やさしい人



 雲ひとつない澄んだ青い空が見渡す限りの水平線上に広がっている。空気が澄んで太陽もキラキラ輝いて、からりと晴れたいい天気。どんよりと重たい空模様の冬島の海域を抜けて、船は秋島周辺を航海中であることを告げていた。
 気持ちがいいほどすっきりと目が覚めた。廊下の奥が静まり返った船内に、早起きできたことを確信する。最高の条件が出揃って一人ほくそ笑んだ。ここのところ溜まりに溜まった洗濯物を一掃できると心躍る久しぶりの朝だった。
 はずだったのだが。嵐の前の静けさとはうまく例えたもので、洗濯物が半分ほど片付いた頃に、ドンと一発大砲の音が空高らかに響く。ぐらりと揺れる甲板でバランスを崩してしゃがみこむと、空に広がった洗濯物の隙間から青い炎が飛び上がるのが見えた。数秒後に船のどこからか敵襲だと言う声が響く。襲撃は私が洗濯物を干していた船首の方ではなく、船尾から。
 果敢にもこの海で最強と呼ばれる、白ひげ海賊団に攻め込む命知らずな阿呆はいかがなものか。干していた誰かのティーシャツをカゴに戻し、怖いもの見たさで甲板の柵に足をかけて後ろを覗き込む。相手の姿や船ははうまく見られなかったが、大砲を打ち込まれたせいで船尾からはモクモクと煙と炎が登っている。だがそんなものも、新世界では日常茶飯事である。
 また派手にやっているなぁ、せっかく干した洗濯物が汚れなければいいけれど。そんなことを考えていると、海の上にポツポツと白い何かが浮かんでいるのに気がついた。海だけではない。そこら中に白い紙のようなものが、秋の風に乗ってひらひらと舞い上がっている。それらに釣られて上を見上げると、上空に腕を翼のようにはためかせる人影が見えた。どうやら空を飛ぶあの人物がこの白い紙をばらまいているらしい。マルコ隊長の幻想的で不思議な炎の翼とは少し違う。空を切り裂くようなするどい翼だった。
 なんだか秋の空にはぴったりだ。なんて呑気なことを考えていると、それ見つけるやいなや、青い炎が翼に向かって一直線で突っ込んでいく。マルコ隊長だ。絡み合うような見事な追撃をぼんやりと眺めていると、後ろから羽交い締めにされるような形で甲板の端から引きずり降ろされた。あまりに上に集中しすぎたせいで周りへの注意がおろそかになっていたようだ。

「うぎゃ!?!」

 潰れたカエルのような悲鳴が出た。あまりの驚きの前に可愛い声など出るはずもない。この船で生活してからよく分かったことだ。先ほど船尾に突っ込んで来た敵襲が白ひげの精鋭たちを掻い潜り、もうここまでやってきたのだろうか。
 短い人生だった。危機を感じた私の頭に残った言葉はとてもシンプルだった。漠然とそんなことを思い浮かべていると、わたしを捕まえていた腕は予想外にもスルリと解ける。慌てて後ろを振り返ると、私を柵から引きずり下ろしたのは血相を変えたエースくんだった。

「お前ェ何やってんだ!」
「あ、なんだ、エースくんか」
「なんだじゃねえだろ!」
「敵襲久しぶりだね」
「んなこたあどうでもいいから早く逃げろ!」
「え、いや、でもほら上でマルコ隊長が戦ってて」
「なんでマルコが名前も知らねえ雑魚相手に一直線に単騎で突っ込んでいったかよく考えろ!!」

 そういうと、エースくんは私の頭に自分の首にかけていたハットをかぶせて、そこらへんに落ちている白い紙を掻き集めて突き出した。あまりの彼の剣幕に、なんだなんだと内容を確認して要約状況を理解して、血の気が引く。上空で飛び回る鳥人間がばら撒いていたのは、手配書。何処かで撮られたなぜか満面の笑みを浮かべる私の写真とONLY ALIVEの文字。下には極悪人よろしくゼロが綺麗に整列している。しかも、このとき来ているのは数ヶ月前に春島で買ったばかりのロンティーだ。なるほど最新版に更新されたらしい。

「ぎゃ!」

 どうやらこの敵襲は私を狙ったものだったようだ。一億ベリー。大した戦闘能力も持たない私に見合わぬ金額。本当に金に困った奴らや、中途半端に腕に自信があるやつは何をしでかすか分かったものではない。白ひげ海賊団の中から一人、鈍臭い小娘を連れて逃げればいい。そう思っているのだろう。それに加えて、この間確認した時よりもいつの間にやら二千万も上がり、ついに大台に乗った金額に少しだけ泣きたくなった。

