ふたりといっぴき

 学生時代から付き合っていた彼氏に振られた。
 距離が出来ていたことは薄々気が付いていた。それでも「結婚しよう」と上っ面だけでも約束を交わしたくらいは、長い時間を共にした。情というには深くて、愛と呼ぶには通り過ぎている。私と彼の関係はそんな感じ。きっかけがあれば元通りになれる。私は彼との未来を一ミリたりとも疑っていなかったのだ。

「お前、邪魔」

 浮気しているのを知ったのは二十七の冬だった。
 朝から体調が悪くて、午後イチで仕事を早退した金曜日のことだ。頭が痛くて胃の中が引っ掻き回されるような不快感が伴う。あっちへフラフラこっちへフラフラを繰り返して、ようやくたどり着いた近くのコンビニでポカリとゼリーをカゴにぶち込む。
 決死の思い出帰宅すれば、玄関にパンプスが転がっていた。大きなビジューがついたパテントレザーが玄関の光を受けて艶々と嫌味ったらしく光る、ミュウミュウのパンプス。私のものではなかった。重たい体に鞭を打って慌てて部屋に上がり込むと、見知らぬ女と彼氏がソファに仲良く並んでテレビを見ていた。
 昼過ぎ。四十三インチにドアップで映る沢口靖子。浮気相手と科捜研の女を見るのか、とぼーっとする頭で突っ込みをする。

「何やってんの……?」
「は? お前出張じゃ」
「……いやそれ来週だし」
「ッチ、さいあく」

 最悪って。そんな間抜けな勘違いあるのか。
 浮気相手にも彼氏にも焦った様子はない。あまりの冷静さにこちらも冷静を取り戻してしまった。机の上には開封されたばかりのヴァンクリのネックレス。この間の謎の高額カードの利用履歴はこれか。大卒で私より低い安月給のくせに見栄ばかり張りやがって。

「もう俺ら終わってんだろ、つーか出てけよこの家の契約俺だし」

 初期費用は割り勘ではなかったか。
 そんなツッコミは次第にひどくなる頭痛が掻き消した。明らかに体調不良の私をちょっと心配そうに私を見るミュウミュウの持ち主は、目と同じくらい大きなピアスを揺らして、何も言わずに彼氏に寄り添っていた。
 突っ込みどころと言いたいことがたくさんあるが、とりあえずこの空間にいたくなかった。そうやって怒りを沈めてしまうほど、とにかく私は体調が悪いのだ。
 通帳とへそくりと印鑑と。霞む思考でも判断できる取られては困る物だけをカバンに入れる。ムカつくのでキッチンに置いてあった彼氏のスマホを、溜まっていた皿と一緒に脂の浮いたシリコンボウルにぶち込んだ。

「後で残りの荷物取りくるから」
「そうしろ」
「じゃあね」

 ピカピカと光るミュウミュウのパンプスを踵で踏みつけてやろうと思ったが、足蹴にするにはあまりに可愛い。そしてこれが幾らか知っていると踏みつける気にもなれず、端の方に綺麗に並べて外に出た。
 外は快晴。明日からは北上してくる大型寒波の影響でより一層冷え込むらしい。体がぶるりと震える。潔いほど勢いよく飛び出したは良いが、私の帰るべき家はここ以外にない。
 休めると思っていた分、今の状況が急に両肩に重くのしかかってくる。絶対に熱がある。悪寒もしてきたし、頭痛はさっきから些細な音を反響させては次第に激しさを増す。
 実家まで電車を乗り継ぎ片道一時間半。こんな昼時に家にいる友達も思いつかない。漫喫で寝るのも嫌だ。これは高額自腹を切ってでもビジホか。
 万事休す。そう思っていると、手元のスマホが明るくなった。独特の呼び出し音。発信者を確認すると、そこには数年来の付き合いで一番頼りになる友人の名前が表示されていた。

「おい、今夜暇か?」
「好き」
「は?」
「あとべ好き。多分今地球上にいる生命体の中でタイミングがいい」

 吐き出した白い息が顔を包む。
 体調悪くて家に帰ったらミュウミュウのヒールがあって、彼氏が浮気してて、机の上にはヴァンクリのネックレス。私には三万のネックレスだったのに。ひどいよね。そして熱があるが追い出されて寝るところがない。
 私の突拍子もない言葉に言葉を詰まらせる跡部。事のあらましを話すと、十五分後にはタクシーをすっ飛ばして私の家の前にやってきた。
 そしてマンションの植木の前に座り込んでいた私をさっさと回収する。私をタクシーに押し込んで家の鍵だけ奪い取ると、マンションに消えた。数分で帰ってきた跡部は、私のお気に入りのピカピカのプラダのローファー一足だけを持ってきていた。

「それ、おきにいりなの」
「知ってる」
「ありがと」

 タクシーに乗った途端気が抜けたのか、本格的に熱が上がってきた。ぼーっとする意識の向こうで隣で跡部が何かを言っていたが、うまく聞き取れなかった。



 次に目が覚めた時、知らないベッドの上にいた。キョロキョロあたりを見渡すと、隣の部屋から微かにテレビの音と人の気配がした。
 嗅いだことある匂いに、見覚えのある年季の入ったテディベア。熱で浮かされた思考でも、恐らくここが最後にヘルプを出した跡部の部屋だということぐらいはわかった。
 ご丁寧に隣に置かれていたスマホで時間を確認すると、時刻は夜の九時を回ろうとしていた。随分寝ていたらしい。
 グッと伸びをしてからベットから這い出る。思ったより高さがあって足からずるりと滑り落ちた。ドスンと派手に音を立てたおかげで、リビングから跡部が顔を覗かせた。

