーラではなかっあ。

「あの、跡部さん、なんて顔してるんですか」
「ヒイラギ、聞こえなかったか」
「このお姉さん有名なの?」
「子供相手ですよ?」
「俺が知ってる中でも指折りの最高のトレーナーだ」
「……俺のムーランドに勝てる?」
「安い挑発になんか乗らないのでは!?」
「お前にその気がないなら俺がやる。おいバシャーモ!」

 跡部さんはなぜか声高らかにバシャーモを呼んだ。その声にすぐに反応したバシャーモは、すぐさまボールから飛び出してきた。話は聞いていたのであろう、バシャーモも同じように険しい顔をして柊くんを睨みつけていた。

「こいつのポケモンだ。生憎こいつしかいない。俺とこいつがお前に勝ったら、さっきの発言は撤回しろ」

 跡部さんはまた持っていないと嘘をついた。跡部さんの不機嫌ささえ、どこ吹く風といった様子のヒイラギくん。バトルをする流れになったことに上機嫌だ。

「何にそんな怒ってるのかよくわからないけど、チャンピオンとバトルできるなら願ったり叶ったりだね」

 それで良いな? と跡部さんが確認するとバシャーモは力強く頷いている。状況が飲み込めない。そんな置いてけぼりの私のことなんか知ったものかと、図鑑で使える技を確認しながら、二人で作戦を決め始めてしまった。

「な、なんでそんなに怒ってるの?」
「自分、結構毒されてるで」
「え?」
「まぁ、自分のトレーナー馬鹿にされて怒らんポケモンはおらんわ」

 隣にいた忍足さんは、静かな声でそう言った。反対側にいたプクリンも、まるで同意だと言わんばかりに私の二の腕を、おうふくビンタの要領でバシバシと叩いた。

「俺様の指示を聞くかどうかはお前に任せる。だが、俺様の指示を聞くと決めた時は必ず全力でやるんだ。俺はやれないと思ったことは指示しない。やれると信じているからの指示だということを肝に命じておくんだ。さて、行くぜ」
「勝ったらチャンピオンのポケモンとバトルさせてよ」
「俺様に勝てるわけねーだろ。あれだけ大口叩いたんだ相性なんざ関係ねえ。手加減しねえぞ」
「望むところ!」

 あっという間に、跡部さんとバシャーモの急増コンビのバトルが決まってしまった。騒ぎを聞きつけた周りのトレーナーたちは、アンダー18大会のチャンピオンと、現リーグチャンピオンのバトル。物珍しさからあっという間に人垣が出来た。
 一番大きな中央のバトルフィールドが、いつのまにか空けられている。二人はそこへと誘導された。
 審判はまたしても、プクリンが務めるようだ。怒りで巨大なバランスボールのようになってしまっている。そしてまるで威嚇するかのように、ムーランドとヒイラギくんに向かって、短い腕でバシャーモ仕込みのシャドーボクシングを披露した。

「あの、忍足さん止めてください!」
「無理ちゃう?」
「ええ…」
「忍足さん、お連れさんももしよかったらセンターフィールドのベンチ空いたので」
「おおきに。ほな行こか」
「忍足さん!」

 ベンチが開いたことをわざわざ教えてくれた青年にお礼を言うと、忍足さんはアイス片手に中央のベンチに行ってしまった。私一人だけここから見るわけにもいかず、慌ててそのあとを追う。足を組んでバトルを観戦する気満々の忍足さんの横に腰掛ける。タイミングを見計らったかのように跡部さんがこちらに向かってやってきた。

「跡部さん……!」
「よく見とけ」
「え?」

 挑発に乗った筈の跡部さんは、意外にも冷静だった。

「ポケモンバトルは、ポケモン同士の戦いだが、本質はトレーナー同士の争い。普段お前がやらないバシャーモの使い方を見せる」

 子供からのやすい挑発を買ったことは、もう彼の頭の中にはないのだろうか。楽しそうにバトルフィールドに戻ってしまった跡部さん。フィールドを囲んだ周囲のボルテージは最高潮になっていた。
 私が使わないバシャーモの使い方? もしや跡部さんはこの1日の間に五年前の私のバトルのログでも見たのだろうか。
 私のポケモンは、素早さや戦い方が極端なポケモンが多い。バシャーモはスピード面をどうにかして近接戦に持ち込むのがいつもの私のやり方だ。