「わかったら顔隠して早く中入れ!」
「あ、でも洗濯物……」
「せん、せ、洗濯物……、あのよお……、もういいから入ってくれ……!」
「え、はい……」

 いつも賑やかなエースくんの声が尻すぼみになっている。力なく肩を下ろす彼を見ていると、なんだか申し訳なってきてしまった。干したばかりの洗濯物に、舞った炎の上がった燃えカスが降ってきている。せっかく綺麗に干したのに。そんな未練がましい言葉は、脱力したエースくんの手前飲み込んだ。わざわざ声をかけてくれたエースくんに一言お礼を告げてから、テンガロンハットのツバを両手で掴んで甲板を走り抜ける。

「おいカモがネギしょってんじゃねーよ!!!!」
「んなとこうろついてんな馬鹿野郎!!」
「体穴だらけになっても知らねーぞ!」
「早く中入れ!!」
「は、はい! 今すぐ…!」

 甲板を走る間、私を見つけたクルーたちから投げられる言葉は、それはもうひどい言われようであった。
 おそらくこの襲撃も、空から降ってくる手配書も全ては二年前のことが発端だ。
当時学生だった私は、学校のある島に親元を離れて一人で住んでいた。なんて事ない、普通の生活。酒屋でバイトをしつつ学業に励んでいた。そこは交易が盛んな島で、海域のものはもちろん、東西南北さまざまな海のものが集まることで有名な島だ。
 海賊もこぞって物資の積み込みをする島で、あまりの海賊の多さに海軍の小さな基地を立てるほどであった。ただ、島の利権を握っていたのが、確かあたりの商船を仕切る金持ちだったせいで、海賊たちは違法行為さえしなければある程度の自由が約束されていた。
 そのため私の働いていた酒屋も、海賊だからと入店を断るような店ではなかった。それが島の普通だったのだ。何かあれば通報。島のそこらじゅうをうろついている海軍たちのおかげで、薄っぺらな平和が長きに渡り保たれている。そんな不思議な島。
 ある日、どこかの海賊団が来店した時、なぜかそこの船長が私のことをいたく気に入って、ほろ酔いの状態で秘密だぞと言って私に果物を一つ寄越したのだ。
 今思えば不思議な果物だった。家に帰ってから律儀にも食べてしまったそれは、表現できないほどのひどい味をした。その果物は結果的にいわゆる悪魔の実で、しかもそれはとある海賊団に襲撃され、島の海軍の基地から盗まれたものだと知ったのは後からである。
 わざわざ海軍の基地に保管してあったのだ。彼らにとって何かしら大切な実だったのだろう。数日後に海軍によって捕縛された海賊団は、盗んだ悪魔の実は私に渡したと素直に吐いたらしい。
 それを聞いた海軍はすぐに私のところにすっ飛んできて、食べてしまったことを確認すると、すぐさまお偉いさんが同意書を持ってきた。だが、その内容がなんとも酷いものだった。死ぬまでの金銭的支援と衣食住を約束する代わりに、何故か海軍の本部のあるマリンフォードでの永住と、端的にまとめれば海軍の招集に必ず応じることを承諾するものだった。
 たまったものではない! と懇意にしている海軍嫌いの元海賊の医者に泣きついたところ、巡り巡って白ひげ海賊団に身柄を預かってもらうこととなったのだ。そして白ひげ海賊団にやってきてからものの数日で完成したのが、先ほどの生け捕りのみの八千万ベリーのバカみたいに高額な手配書である。いつの間にやら一億ベリーになっていたが。
 手配書の雨は止んだ。上を見上げると、ゆうゆう空を泳ぐ翼は青い炎はためかせたマルコ隊長一人だけになっていた。船尾のざわめきも次第に収まりを見せていた。
 これはもしや終わったのだろうかと歩みを緩めた矢先、船尾が軽く持ち上がるほどの衝撃が船に走る。今まで足をついていた床板がぐらりと角度をつけて揺れる。入り口に向かっていたせいで、手の伸ばせる範囲に捕まるところはひとつもない。
 ダンスのステップを踏むかのように足がおぼつかない。むしろ勢い余って体がふわりと宙に浮いた。そのまま一度重力に任せて背中が思い切り欄干に激突する。激痛と共に気道がきゅうと細くなった。これはやばい。私の体が投げ出されていることに気がついたクルーの一人がロープを投げてくれたが、息のできない苦しさと再び訪れる浮遊感で、どう掴んでいいのかもわからず手はそのまま宙を掻いた。
 ふわりと大きな浮遊感が爪先から頭のてっぺんを駆け巡る。人はこれを恐怖と同意とするやもしれない。勢いのまま投げ出された体は、抵抗することもできずに宙を舞う。視界には雲ひとつない秋の空。背中には穏やかに波立つ真っ青な海。船から投げ出された人は海に落ちる時は最後に見るのは青なのか。
 視覚が過敏になっているのか、周りの景色がスローモーションで流れて行く。海に落ちてしまう。つまり泳げず沈むということだ。ありがたいことに過保護な環境に置かれた私は、この体になってから一度も海に入ったことがない。
 どんな風に体の力が抜けて行くのだろうか。怖い。ようやく浮かんだ明確な感情にグッと目を瞑る。潮の香りがだんだん近づいてきて、いよいよかと思った時、ふわりと柔らかな風が頬を撫でる。体にズシリと重みが乗る。驚いて目を開けると、目の前には青い炎が広がっていた。また青だ。

