1LDKのラグナロク

 初めて一緒に迎えた誕生日は、都内のレストランに連れて行ってくれた。有名なお店で二人してガチガチになりながら、食べ方もよくわからない料理に心躍らせた。
 その次の誕生日は、二人で夜景を見に行った。誰もいないベンチに座って星を眺めながら、ぽつぽつと思いついたことを話すだけ。あまりの寒さに東くんのダウンのポケットに手を突っ込んだら、小さな箱が出てきた。
 ちょっとだけ項垂れた東くんは、かっこよく渡したかったんだけどな。と唸る。おめでとうと一緒にペアリングをプレゼントされた。

 二十五歳の誕生日は薄暗い寝室の、広いクイーンサイズのベッドの上で。時間ぴったりにピコンと光るスマホ。おめでとうと連なるメッセージの中に彼の名前はなかった。当然だ。だって昨日喧嘩したし。
 ポイっと広いベッドの端っこにスマホを投げると、勢い余ってベッドから転がり落ちた。フローリングに落ちたスマホはごつんと鈍い音を立てる。そんなことも気にせずに布団を巻き込むように縮こまる。布団の中で東くんにもらったネックレスを握りしめた。
 理由は本当にくだらなくて、ことの発端がなんだったのか全く覚えていない。いつもなら流す東くんも珍しく言い返して、怒りっぽくなっていた私は頭に来てそのまま買い言葉売り言葉。
 喧嘩しても絶対に寝る時は二人一緒に寝よう。同棲して初めての夜に決めた約束を破って、東くんは初めてソファで寝た。

 翌朝起きると、ベッドにまた一人きり。東くんはいなかった。
 リビングに行くと、毛布が転がっていた。毛布の残骸を適当にソファにまとめる。今日の彼の予定は知らないが、部屋にいる気配はない。流しにはお揃いで買ったマグカップの片割れが置いてあった。ほんのりと香るコーヒーの匂い。もう出かけた後らしかった。冷蔵庫の中にここいらで一番人気のケーキ屋の箱が入っていたが、開けないことにした。
 いつ訪れるかわからない近界民への最前線がテーマのボーダーに、定休日という概念はない。内勤も戦闘員も等しくシフトが組まれている。
 今日は誕生日。おそらく何の脈絡もない今日の休みは、自分の誕生日だからと休暇申請をしたのだろう。数ヶ月前の自分に沸々と怒りが込み上げる。
 大学や高校の友達も、二十五を過ぎれば殆どが就職済み。こんな平日の真っ昼間に、当日遊ぼうなんて誘いに応じてくれる人はいないだろう。
 大人しく家にいよう。あわよくば夕方からやけ酒に付き合って貰えば良い。仕事さえ終われば世間的に、今日は花金なのだから。
 トーストを一枚焼いて、インスタントコーヒーを入れる。テレビのリモコンをいじって適当なチャンネルに合わせてテーブルに着く。
 おしゃれな木目がお気に入りの小さめのダイニングテーブルには、東くんの私物であろう大学やら、ボーダーやらの資料がダイニングテーブルの一角で山をなしている。崩れても知らないぞとその山を睨みつけていると、ふとその山の中の封筒が目に止まった。封筒の角には見慣れた不動産屋の名前。
 ここの家賃は折半。契約主は東くんだが、これを見る権利は私にもあるはずだと、山を崩さないようにゆっくりと封筒を引き抜く。
 封筒の中から出てきたのは更新のお知らせだった。この山の中は、東くんが忙しくなった二週間前から出来上がった。この封筒が山の真ん中あたりに積まれているということは、きっとこれがきたのは昨日今日の話ではない。片付けるのが得意ではない東くんは、どんどん上に積み上げる癖がある。間違いない。
 再来月の家賃引き落としと一緒に、所定の口座から家賃一ヶ月分の更新費を引き落とすとの旨が書き記してあった。つまり、この更新の封筒なんて大切にとっておく意味はない。もしあるとするならば、更新をしない場合である。
 同棲、これで終わってしまうのだろうか。
 焼いたトーストを噛み締めながらそんなことを考える。ぽつんと浮かんだ疑問は胸のしっくりくるところに落ちた。最近忙しくてお互いのことなんて構っていられなかった。最後に二人で出かけたのはいつだろうか。キスもセックスもここ二ヶ月はしていない気がする。
 院生とボーダーを掛け持ちする東くんと、就職先はボーダーとはいえ社会人として働く私。倦怠期といえば聞こえはいいが、つまり限界というわけだ。
 ここの契約主は東くん。もし出て行くなら私の方だ。更新期限は再来月。別れるなら最高のタイミングじゃないか。
 出会った頃は一緒にいるだけで満足だった。東くんが柔らかい声で私の名前を呼ぶだけで嬉しかった。隣に座るとドキドキして、少し眠たそうな顔で私の顔を覗き込む時の目が好きだった。
 東くんの彼女になれた時、これ以上の幸せは私の人生に訪れないと心の底から思った。頭が良くて優しくてボーダーではみんなに慕われる東くんが、私を選んでくれたことが誇らしかった。
 当時は東くんが喜んでくれることは何だろうと毎日考えていたはずなのに、いつから私は自分ばかりになってしまったのだろうか。
 自己嫌悪にも似た自問自答を繰り返してるうちに、東くんが帰ってきた。まだ日は高く、いつも東くんが帰ってくる時間より五時間も早かった。
 東くんは疲れ切った顔で「誕生日おめでとう」と私に紙袋を寄越した。中身は狙っていたキーケースだった。東くんが買わないでいいだろうと遠回しに言っていだのはこう言うことだったのかと、中身を見て納得する。
 しかしすぐにソファに腰を下ろしてため息を吐き出す東くんの背中に、また黒いモヤモヤが蔓延る。私が気がついていなかっただけで、私たちの関係はとっくの昔に冷え切っていたのかもしれない。東くんは他人の感情の動きにとても機敏だが、自分の感情は滅多に顔に出さない。