「お前、何匹か持ってるな。使ってもいいぞ。俺はバシャーモしか使わない。一対二のシングルバトルだ」
「よし先手必勝! ムーランド、たいあたり!」

 ヒイラギくんはそう叫ぶと、ムーランドがバシャーモに向かって全速力で突っ込んでくる。跡部さんは、特に焦った様子はない。バシャーモも、ムーランドの実力を確かめるかのように、そのまま半身になるキャッチの要領で、体当たりを手で受け止めた。
 受け止め自体はうまくいった。だが、ムーランドは最後の踏み込みで、そのままでんこうせっかのようにスピードを上げる。あまりの勢いに、掴んだはずのムーランドの体はバシャーモの腕を外れて、勢いよくみぞおちに飛び込む。
 たいあたりを受けたバシャーモは、後方に突き飛ばされてしまった。幸い、ノーマルとの相性は悪くはない。すぐに立ち上がったバシャーモは、また前後ステップでアイドリングをしながらムーランドを見据えた。
 バシャーモは前回の跡部さんのバトルを目の当たりにしている。いくら相性が良くても、うかうかしていられないと判断したらしい。今回は勝つために、跡部さんの言うことを全面的に聞くことを決めたのだろう。一度振り返って頷いた。それを確認すると、跡部さんはにやりとまたあの笑い方をして、バシャーモの名前を呼んだ。

「ムーランド、でんじはでバシャーモの足を止めるんだ」
「バシャーモ。おにびだ」

 おにび。バジャーのスピードが優った。
 バシャーモが腕を振ると、フィールドの上に赤黒い炎が点々と散らばった。グラグラと揺らめきながら、不自然な動きをするおにびの火種が、ムーランドの進路を塞ぐように散らばる。
 するとヒイラギくんは急に目の色を変えて、ムーランドにストップをかけた。賢いムーランドはすぐに指示を聞くと、おにびに触れないよう軽快に後ろに二歩、三歩下がった。この石畳のフィールドに燃え移るものは何も無い。数秒経てば、おにびはひとつまたひとつと消えていく。
 だがバシャーモが、再びフィールド中におにびをばらまくのにそう時間はかからないだろう。バトルにおいて相手を三歩下がらせるという事は、とても重要なことである。
 フィールドの後方でバシャーモの様子を伺うムーランド。いくら変化技と言えど、そこまで距離が開けば当たるものも当たらない。
 跡部さんはそれを確認すると、つめとぎをするように指示を出す。攻撃と命中率を高める技。命中率の安定しない大技、ブレイズキックやとびひざげりを当てやすくするためにと覚えさせた技である。
 それから、跡部さんはムーランドが動きを見せるたびにおにびをばら撒き、悠々と距離をとってつめとぎを積む。ただその繰り返し。
 だが、その度にヒイラギくんの顔がどんどん強張っていく。状態異常を抱えると、この上なく面倒だ。おにびを警戒する気持ちはわかる。だが、相手と距離を詰めないことには、バトルらしいバトルが始まらない。
 あまりに不自然な展開を疑問に思っていると、隣からあくび混じりの声が聞こえきた。

「詰みやなあ」
「え?」
「まじで跡部勝たす気ないで、あれ」

 アイス片手に静かに試合を見守っていた忍足さんは、チョコレートで出来たうさぎの耳をボリボリとかじりながら一言。
 跡部さんはまだ直接的な攻撃は仕掛けていない。ただおにびを悪戯にばら撒いているだけ。ヒイラギくんも、おにびをばら撒いてから何も目立った動きはしない。だが忍足さんの言う詰みとは、バトルの勝敗のことを指している。
 腕時計を確認するも、まだバトルが始まって3分も経過していない。あまりに不可解なこのバトル。頭にいっぱいの疑問符を浮かべていると、私の心情を察したのか、忍足さんはスプーンを手に取った。