「なーにやってるんだよい」

 背中にある暖かな青い炎。ゆっくりと甲板に向かって降りていくのに従って、青い炎はスルスルと姿を変える。暖かくてゴツゴツとした腕。胸には青い白髭のマーク。先ほどまで上空で飛び回る、鳥人間の迎撃に当たっていたはずなのにどうして。そう思って目をパチクリさせていると、マルコ隊長は顎で甲板を指す。釣られて視線を移すと、甲板では数人のクルーが私たちに向かって手を振っていた。どうやら甲板で私が吹き飛ばされたのを見たクルー達が、空にいたマルコ隊長に知らせてくれたようだ。

「空飛ぶのは俺といる時だけにしとけよい」
「ま、マルコ隊長……」

 脇を軽く抱えられて、マルコ隊長は甲板に降り立つ。ふわりと衝撃がないように降ろされると、頬から耳に向かってするりと髪の毛を撫でられた。擽ったくて目を細める私の様子に、マルコ隊長は安心したように口元を緩める。

「怪我はねえか?」
「だいじょぶ、です!」
「怖くなかったか?」
「……だ、だいじょうぶです! それより船尾が、あの、」
「ん?あぁ、気にすんなよい。エースの懸賞金が跳ね上がった時にモビーの半分が黒っこげになったことを思えば可愛いもんだい」
「ああ…、あれは…」

 そう言って笑ったマルコ隊長は、今度は私の顔を覗き込むようにして体を屈めた。優しげに細められた両目で見つめられると、どうしても顔に熱が集まる。

「怖くなかったか?」

 同じ質問。しかし、その声音があまりに優しいものだから、ほんの少しだけ涙腺が緩んでしまった。逃げ遅れた分際で、今度はおめおめと泣くだなんて情け無い。無理やり滲んだ視界を拭ってみるが、一度湧いた涙は簡単には止んでくれない。

「……ちょっと怖かったです」
「こら、擦んじゃねえよい」
「はい」
「……手配書はみちまったか」
「見ました」
「親父の五十分の一だな」
「いじわるだ……」
「ま、ここにいる限りお前は必ず無事だよい、気にすんな」

 そういうと、マルコ隊長はカサカサの指先で私の目元を優しくなぞる。そして、今度は吹き飛ばされないようにと、私を船内に押し込んだ。私の後頭部にするりと手を回すと、ゆっくりと引き寄せた。コツンと額がマルコ隊長の胸板にぶつかる。ドクンドクンと分厚い胸板の向こうから小さく心音が額を通じて伝わってくる。マルコ隊長はなにも言わなかった。
 そして、私の呼吸が整ったのを確認すると、マルコ隊長はまた船外へと行ってしまった。外の喧騒とは一転、船内はやけに静かで外の騒がしさが遠くに響いている。私のせいで船尾が焼けていることに対する申し訳なさ。それから、いらぬ戦いを引き起こしてしまったことで罪悪感でいっぱいだが、今の私の心臓の激しい鼓動はおそらく別の要因からくるものだろう。
 ゆっくり深呼吸をしてから、船内の奥にいるおやじさんの部屋まで一目散に走り出す。ノックもそこそこにドアを勢いよく開け放つと、おやじさんはいつも通り特製の大きなボトルで楽しそうに酒を煽っていた。
 クラウンを象ったコルクが珍しく机の上に丁寧に置かれていた。あれと首をかしげる。確かあのお酒は、確かこの間攻め込んできた海賊の持っていた珍しい上等なお酒だ。特別な日に飲むと言っていたが、我慢しきれなかったのだろうか。きっと、口煩い主力が甲板に一斉に出払った隙を見て、チャンスとばかりに棚から取り出したのだろう。