「キーケースありがとう、嬉しい」
「よかった。ずっと欲しがってたもんな」
「……鍵。付け替えようかな」

 そう言って玄関に鍵を取りに行こうとすると、東くんは私の名前を呼んだ。そして私に椅子に座るよう促すと、改まったように咳払いをした。
 その真剣そうな面持ちに嫌な予感がした。しかし断る理由も見当たらず、促されるまま席に着いた。

「ずっと言おうと思ってたことがある」
「なに、改まって」

 ずっと。
 東くんがずっと抱えていたことってなんなのだろう。心臓がどくどくと嫌な音をあげる。別れ話だったら? どんな顔をすれば良いのだろうか。緊張で上半身全部に激しく心音が響いているみたいだった。

「これは相談なんだが」
「うん」
「今回、この部屋更新しなくてもいいか?」

 そう言って東くんが取り出したのは、さっき盗み見た不動産屋の封筒だった。やっぱりそう。予想通りという言葉がこんなに悲しく感じたのは初めてだ。
 今まで激しく脈を打っていたはずの心臓が、まるで動くのをやめてしまったかのように静かになる。小さくても抱いていた別れ話ではないと言う期待が、砂のようにザラザラと崩れていった。
 喉の奥が詰まってジリジリと痛む。冷静な彼の声音に合わせるように静かに「わかった」と言ってみるも、半分以上が震えていた。それを不審に思った東くんに顔を覗き込まれて、とうとう涙腺は崩壊した。
 カーテンは私の好きな色にして良いよと言われて、黄色いカーテンをつけた。俺は絶対に選ばない色だけどお前に任せてよかった、と東くんは笑っていた、
 夏に花火が見えることに気がついて、狭いバルコニーに二人肩を寄せて、パジャマ姿にビールで二人で花火を見た。
 初めて喧嘩をしたのもこの部屋だった。麻雀のやりすぎで全然家に帰ってこなかった東くんに、癇癪を起こしたのが原因だった。拗ねて先にベッドに入った私を後ろから無理矢理抱きしめて、ごめんと何度も謝っていた。
 部屋の押し入れの片隅は、東くんの趣味の道具でいっぱいだ。二人でキャンプに行って、帰ってきてクタクタなのに必死にキャンプ道具を洗って片付けて。
 思い返してしまえば、過ごした日々が全てキラキラと輝いて見える。幸せは見失ってから気がつくのだ。あんなに好きだった筈なのに、どうしてそんな簡単なことすら思い出せなかったのだろうか。
 笑ってわかったと言うには、ここは思い出が多すぎる。痛いくらい熱を持った目頭からはボタボタと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「……どうした?」
「ごめ、ごめんなさい」
「いや、ごめんって……」