「けったいなバトルやろ? ……解説しよか?」
「お、お願いします…!」

 願っても無いチャンスだった。カバンの奥に突っ込んだメモ帳とペンを取り出して、スマホの録音機能をオンにした。私の準備ができたことを確認すると、忍足さんはゆっくりと話し始めた。

「ヒイラギは跡部のバトルを日常的によう見てるんやろな」

 スプーンでヒイラギくんを指差した忍足さんは、感心だといった様子だ。跡部さんがどんなバトルをするのか。私はあの人が絶対零度のチャンピオン≠ニ呼ばれていること。それからアーマーガアを使うこと以外、彼のバトルスタイルを知らない。
 バトルをやめると決めた日から、リーグの中継は見なくなった。次第にバトル仲間との連絡も絶たれ、それに伴って強いトレーナーの情報もめっきり途絶えた。
 私がバトルをしていた当時は、同年代で現ジムリーダー の手塚さんや真田さんは知っていたが、跡部さんの名前を聞いたことはなかった。絶対零度と派手な枕詞がつくのだ。大層派手な試合なのだろう、とは思っていた。
 だが、彼の試合は派手なのかと彼に問うと、忍足さんは笑って首を振った。

「跡部が最近やった近々の十戦。全てがおにびを中軸に試合を構成してきた」
「あ、やっぱり跡部さんって氷タイプのエキスパートではないんですね」
「なんの話やねん」
「すいません続けてください」
「ヒイラギはおにび軸のバトル構成を絶対予習している」

 ヒイラギくんのバトルは、忍足さんの言葉を体現するかのようだった。彼はおにびを強く警戒し、絶対にムーランドに無茶な動きをさせようとはしない。

「初っ端でバシャーモの攻撃が下がらんかったことを見るに、おそらく特性はすなかき。跡部はかくとうタイプ持ってへんから、どこまでも打倒跡部を視野に入れたポケモン。今回のバシャーモは完全に想定外、と言うかそのままムーランド使ったヒイラギの驕りやな」

 距離を取っていても当たるシュート系の変化技。といっても、圏内というものは存在する。ムーランドが先程指示されたでんじはを当てるためには、バシャーモのおにび圏内へと入らなければならない。

「どんだけ相性が互角でも優位でも、状態異常を抱えれば必然的に分が悪い。負ってなくともバトルは長引けば長引くほど、ポケモン自身のポテンシャルとトレーナー自身の実力が色濃く出てくる。あの少年はほんまに跡部のこと倒そう思てんのやろな。状態異常を追った状態で跡部に勝てるわけがない。そもそも、ムーランド育てるんやったら物理攻撃にステータス振ってるやろ。やけどなんか負ったら勝てるもんも勝てへんわ」
「なるほど」

 忍足さんは、話の切り替えといったようにパチンと自らの太ももを叩いた。

「そもそも、それを見越してそうさせてるのが跡部や。自分は研究されることがわかってる。せやから連戦使い続けたおにびをわざと見せた。悪いやっちゃ。当てる気さらっさらない」
「当たらなくても、今のヒイラギさんには効果的ってことですね」
「せやな。あと、まだ緻密な連携のとれないバシャーモとの相性も良い」

 忍足さんのスプーンは、今度跡部さんを指した。

「長期戦にいっとう強いこと。それからやけどで相手の疑心を煽る。あのおにびを警戒されたら、跡部は物理攻撃飛んでけえへん安全地帯でのんびりバシャーモにつめとぎをさせる」
「はい」
「バシャーモが何を覚えてんかは知らんけど、バシャーモの格闘技のメインウェポンとしての採用率が高いのがとびひざげり。まあ、おそらくそれがヒイラギにとって一番嬉しい展開や。そうなったらまもるで乗り切ればええ話やからな。せやけど跡部はそんなアホなことはせん。この距離は必須」

 跡部さんは動かなかった。打開策を巡らせるヒイラギくんを、静かに見据えるだけにとどまった。

「少年が見事勝ちを収めるには近づくより他ない。せやけど、おにびに当たったら唯一の火力が死ぬ。詰み。代わりに自分が積もうにもそこを狙って極限まで命中率の高まったとびひざげりを食らったら詰み。よし書けたか?」
「はい!」
「跡部の言った支配は多分これのことやな」