「なんだ、忙しねえ」
「お、おやじさん、あの、実は、船が」

 そう言いかけた途端、待ってましたと言わんばかりに船がガタンと傾いた。おやじさんの手にボトルから酒がこぼれる。おやじさんはそれを見ると、チッと大きな口から大きな舌打ちの音がした。

「ご、ごめんなさ、あの、これ全部私のせいで……!!」
「ああ? ガキのくせに小せえこと気にすんじゃねえよ」
「ち、小さくは…! 船尾が燃えてます!!!」
「マルコは何って言ってた?」
「……気にすんなって」
「なら何を気にする。うちの船で一番怒らせたらまずいのはマルコだ。マルコがお咎めなしってんならおれがお前を怒る理由がねえな」
「マルコ隊長は、……私に、その、甘いので、あの」
「グラララ……、ちげえねえ。まあ、目に余りゃ誰かが咎める」

 そう言って笑ったおやじさん。この人が小さいこと、とこの襲撃を片付けてしまったことを肯定するかのように、船のスピーカーからは全て片付いたことが放送された。
 戦闘に加わった船員に怪我人はおらず、現在は敵船からしこたま宝を運び込んでいるらしい。取り分が欲しければ自分で取りに来い。そう叫ぶと放送は切れた、誰も怪我をしなかったことにほっと胸をなでおろすと、気持ちが落ち着いたのか、甲板の欄干でぶつけた背中がじわじわと痛み始めた。

「よ、かった……」
「グラララ! この船にそんな小せえことで腹立てるやつぁいねえさ。雑魚に負けるような奴もだ。お前さんも宝の一つ漁ってこい」
「はい! ありがとうございます、おやじさん」
「娘のしょぼくれた顔は見てて楽しかねえからな。酒があったらここに持ってこい」

 おやじさんに頭を下げて部屋を出る。お前も行くかと誘ってくれたクルーに連れられて船尾に向かえば、エースくんが燃やしたであろう敵戦が黒焦げになっていた。帆が焼けて独特の匂いを放っている。
 次々に運び込まれる樽や木箱。人気があるのは財宝の入った箱だ。白ひげ海賊団は、戦果を上げたものが優先ではあるものの、基本的に宝は全て見つけた人のもの。みな掘り出し物を探そうと、バーゲンセールのような勢いになっていた。
 そんな財宝には目もくれず、食べ物の入った箱をキラキラした目で眺めるエースくんのところに向かい帽子を返す。ありがとうとお礼を言ったものの、彼の気持ちはすでに山盛りの食材に奪われているようで、会話もそこそこにサッチ隊長と今日の夕飯の話をし始めた。
 マルコ隊長はどこかと探せば、彼も特に財宝には興味がないようで、遠巻きに賑わいを見ながら他の隊長達と話をしていた。

「マルコ隊長、さっきはありがとうございました」
「おお。怪我はないか?」

 そう言われてズキズキと痛む背中のことを思い出す。マルコ隊長は船医だ。この千六百人近いクルーほとんどの体調管理や怪我を担っている。チラリと財宝を漁るクルーたち目をやる。怪我人はいないと放送があったが、それは命に関わるような傷や大怪我を負った人はいないという意味だ。
 マルコ隊長は怪我に関しては口うるさい。小さな怪我でも必ず医務室に来るように口酸っぱく言っている。つまり、敵襲の後熱りが覚めれば医務室は人で溢れかえる。
 そもそも不可抗力にしろ、今回の敵襲の原因は私だ。背中が痛いと言ったって我慢できないわけではない。ここにいる戦ってくれたクルーたちの怪我の治療が終わってから、別件の怪我を装っていけばいいだろう。そう結論づけて、私は首を横に振った。
 平気です大丈夫です。この間怪我をしたときにもらった菌を殺す薬はまだ少しだけ残っている。一日くらい放置したって平気だ。平気だと答えた私にマルコ隊長は何よりだと笑って医務室に消えた。
 
