ジミーチュウを聞かせて

「なあ、ゲームしようぜ」

 またかと口から漏れたため息と、眉間に寄った皺を隠さなくなってからはや一ヶ月。
 当の本人は、私の不機嫌そうな顔に特に気にした様子もない。どこからともなく現れて、いつもの調子でへらへらと笑みを浮かべている。

「い、や」

 ゲームをしよう。この男、太刀川が私に持ちかけてきたのがちょうど一ヶ月前。
 スマブラや麻雀、ポーカーだったら私だって笑っていいよと言ったはずだ。俺から一本取れたら勝ちなんて言ってトリガーを持ってこられたって笑って流せる。
 しかしこの男の言うゲームは少し違うのだ。

「いい加減諦めろって」
「なんでよ」
「俺のこと好きになったら負け、俺のこと好きにならなかったら勝ち」
「勝手に始めないで」

 とっ散らかった部屋の真ん中のソファであぐらをかく太刀川くん。ゴミ袋片手にやってきた私に対する第一声がそれなのはどう考えたっておかしいだろう。
 残念ながらボーダーに洗濯機はないので、衣類は全部まとめてゴミ袋。捨ててはいけないであろうものをオペレーターのデスクに避けて、ようやく部屋の掃除が開始される。ちなみに太刀川隊の部屋の掃除は、だいたい下っ端の仕事である。最悪だ。

「部屋綺麗にしてから言ってくれる?」
「ああ、そうだ次はいつくる?」
「あなたたちが散らかさなきゃ来ない」
「悪いがそれは諦めてくれ」

 太刀川慶と言うと男は、隊員としては皆に一目置かれる存在らしいのだ。もちろんボーダーの中の評価であることは間違いない。戦闘員としての資質、隊長としての格。どれをとっても一級品だと言う。
 しかし他はどうだろう。彼の大学の成績を見て頭を抱える忍田さんを何度も見た。勉強を教える途中でこめかみを抑えた東さんも、触らぬ神に祟りなしといわんばかりに近寄りもしない二宮くんも。
 そもそも、隊員としての活動経験のない私に彼の凄さはいまいちわからない。私の中の彼は、ただの部屋を汚す天才である。
 私は市外の大学に通い、給料目当てでボーダーに入ったただの一般人。ボーダーの広報室に籍を置いているので、組織についてあれこれ詳しいことを知っているが、戦闘員との関わりはない。
 遠征に行くと言うのに、書類一つ揃えられない太刀川隊がいなければの話だ。未成年も行くのだからきちんと書類を揃えるようにと猶予をたっぷりとって渡したと言うのに、期日を過ぎても書類は上がってこない。痺れを切らして作戦室に押し掛ければ、部屋は惨状だった。
 高給のためだと文句を言いながら部屋の片付けをし、手取り足取り教えて書類を全て揃えさせたところ、根付さんに高く評価されたのち、こうして定期的に掃除要員として駆り出されている。

「忘れてた」
「何を」
「今朝ヒールが折れてスニーカーで仕事してるお前にプレゼント」

 咄嗟に手でスニーカーを隠してしまった。彼の言う通り、今朝出勤の時に駅の段差に引っ掛けてぽっきりとヒールが折れた。たったの三センチヒールなのに。急いでドンキに駆け込んでスニーカーを調達して出勤したのだが、何故ヒールが折れたことを知っているのか。まさか朝の一部始終を見られていた? それが確定すると、彼は無事に大学に遅刻したことになるのだが。
 訝しんで彼を睨むように見れば、彼はいつも通りの飄々とした顔で一言「迅」とだけ言った。
 迅。迅悠一。本部からの信頼は厚く、上層部の会議に顔を出すこともしばしば。沢村さんの尻を追いかけているあの人か。どうやら半信半疑だった未来視のサイドエフェクトとやらは本物らしい。
 太刀川くんは無造作に床に置かれた紙袋を取り出した。少しマーブルが買った薄いグレーの紙袋。持ち手は紙袋と同じ色味の、サテンのツルツルとしたリボンが使われている。箔押しで書かれたブランド名は、あまりに誰もが知っているブランドであった。