  忍足さんの解説通り、負けを感じたのだろうか。ヒイラギくんはムーランドを手元に戻した。二体使って良いとのハンデを思う存分使うつもりだろう。
跡部さんは、相手が引っ込んだ空きの一回を使って今度はこうそくいどうをした。
 膠着した状況打破の一手として、ヒイラギくんの次なる手を繰り出した。選んだポケモンはスワンナだった。ムーランドと打って変わって、タイプとしてはバシャーモと相性は抜群。
 跡部さんはかくとうタイプを持っていないと言っていた。おそらく、忍足さんの言う対チャンピオン戦用のポケモンを捨ててきたと言うことだろう。
 スワンナは真っ白な翼を羽ばたかせて、バシャーモの攻撃圏外へと飛び立った。
 イッシュ出身の母の実家に行くとよく、スワンナを連れたトレーナーに出会う。あまり良い思い出がないバシャーモにとって、スワンナの登場は眉をひそめるに十分だった。
 バシャーモの表情を見たヒイラギくんも、また表情に自信を取り戻している。しかし、この状況でも眉を一つも下げない人間が一人いた。跡部さんである。

「丁度いいじゃねえか。おいバシャーモ。俺様とのバトル、忘れたとは言わせねえぞ」
「スワンナ、ぼうふう!」
「今度は一撃で仕留めろよ、ストーンエッジだ!」

 跡部さんが保険に使ったこうそくいどうが功を奏した。
 指示を聞いて先に動いたのは、速度の上がったバシャーモ。後ろ足で地面を蹴り上げて思い切り前進。あっという間にスワンナの真下へと飛び込んだ。そのバシャーモを嫌がったスワンナはぼうふうの動きを解く。そしてそのまま真下にいるバシャーモに向かって急降下してきた。

「スワンナ、そのままつばめがえし!」

 あの時の跡部さんとのバトルが脳裏に焼き付いている。しかし、バシャーモの表情は「待っていた」も言わんばかりに、前よりも自信に満ち溢れていた。
 バシャーモはギリギリまでスワンナを自らに引きつけると、そのまま上体を横に思い切り捻って逸らす。
 白い翼は目の前まで迫っていた。バシャーモは、体の捻転によって生まれたバネを利用し、真っ白な翼に近距離でストーンエッジを突き当てた。土煙とともにスワンナは声を上げる。効果は抜群だ。
 静まり返っていたオーディエンスが、一瞬で沸き立った。私も身体中に鳥肌が立って仕方がない。下からのストーンエッジを受けた反動で、上に押し戻されたスワンナ。

「あれを布石としておけば、ダメージを受ける前のバシャーモの体感と脚力で、ただ逃げるように飛んだファイアローの上を取れた」
 
 そんな跡部さんの言葉が耳の奥から蘇ってくる。
 次も逃さないと言わんばかりにバシャーモは強く地面を蹴りつける。体制を立て直そうと、空中でもたつくスワンナ。辺りを覆うストーンエッジの土煙。上層の煙にはバチバチと電気が発生していた。スワンナが上を見上げた時には、電気を帯びる煙の中からバシャーモが現れる。左手には電撃が帯びている。ストーンエッジは布石。完璧なタイミングだ。跡部さんが言った通り、彼はひこうタイプのさらに上を取った。

「終わりだな」

 下にいたはずのバシャーモが上から出現したことにより、スワンナは無防備であった。その隙に、スワンナに向かって叩き込まれたかみなりパンチ。不意を突かれて為すすべのないスワンナは、バトルフィールドに思い切り叩きつけられ、そのまま目を回した。
 ヒイラギくんが駆け寄るも、スワンナはすでに戦闘には復帰できない状態であった。ヒイラギくんは、スワンナを戻したボールと、フィールドに立つバシャーモを交互に見やる。
 ワカシャモの時代から今まで苦戦を強いられてきたスワンナを倒した。その事実は、どれほど彼の気を奮い立たせただろう。手首から火の粉を吹き上げるバシャーモの熱が、離れたベンチにいる私にも伝わってきた。
 バシャーモが高らかに上げた雄叫び。それに感化されるように、爆音のような歓声は空気が砕けるかのように震えた。その空気を彼も感じ取ったのだろう、ヒイラギくんはすぐに降参を選んだ。
 跡部さんは、ヒイラギくんがスワンナを持っていることを知っていたのかは定かではない。が、自分と相性の良いポケモンを状態異常を警戒させることで縛り、わざわざ自分にとって相性の悪いポケモンを出させ、それを一撃で倒す。トレーナーであれば、それがどれほどまで心の折れることだかよくわかる。
 跡部さんがムーランドを攻撃しなかったのは、この一撃を何倍にもして伝えるためだ。強い。私を弱いと言った彼は、間違いなくハキノセリーグのチャンピオンであった。