 まさかこんなことになるなんて誰が思っただろうか。
 背中の傷は鏡で見ると、想像以上に出血していた。手が届かず軟膏はうまく塗れず、シャワーで汚れを洗い流すも傷口が見えない。とりあえずの応急処置を終えて汚れてもいい服に着替えて眠ったはいいものの、夜中に倦怠感で起きる羽目になった。背中は火がついたかのように熱を持っている。寝返りを打つたびに背中にズキズキと疼痛が走った。
 転げ落ちるようにベッドから這い出て、体を引きずって医務室に向かうも医務室はすでに明かりが落ちていた。夕方までクルーでいっぱいだった部屋も、人の気配すらしない。
 船はすでに静まりかえっている。夜というには遅すぎて、朝と呼ぶには早い時間だ。きっと不寝番のクルーしか起きていないだろう。きちんとマルコ隊長に怪我はないかと聞かれた時に言い出さなかった私が悪い。元きた道を戻ろうと足を踏み出せば、足元がふらついて廊下に倒れ込んだ。背中が焼ける痛い。どうせ誰も来ないのだからとその場でしばらくうずくまっていれば、強く肩を揺さぶられるように体を起された。

「おい、ナマエ、どうした!」

 私が倒れた音を聞いたのだろうか。私の方を抱いていたのはマルコ隊長だった。

「どうした? 気分が悪いか?」
「ま、るこたいちょ」
「熱があるな? いつからだ?」

 彼はあやすように私の背中に手を伸ばすが、ちょうど傷に当たって反射で背中が飛び上がる。眉を顰めたマルコ隊長はちょっと失礼と一言断ってから私のシャツを捲り上げた。自らの手に青い炎を灯すと、背中を見てすぐさま私を医務室に放り投げた。

「昼間の敵襲の怪我か?」
「……すいません」
「おれには嘘ついていいけど、医者には嘘つくな」

 珍しくマルコ隊長の声には怒気が孕んでいた。こんなんばっかりだ。みんなを危険に晒して迷惑ばかり。気にするなと言われるたびに罪悪感が積み上がる。迷惑をかけたくない気持ちが返って大きな迷惑をかけている。そんなつもりじゃなかったなんて、この後に及んでただの言い訳にしかならない。

「ごめんなさい。その、……明日、診てもらおうと思って」
「明日? 死にてえのかお前は。なんのために医務室があっておれがいる」

 マルコ隊長は私に背を向けたまま、消毒綿が入った瓶をがしゃんと乱暴に置いた。反射でびくりと肩を刎ねあげると、彼はため息を吐き出した。

「……悪い。昼間は混んでたから言い出しづらかったよな。おれを気遣ってくれたんだろ?」
「ごめんなさい」
「痛かったな。他はいいか?」
「マルコ隊長に、わたし、迷惑しかかけられない」

 泣くな泣くなと心の中で唱えるたびに涙が込み上げてくる。泣いてばっかり。本当に私は何がしたいのだろうか。滲む涙を誤魔化すように手で仰いでみても涙のスピードに敵わない。ポロポロ溢れ出した涙を悟られないように上を向く。
 この船に乗ると決まったとき、私は絶望した。天下の白ひげ海賊団だ。きっと私のような人間は、虫けらのような扱いをされるに決まっていると思ったからだ。
 悪魔の実の能力で役に立とうにも、私は自分自身が一体なんの実を食べたのか知らない。故に力を使うことができない。私は正真正銘ただの泳げないお荷物である。
 役に立つと証明しなければ。そう思うと今みたいに空回りばかりでミスを連発していた。そんな私に声をかけてくれたのがマルコ隊長だ。お前にもこの船を好きになってもらいたいと笑ったあの人の笑顔が今も脳裏に鮮明に焼き付いている。
 彼のおかげで私はこの船も、この船に乗っている白ひげの家族のことも大好きだ。でも私は彼らにかけてもらった分の何一つ返せていない。洗濯をしたって掃除をしたって、優しさと恩の負債が溜まっていくばかりだ。なんの役にも立てない。挙げ句の果てにこうして夜中に彼を起こして治療までさせて。

「……ナマエ」
「まるこたいちょ」
「ナマエ。泣くな。迷惑かけていいよい」
「だって」
「そのかわりおれにだけにしといてくれ」

 くるりと椅子が回る。彼の顔はどこか呆れているような、笑っているような。私の目に浮かぶ涙を親指の腹で拭うと、目線を合わせるように腰を曲げた。

「お前のためなら夜中も起きる。何回空に放り出されても真っ先に助けに行くよい。お前が怖いと思うものから遠ざけてやる。その代わり一番におれのところに来い」

 まるで底なし沼のような人だ。ズブズブ沈んで私はもうここから抜け出せないのだろう。今の言葉にどんな意味が含まれているのかわからないけれど、スッと他意なく真っ直ぐに入ってくる言葉が暖かかった。
 涙を拭ってくれる手のひらに頬を寄せる。明日からまたみんなにもらったものを返すために頑張るから、許されるならば今はもう少しだけ彼の優しさに溺れていたい。
- ナノ -