「やるよ」
「……は?」
「遠征でボーナスが出たからな」

 話の流れからすると、中身は靴だろうか。紙袋の中をチラリと確認すると、グレーの靴箱が入っていた。

「……え、太刀川くんこれ、いくらするか知ってるの!?」
「当たり前だ。俺が買ったんだぞ」
「意味わかんないんだけど」
「あんたがいなきゃ遠征の書類なくて行けなかったし、あんたの取り分だ」

 太刀川慶という男がさっぱりわからない。理解が追いつかず、もはや目眩がする。このヒール、十万円近くするのだ。仕事用に履くにはあまりに高価だ。
 仮に私が有名なファッション雑誌の編集の仕事についていたり、アパレルデザイナーであるなら話は別だけれど。私の仕事なんてボーダー内を歩き回って内勤をするくらいだ。

「あんたが履かないならそのゴミ袋に捨ててくれ」
「……う、売ればいいじゃない」
「めんどくさい」
「国近さんにあげれば……!」
「国近のサイズじゃないし、第一あいつがそんなヒールで歩けるわけないだろ」

 受け取れるもんか。彼氏にもらったって少し高すぎる。いつまで経ってもショッパーと睨めっこしている私に痺れを切らしたのか、太刀川くんは袋の中からヒールを取り出した。黒い革、先の尖ったシルエットの綺麗なヒールだった。ライニングはソールと同じヌメ革のような生成色をしている。てっきりヒールの高いものかと思っていたが、仕事をしても支障がない六センチのヒールだった。

「どうせ捨てるなら俺の前で一回履いてくれ」

 踵を揃えてヒールをこちらに向けられる。インソールに縫いつけられた真っ白なタグが私を見ている気がした。そっとヒールグリップに触れると、柔らかなキッドレザーが手に馴染む。
 人生で一度は誰しもが履いてみたいと思うのではないだろうか。憧れるに決まっている。ヒールを物惜しげに眺めてから目線を上げると、ばっちり太刀川くんと目があった。
 彼の目の前で欲しいと、言ったことがあっただろうか。というのも、初任給をコツコツ貯めて買おうと思っていた物の一つがこれなのだ。
 本当は飛び上がりたくなるくらい嬉しいし、頬が緩みそうなくらい目の前のヒールは可愛い。夢に見る理想の自分は、いつもこれを履いて仕事をしているのだから。
 朝はヒールを履いていたのでストッキングは履いていた。しばらく黙りこくっていると、捨てると言わんばかりにゴミ袋に手を伸ばした太刀川くんを目の前にとうとう白旗を挙げた。どうせ捨てるなら、一度くらい履いてみたい。
 そっと憧れのヒールに足を滑らせると、革がピッタリと足に馴染む。キツくないし緩くない。サイズはぴったりだった。ヒールは少し細いけれど、安定感がある。トリオン体でできた無機質な床は、コツコツとヒールの音をよく響かせた。
 太刀川くんは満足げに笑うと、目を離して隙に私が履いていたスニーカーを捨てた。次いで机に置かれていたカップラーメンの器を汁ごと袋に放り込まれ、こうしてドンキで買ったばかりの二千円のスニーカーはお釈迦になった。

「似合うな」
「……お金」
「いつも高いヒールの方が似合うと思ってたんだ」
「え?」
「これ履いて歩くとこ想像していいなと思ったから買った」
「……あの、」
「俺の自己満だから、履いててくれ」

 まさか太刀川くんの口からそんな言葉が出てくるとは露ほども思わず、うまく言葉が出てこない。まるで私のことをずっと見ていたような口ぶりだ。単純な女。欲しかったヒールをもらって、褒められて喜ぶなんて現金なやつ。それでも太刀川くんの飾らない言葉に何故だか少し心臓が跳ねた。作戦成功と言わんばかりに太刀川くんはピースサインをした。