「……何やってる」
「落ちた」
「見りゃわかる」

 少し呆れた様子で部屋に入ってきた跡部は、慣れた手つきで私の額と首筋に手を伸ばす。額の際には汗をかいていたようで、彼の手のひらが少し冷たく感じた。

「少しだが下がって良かったな」
「くすりのんだ?」
「流石に寝てる人間に勝手に薬は飲ませない」
「汗キモチワル」
「ならシャワー浴びろ。好きに使っていい」

 そう言って跡部は浴室に案内してくれた。
 入ってきた時は記憶がなかったが、跡部の家はマンションの一室。仲が良いと言っても彼氏がいた手前、流石に自宅に来たのは初めてだ。
 色の統一されたバスタオルとハンドタオル。私の家の二倍くらいの洗面台にはとことんものが置いていない。不自然に置いてある薬局の銀色のビニール袋が死ぬほど浮いていた。中身を見るように促されて袋を漁ると、歯ブラシと化粧落としが入っていた。気を利かせ方がプロである。

「化粧水とかは、とりあえず俺様のでいいだろ。勝手に使え」

 そう言って開けた洗面台の棚には、私が使っているものよりよっぽど良いスキンケアセットが入っていた。

「ありがと」
「おう、じゃあな」
「ねえ」

 跡部の優しさが身に沁みる。その優しさが全て沁みて涙が出てきそうだ。
 今日の出来事が巻き戻されるように一気に脳内に流れ込んでくる。黒髪のままの清楚系が好きだって言ってたじゃん。学生時代もずっと明るくしなかった髪の毛を思わず掴んだ。ピアスを開けたいと言ったら反対したくせに。
 あの浮気相手の容姿を見て思った。私たちはもう修復できない距離にいたんだと。私と真逆の女の子に熱をあげるアイツを見て怒りがないわけではない。しかしそれを上回るくらい虚しくなってしまった。

「アン?」
「お風呂入るから外にいて話聞いてて」
「……お前病み上がりで風呂入るんじゃーねよ」
「良いから」

 そういうと、跡部はしばらく黙り込む。そしてため息一つ吐き出して頭をガシガシとかいた。そして早く入れと私を促すと、私が風呂に入ったのを音で確認してから脱衣所に戻ってきた。
 いる? と問えば、少し不機嫌そうにいると返ってきた。風呂のぼやけたドアの向こうには、半分だけはみ出した跡部の背中が見えた。

「――ずっと一緒にいたのにさあ」
 別に話したいことが決まっていたわけではない。ただの思いつき。あぶくのつかない体をお湯の中でさすりながらぽつりと浮かんだ言葉を呟く。

「跡部は……見てないよね浮気女」
「……いや、見た」
「嘘、見た!? 可愛かったよね。ベージュの髪の毛で、ふわふわで、おっきいピアスつけてて」
「そうか?」
「私とは、逆の感じの」

 そこまで言って声が震えた。ぽろりと溢れた涙が湯船に沈む。彼氏のために生きてきたわけではない。服も靴も髪型も、自分の好きなことをしてきたつもりだった。化粧も全て自分のためにと思ってやってきた。
 それなのに、あの髪があの靴があのピアスが。私の全てを否定された気分になった。私だから駄目だったんだと思ってしまった。
 楽しかった思い出も悲しかった思い出も、全てあの女に掻き消されていく。大人になったので声をあげて泣く勇気はなかった。拭わない涙は湯船に溶けていく。悟られないようにと息を潜めれば、苦しくて嗚咽と涙と、一緒に溢れる鼻水を啜る音が浴室によく響いた。

「お前はお前の好きな姿でいればいい」
 ずっと黙って、うんともああとも取れない相槌を打っていた跡部が言った。ドアの向こうから少し篭った声だった。
「……え?」
「だからあの靴を持ってきた」

 玄関に転がっているであろうプラダのローファー。少しずつ貯金してちょっと背伸びをして買ったローファー。買えたのが嬉しくて跡部にもラインしたのを思い出した。浮気相手みたいに女の子っぽいアイテムではないけど、私の可愛いが詰まった靴。

「お前は昔から変わらず魅力的だ」
「……あはは、ありがと」
「人は変わる。アイツみたいにな。でも変わらねえお前はずっと綺麗だと思うぜ」
「え、」
「涙止まったな。もういいだろう」

 長風呂するなよそういうと、跡部は私の返事を待たずに脱衣所を出て行ってしまった。跡部の発言に驚きすぎて涙はどこかへ引っ込んでしまった。
 跡部と元彼と私は学生時代の同期で、元彼の紹介で跡部と私は知り合った。元彼は広く浅くをモットーに交友関係を広める人だったので、結果的に私と跡部の方が仲が良かった。
趣味は全く合わないし、生活のレベルも育ちも違う。それなのに跡部の話を聞くのは苦痛ではないし、跡部と過ごす時間は気を遣わなくて良いので好きだった。何より私は嘘がつけない跡部という人間のそういうところが好きなのだ。
 あれだけ頭の中にいっぱいだったミュウミュウのパンプスの記憶が霞んでいく。玄関に転がっているであろう私のローファーを履くのがまた少し楽しみになった。
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