 東くんは優しい。慌てたようにティッシュ箱をこちらに差し出した。
 最後くらい気持ちよくお別れがしたかった。東くんが私を思い返した時に「面倒臭い女だったな」になってしまうのが嫌だったから。私が覚えている東くんとの記憶が輝いているのと同じように、東くんの中の私も綺麗でいて欲しかった。

「二分で泣き止むから、ちょっと待って」
「いや、なんで泣くんだ?」
「喧嘩なんか、しなきゃよかったなって」
「……あぁ、それは俺も悪かった。謝るよ」
「次の彼女とはさ、喧嘩したらダメだよ」
「…………は?」

 ティッシュ箱を受け取ろうとするが、東くんの手からはティッシュ箱が転がり落ちた。また何か勘に触ることを言ってしまっただろうか。と失言を謝ろうとすると、東くんは長い髪の毛を振り乱して首を横に振った。

「……違う、違うぞ!」
「え……?」

 別れないからな!
 東くんにしてはずいぶんと大きな声が部屋中に響き渡った。いつもは眠たそうな目を大きく開いて、椅子から身を乗り出すようにして息を荒げる。珍しい東くんの様子に、数回瞬きをする。濡れたまつ毛が重たくて下瞼が冷たい。
 東くんは、額に手のひらを当ててから深呼吸をしてまた席についた。そして今度は私に机の上に手を乗せるように指示した。疑問符を浮かべながら机の上に手を乗せると、東くんの大きな手のひらが私の手を掬った。

「勘違いだ。別れるつもりはない。泣きながらでもなんでもいいから俺の話を聞いてくれ」
「はい……」
「最近どうしても遅くなるだろ。正直に言うと近界民の動きが活発化してきて俺に回ってくる仕事量が激増した、プラス、教授が数年かけてやってきたプロジェクトの研究が佳境を迎えている」
「はい」
「家に帰れないことも多くて、この間はついにソファで寝落ちしてしまって……」
「……私と一緒に寝たくないのかと思った」
「まさか。約束しただろ、一緒に寝るって」

 ゆっくりと言い聞かせるような優しい声。約束覚えていてくれたんだ。東くんの手のひらからじんわりと伝わる熱がまた私の涙腺を弱くする。

「東隊の成長も著しい。二人にしてやりたいことが増えた」
「うん」
「だからもう少し家がボーダーと大学に近ければ楽になると思ったんだ。ただ、基地に近ければもちろんトリオン兵の被害に遭う可能性だってあるわけで、お互いそれが嫌だから少し離れたこの物件に決めたわけだろう」
「うん」
「でも一緒にいられなくてすれ違って喧嘩になるくらいなら、もっと一緒にいられる時間を作ろうと思ったんだ」

 もしかしたら、東くんも私と付き合い始めた頃を思い出したりしたのだろうか。
 時間経過とともに二人を取り巻く環境は変わっていく。それにきちんと目を向けて対策をしようとしてくれた事実が嬉しかった。

「早とちりしてごめんなさい」
「別れるなんて嘘でも言わないでくれ」
「……わたし、東くんと一緒にいていいの?」
「むしろそのままずっといてくれると嬉しい」
「すぐ怒るし、わがままだけどいいの?」
「仕事と研究ばかりの俺でよければ」
「私は東くんがいいの」
「うん、これからはどんな喧嘩でも俺から謝る。約束する」

 東くんは握っていた私の手のひらに、キスをするように引き寄せた。

「好きだよ。別れたくなくて年甲斐もなく声を荒げるくらいには」
「私も初めて出会った時からずっと東くんが好き」
「それは、初耳だな」
「うん、恥ずかしいから言ってない」
「じゃあ教えてくれ」

 その日はお風呂に入って、二人で手を繋いで寝た。
 キスもセックスもしないのに、こんなにも距離が近いと感じたのは初めてだった。出会った頃を思い出しながら、まるで内緒話をするように小声で話す。
 天井を見つめながら話す彼のすらりとした鼻筋を見つめながら、絡めていた手のひらを強く握る。すると東くんは少し照れ臭そうに笑ってから私の手のひらを握り返した。
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