「最近その靴履いてるね」
「……これは、その」
「いいじゃないか、似合ってるよ」
「業務的に大丈夫ですかね、これ」
「はは、まあルブタンのスパイクだったら流石に止めるかな」

 あの日以来、本部にいる太刀川くんを目で追ってしまう。ランク戦をしている彼を、ロビーでくつろぐ彼を見つけるたびによく目が合う。目が合う時は決まって相手も私をみているのだと気が付いた。前から太刀川くんは私をみてくれていたのだろうか。そう思うと頬にが熱くなった。
 相変わらず部屋の掃除はできないし、書類は期限内に提出できない。問題だらけの人だが、私と彼の関係は前のままではないように思える。
 挨拶をされれば挨拶をするようになったし、この間は彼と二人で食事に行った。誘われた時、眉間に皺を寄せた私に対して「ちゃんと好きになってもらいたいから」と言った彼に毒気を抜かれてしまった。
 彼の言い出した突飛なゲームの目的はあまりわからないが、好きになってもらおうという気持ちは前よりも彼から感じるようになった。気がする。
 彼は勉強はからきしだが、よく人のことを見ている。時々どきりとするような指摘をされたり、部下の話をするたびに私は彼のことを一つも知らなかったのだと思い知らされる。
 意外なことに、夜遅くまで飲んでいても必ず家に帰される。玄関の前までは来ず、マンションのエントランスでまた明日と手を振って終わり。飲み直す? と部屋に誘ってみたこともあったが、ゆっくり休みなさいと彼は帰っていった。それが何故か無性に嬉しかったのを覚えている。
 唐沢さんと廊下で別れてから、夕方の会議の確認をするために東さんの元に向かう。いつもならロビーにいる時間帯だがちょうど東さんはおらず、あたりを見渡していると代わりにひょっこりと太刀川くんが顔を出した。

「なにしてんだ?」
「東さん探してるんです」
「なあ、明日の夜空いてるか?」
「夜は、空いてると思う」
「じゃあ飯行こう」
「あ、じゃあ私が奢るよ。……こないだ出させちゃったし」
「馬鹿か。俺を立てろ」
「……立てるほどの」
「……本当にあんたはさ」

 いい加減俺のこと好きになれよ。こっそりと隠れるように耳元で囁かれた。まるで不意打ちのような言葉だった。彼の言葉にはいつもどきりとする。まるで彼に傾きかけている私の気持ちが見透かされているようだった。思わず囁かれた右耳を押さえる。耳は次第に疼くように熱くなって、目の前でカラカラと太刀川くんが笑った。
  

「早く誠実になったほうがいいですよ」
「言うじゃねえか」
「だって、そうですよね。ゲームって」
「んじゃあお前も賭けるか?」
 
 だから、決定打がまさかこんな形で来るとは夢にも思わず。
 視界のどこに彼がいても見つけ出せるほどになっていなければ、きっと気がつかなかっただろう。怠けがちの散髪。モサモサとうねるマットがかった茶色い髪に、派手な黒いコート。何故かフラフラと引き寄せられるように近づく。自動販売機の影になったところで、彼が誰かと話をしていることに気がついた。タイミングが悪いまたにしよう。そう思って立ち去ろうとすると、会話が耳に飛び込んできた。
 彼の言葉は何故か聞き覚えがあった。話し相手は誰だかわからなかったが、話し方から察するに、どこかのオペレーターだろう。彼女は今ゲームと言ったか。似たようなニュアンスの言葉がふと脳裏に浮かぶ。じゃあゲームしようぜ。あの日、全てが始まった日に彼が私に言った言葉だ。
 どくどくと気持ちが悪いほどに心臓が早鐘を打つ。結論は出ているはずなのに、全て心音がかき消しているようだ。