「これが跡部のバトルスタイル。状態異常と鉄壁の防御のエキスパートで、相手の心理とフィールドを完全に縛って支配する。相手が自滅するまでの長期戦に長ける。付いた渾名が絶対零度のチャンピオン。最低や。二度と再戦したないわ」

 忍足さんは笑っていたが、眉間にシワが寄っていて、目は全く笑っていない。おそらく、四天王として彼との対戦経験も多いのだろう。
 私とのバトルは、本当に私とバシャーモの実力を見るためだけに行われたのだと痛感してしまった。
 勝ったバシャーモは、跡部さんに一礼をして、すぐに私の元に駆け寄ってきた。昔から変わらない。アチャモの頃からバトルに勝つと、目を大きく開いて少しだけ口を開けて私に向かって走ってくる。
 心の底から満足したのだろう。両手を広げて彼を迎え入れると、そのまま抱き上げられてぐるぐるとその場で数回回された。そして、遅れて跡部さんに首根っこを掴まれたヒイラギくんがこちらにやってきた。

「お姉さん、あの、ごめん、なさい」
「謝ってくれてありがとう」
「いいかヒイラギ。トレーナーとして相手への敬意を忘れるな。強さに驕って礼儀を欠くなんて以ての外だ」
「はい……」
「お前は強いトレーナーだ。いずれ他の地方でも通用する。だがな、ハキノセでは当然のことは他でも当然だと思わない方が良い。女性だから弱いと決めつけるな。広い目で世界を見ておくことだ。お前はまだ若いからな」
「他の地方では女の人もたくさんバトルしてるの?」
「俺でも勝てないかもしれない、女のチャンピオンが何人もいる」

  跡部さんは、ヒイラギくんの小さな頭をグチャグチャとかき混ぜるように撫でた。彼は、最後に私とバシャーモ、それから跡部さんと忍足さんに一礼をしてからまたバトルに戻っていった。
 忍足さんは時計を確認すると、パーキングの時間が終わると伝えてくれた。アイスを食べ終えたプクリンをボールに戻そうと思ったのだが、忍足さんはプクリンが気に入ったようで、二人は仲良く並んで先を歩いて行った。バトルを終えたバシャーモだけをボールに戻して三人の背を追った。
  私のすぐ前を歩いている跡部さん。会話はない。先程の跡部さんの言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
 昔、女の子だからいつかバトルをやめないと、と言われることが多かった。その度に悔しく思っていたはずなのに、そんな気持ちさえ忘れてしまっていた。あの言葉はヒイラギくんだけではない。きっと私にも向けられていたものだ。

「あの、怒ってくれてありがとうございました……」

 前を歩く跡部さんにも聞こえるようにと少し声を張ると、語尾が震えてしまった。跡部さんは足を止める。そして私の方を振り返ると、先程のヒイラギくんに向けていたものと同じ表情をしていた。

「お前はハキノセと元の男に毒され過ぎだ。女だから弱いと言われて当然。そんなもん糞食らえだ。バトルに性別なんか関係あるか」
「すいません……」
「昔のお前はそんなことに囚われてなかっただろ」
「え?」
「なんでもねーよ」

 跡部さんはまるで、昔の私を知っているかのような口ぶり。跡部さんの目は私を見ているようで、他の誰かを写しているかのような気がしてならなかった。

「跡部さん、昔私と会ったことありますか?」
「……なんだナンパか?」
「違います!」
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