「俺が落としたら勝ち、あいつが落ちなかったら負けだ」
「それ、太刀川さん負けないやつじゃないですか?」
「まあな。ちなみに出水も迅も賭けてる」
「ちなみに迅さんはどっちに賭けたんですか?」
「落ちるほうだろ」
「じゃあ賭けにならないですね」
「今度飯でも行くか」
「いいですけど、賭けに勝っても負けても奢ってくださいね」
「勿論」

 頭が真っ白になった。結論をかき消していた心音はどこか遠くへ消えた。
 賭け? 彼がゲームをしようと持ちかけてきたのは、彼らの賭けの対象にするためだったのだろうか。本当にお遊びで、ただの戯れで私のことをその気にさせたのだろうか。
 冷静になって考えてみれば、私と太刀川くんに元々接点なんてない。ただの内勤の職員と、ボーダーきっての戦闘員。私は四つも彼より年上で、彼はまだ大学生。ただ私は彼の部屋の掃除をしただけだ。彼からしたらきっと口うるさいおばさん。そのおばさんが自分にその気になって色気付く様は、どれだけ滑稽だったのだろう。
 心につっかえていた小骨のような痛みがスッと溶けていく。揶揄われていただけだ。私が焦ったところや翻弄される様を見て楽しんでいただけだったんだ。今時の子はなんてタチが悪いのだろうか。
 手元の時計を確認すると、もうすぐ会議が始まる時間を指そうとしていた。ファイルを抱え直して、来た道を戻る。コツコツと廊下に響くヒールの音が恨めしい。

お前にプレゼント。
いつも高いヒールの方が似合うと思ってたんだ
これ履いて歩くとこ想像していいなって思ったから
いい加減俺のこと好きになれよ

 馬鹿みたいだわ。じわじわと視界が滲むのは、揶揄われていたことに対する怒りなのか、それとも裏切られたと言う絶望なのか、その気になってしまったことに対する羞恥なのか。
 普通、揶揄ってただけの女に十万もするパンプスなんて送るものなのか。好きになれよってたかがゲームのために掠れた声まで出して。
 ちゃらんぽらんだし、頭は悪いし学校には行かないし部屋も汚い。髭はいつまで経っても剃らないし、髪の毛もすぐに伸ばしっぱなしにする。
 私のタイプの男の人は、唐沢さんみたいに落ち着いてて大人で優しくて。それなのに全然タイプじゃないと思っていたのに、蘇ってくるのは太刀川くんの顔ばかり。冗談にしては本当にタチが悪い。
 わかりたくもなくて、彼にもらった真っ黒のヒールを脱ぎ捨てる。コツコツと華奢なヒールが立てるあの音が消えた。たんたんと地面を踏みしめる音だけが小さく響く。ストッキング越しに味わうトリオンでできた床は、気持ちが悪いくらいにひやりと冷たかった。
 もうとっくに好きになっていたんだと思い知らされる。泣いたら負けだと心で唱えるたび、目から溢れ出してくるのは彼のことが本当に好きだったからだろうか。太刀川くんの言った通り、好きになった時点で私の負けなのだ。とりあえず泣き止もうと目を擦って会議室に入る。顔も格好もボロボロの格好で入ってきた私を見ても、唐沢さんは何も言わなかった。



 バレエシューズのようなぺたんこのパンプスを買い直した。見るたびにきっと泣いてしまいたくなるから、あのヒールを家にに置いていたくなくて、空きロッカーの一つに押し込んで鍵をかけた。歩くとゴムのソールが地面を掴む。歩きやすい。私にはこれで十分だと思った。
 あの日以来太刀川くんと顔を合わせていない。約束していた食事にはいけなくなったと返した。毎月恒例の太刀川隊の作戦室の掃除には、今年入った新入社員の男の子を派遣した。普段なら乗り気でなかったはずの遠方での仕事も追加し、私は文字通り日々に忙殺されていた。
 幸いなことにボーダーは隊員とオペレーター、次いで研究員が構成員のほとんどを占める。運営に関わる事務的な仕事など掃いて捨てるほどあった。
 三六協定は知っているなと城戸さんから直々に声をかけられるほどには、私は仕事にのめり込んでいた。それしかできることがなかった。
 大阪の仕事から戻って新幹線に飛び乗り、本部に戻った頃にはすでに二十二時を過ぎていた。明日の夕方の会議の資料を作らなければいけない。データで送れば問題がないから、昼過ぎまでは猶予がある。スポンサーに出す資料の方が先決だ。遠征の予算の概算も上がってきていた。嵐山隊のメディア出演のスケジュール調整が朝一で入っていたはず。それから、それから。
 脳内で旋回するやらなければいけないことを並べ直す。しかし、疲れのせいかうまく頭が回らなかった。オフィスの電気をつけてパソコンの電源を入れる。起動までの間に目頭を抑えていると、コトンと何かがぶつかる音がした。

「はい、働きすぎ」

 目の前に現れたのは缶コーヒーだった。こんな時間に誰が。否、今しがた私に言葉を投げかけた声にはものすごく聞き覚えがあった。

「……何か用?」

 太刀川くんだった。私から発された声には想像以上に温度がなかった。

「あんたのこと待ってた」
「ここは職員以外立ち入り禁止です」

 時計を確認すると、すでに二十三時を回っていた。仕事の鬼の鬼怒田さんすらデスクが片付いている。いつの間にやら帰ったらしい。いや、あの人のことだから仮眠室にいるかもしれないけれど。
 太刀川くんを追い払うように手のひらを振る。起動したノートパソコンに向かおうとすると、ものすごい勢いで閉じられた。

「俺なんかした?」
「……別に」
「じゃあなんで避けられてんの、俺」
「見ての通り忙しいので」
「忍田さんが働きすぎって言ってた。飯行こうぜ」
「行きません」
「敬語やめろよ」

 パソコンを開けようとこじ開けてみるも、体重を乗せた彼の腕はびくともしない。よくみればまだ彼は隊服姿で、トリオン体であると気付く。勝ち目なしと諦めると、椅子が太刀川くんの方にくるりと回された。

「クマできてる」

 太刀川くんの両手が、顔を包み込むようにして添えられる。目の下をなぞる手付きはまるで壊物を触るように優しい。表情はいつも通りだが、まるでこれで本当に心配されているみたいではないか。

「いきなり露骨に避けられると俺でもキツイ」

 いろいろなことが頭を巡る。好きになって欲しいと言った彼。私にヒールをプレゼントした彼。少し子供扱いすると拗ねた子供のような顔でむくれる彼、あの日賭けの話をしていた彼も。目の前の太刀川くんは傷ついているように見えた。一体どれが本当の彼なのだろう。
 なにそれ。頭で考えていたはずの言葉が口をついて出た。一体何がきついのだろうか。私に避けられてしまってはゲームが遂行できないからだろうか。賭けに負けてしまうからだろうか。
 誰彼構わずああやってゲームを挑んで、その気にさせて賭けて遊ぶ。彼の目的がわからない。これならまだ体が目的だと言われた方がマシだった。哀れな私の哀れな心を欲していったい何になるというのだろうか。
 もう起きてしまったことは仕方がない。私がいくら泣き叫んで怒鳴り散らしたところで、あの時間も彼を好きになる前の私も帰ってはこない。ただ、これ以上傷口を押し広げられるようなことはされたくなかった。
 ゆっくりと太刀川くんを見る。表情はいつも通りだが、目を見ると、必死に縋る子供のように不安げに揺れている。それがまた私を惑わせる。全部嘘だと言って欲しい。そんな思いに蓋をするようにまた少し俯いた。

「……賭けをしてるって話聞きました」
「なんの」
「私があなたを好きになったら勝ち、ならなかったら負け。私たち二人のゲームなのかと、思ってた」
「……あー」
「私みたいな、すぐその気になる女捕まえて、たのしい?」
「……は?」
「遊びだったなんて言われても、私は割り切れない」
「なんの話だ」
「大人なのに、本気になって馬鹿だなって、思ってたの? ちょろいなって、おもって、」
「おい、ちょっと待て」
「ほんと、さいあく」

 話しているうちに吹き溢れる湯のようにぐらぐらと感情が湧き上がる。大人な顔して無かったことにしようなんて、そんなこと言えるはずがない。好きだったのに。絞り出すような枯れた本音は腹の奥で負け惜しみみたいな言葉になった。
 好きだったのに。そうだ。私はこの男が好きなのだ。部屋も汚い、掃除一つできない。頭も悪くて髭も剃らないこの男がどうしようもなく好きなのだ。

「こないだ、私が好きになったら勝ちって賭けしてるの聞いたの」
「……ああ〜〜〜、なるほど」
「なにそれ、身に覚えあるってこと?」
「言わなきゃダメか? いや、ダメだな」

 嫌がる割に彼の表情は変わらない。数回右上を見て言葉を選ぶように咳払いをした。

「俺の恋が成就するか否かの賭けだ、それは」

 あまりに飾らない言葉だった。しれっと言った彼に凍りついたように体が固まる。今この状況でいったい誰がそんな言葉を信じるというのだろうか。

「……なにそれ、しんじられない」
「信じられなくてもそれが事実だ」
「う、うそだ」
「そんなに疑うなら会話してた本人呼ぶか。それか迅に聞こう」
「よ、呼ばなくていい……」
「賭けたことは謝る。だが流石の俺も好きでもない女の足のサイズは知らん」
「……うそ」
「欲しがってるものも知らねえ」
「なにそれ」
「俺のことガキだと思ってるだろ」
「……えっと」
「いつも勝気なところもクソ真面目なところも。……あと何を言ったら俺の気持ち信じる?」

 鼻先が触れてしまいそうなほど寄せられた顔。真面目な顔。いつも通りの顔だけど、珍しくほんの少しだけ眉間に皺を寄せている。たまに見せる切羽詰まった真剣な顔。
 触れていない筈なのに鼻先から彼の体温がじんわりと伝わってくるようだ。
 信じていいのだろうか、なんて甘っちょろいことばかりが頭をよぎる。私が好きなのはもっとスマートでカッコよくて頭が良くて大人で。そんなこといくら並べても、太刀川くんが掻き消してしまう。
 そう、彼の言う通り。好きになったら負けなのだ。

「教えてくれ」
「……もっと、ちゃんと好きって言って」

 誰が聞いてもわかるようにシンプルな言葉にした。
 私の言葉を聞いた太刀川くんは面を喰らったように目を見開くも、そのまますぐに笑った。

「出会った頃から、口うるさいあんたが好きだ」
「なに、それ」
「真面目で融通効かないくせに、人のこと見捨てられない甘っちょろいところが好きだ」
「……わるぐちじゃん」
「ヒール履いた時の、嬉しそうなあんたの顔が忘れられない」
「忘れてよ」
「ずっとずっとお前が好きだ」

 不意に右手を取られる。徐にトリガーを解除した彼の手は、一瞬でびっくりするくらい熱くて手汗まみれに変わる。伸ばされた先の左胸の奥では、私のなんて比べものにならないくらい激しく打ちつけるような心音が聞こえる。

「……手びしょ濡れ」
「脇汗もやばい。触るか?」
「触らない。顔はいつも通りなのにね」
「あいにく顔に出ない」
「もっとその気にさせて」

 彼の目をまっすぐ見ながらそういうと、彼は面を食らったように鼻先まで近づけた顔を逸らした。表情は見えないが、隠しきれない耳は真っ赤に染まっていた。
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