喧嘩した諏訪が出ていく話


「諏訪なんか嫌い」

 リビングにやけに響いた声。タイミング悪くテレビのCMも音が小さくなっていた。諏訪は数秒黙り込んでちらりと私を横目見ると、またテレビに視線を戻した。

「そうかよ」
「もうやだ」
「お前いい加減頭冷やせ」

 きっかけはほんの些細な喧嘩。珍しくオーバーヒートして白熱した言い争いの結果、軍配は諏訪に上がった。
 今日は散々な一日だった。駅で知らないサラリーマンにわざとらしくぶつかられて、バイトでは厄介な客に理不尽なクレームをつけられて。天気を予報を見て持ってきたはずの傘は、朝の電車の手すりに引っ掛けたままだった。
 諏訪に頼まれた水道料金の支払いも忘れたし、ずぶ濡れで買ってきた卵を二つも割ってしまった。諏訪はいつも通りのはずなのに、何やってんだよと言われた一言が何故だかいつもより冷たく聞こえた。思わずそんな言い方しなくてもと言い返してしまった。
 嘘。ヒートアップしていたのは私だけで、諏訪は別に何も言っていない。満足したかと冷たく言われて終わり。
 諏訪は口も悪いし、すぐに乗ってくるタイプだが、喧嘩をすると途端に理性的だ。声を荒げたりしないし、こっちのことを大声で否定したりしない。
 しない代わりに、自分が悪くない場合は喧嘩にすら乗ってこない。こんなふうにあしらわれて終わり。
 熱くなっていつも思ってもないことを口にして、勝手に落ち込んで。そんなことばかり。いつも喧嘩しては後悔するのは私だ。
 落ち込むことばかりで疲れていて当たってごめんねと謝ればいいだけなのに、たった数秒の一言が出ない。当たるくらいなら今日辛かった話を愚痴れば良かったのだ。
 事情も話さずに当たるだなんて、今日の理不尽なクレームと何が違うのか。そんな自分にさらに罪悪感が降り積もる。悶々とした気持ちで皿を洗えば、つるりと手が滑って皿を一枚真っ二つにしてしまった。今日は厄日だ。
 もう! と叫び出しそうになるのを唇を噛んで必死に我慢していると、音で全てを察したのか、ため息一つ吐き出した諏訪が新聞紙を持ってキッチンに来た。

「俺がやるからもう寝ろ。破壊神かお前は」
「……私が片付けるから、いい」
「指切るぞ」
「あっち行ってて」
「お前な」

 胃の中がぐるぐるとかき回されるような不快感がした。自分でも驚くくらい気持ちが制御できない。諏訪の気遣いも優しさも全て素直に受け入れることができない。
 そんなはずないのに、今の自分は世界一不幸な気さえしてくる。なんで私ばっかり。なんて子供じみた言葉ばかり浮かんでくるのだ。
 何度気持ちを立て直そうと思っても、こうして降りかかる災難が心を根本からへし折る。これ以上私にどうしろと言うのだろうか。
 このままではろくな言葉が出てこない。諏訪から新聞紙をふんだくり、真っ二つの皿を包む。幸い欠片は飛び散っていなかった。

「……ちょっと外出てくる」

 そう言った声はぼやけていて、もう今にも泣きそうな声だった。少し濡れた手で目元を擦ると朝のマスカラが指に付いた。
 スマホと鍵くらいはもたなければと頭では思うが、リビングに向かうのも億劫だった。タオルで手の水気を拭いてから、ふらふらと玄関に向かう。玄関の時計は後数分で日付が変わることを示していた。

「は?」
「あたま、ひやす」
「やめろ。何時だと思ってんだ」
「知らない」
「おい」
「触んないで。あっちいって」
「……俺といたくないってか」
「そう」
「……なら俺が出る」

 玄関のドアノブにかけた手が止まる。ついでに今にも溢れ出しそうだった涙も引っ込んだ。意味が理解できず、は? と聞き返す。諏訪は答える気はないようで、自分のスマホを探し始めた。

「な、何で諏訪が出て行くの」
「うっせーな」
「私が出て行くって言ったの!」
「いい。俺が出る」

 諏訪が出て行く。頭で理解した途端にサッと血の気が引くように頭が冷えた。諏訪と同棲を始めて一年。こんなくだらない喧嘩は何度もしたけれど、諏訪が出て行くと言ったのは初めてだった。
 やってしまったと後悔する気持ちもあったが、やはり取り繕う気持ちも折れた。今度は心臓にまとわりつくようなドロドロとした感情が込み上げてくる。

「頭冷やせって言ったの、諏訪じゃん」
「一人になりてえなら家も外も変わらねーだろ」
「何で、……なんでそうなるの!」

 諏訪の気持ちは変わらないらしい。私の静止も振り切って、ドスドスと玄関に向かった。
 こんなくだらない喧嘩がしたいわけではない。腕に絡みつくように止めるも、特に気にした様子もない。行かせないとガッチリとドアノブを掴む私の手をあっという間に解くと、玄関の中に私を押し戻した。
 諏訪が帰ってこなかったらどうしよう。そう思うとまた涙が込み上げてくる。これで諏訪と別れてしまったら、きっと今日は人生で一番最悪な日だ。
 諏訪が怒らなかった段階で機嫌をなおせば良かったのだ。寝ろと言われて素直に応じていれば良かったのだ。何回もこんなくだらない喧嘩に付き合わされていた諏訪の気持ちを考えるべきだった。
 何度嫌だと言っても、諏訪は出て行くのを止める気はないらしい。タバコの残りの本数を確認しながら靴箱やサンダルを取りだす。

「なんで、なんで出て行くの」
「決めたから」
「やだって言ってるじゃん」

 隣の住人からしたら、いったいなんの騒ぎだと思われるだろう。嫌だ嫌だと言っても止まらない諏訪についにどうしたらいいのかわからず、玄関にうずくまって泣いた。小学生の時だってこんな泣き方したことないのに。
 わがままな私が何を言っても文句を言いながら受け入れてくれる人だった。口は悪いけど優しくて、私のことを絶対に否定したりしない。
 この人しかいない、諏訪が最後の人がいい。友達にそう何度も惚気たくせに、どうしてこんな簡単なことに気が回らないのか。泣いたって仕方がない。それにきっと泣きたいのは諏訪の方だ。

「……馬鹿、泣くなよ」
「だって、やだ」
「帰ってくるに決まってんだろ。勝手に人を追い出すんじゃねえ」
「諏訪あ、」
「お前は嫌いでも俺はお前が好きだからな。夜中に彼女一人外に出すなんて馬鹿馬鹿しいリスクは取らねえんだよ。公園でタバコ吸ってくるからテレビでも見て頭冷えたらラインしろ」

 鍵閉めろよと諏訪は私の頭をぐちゃぐちゃに撫でて、鍵とタバコ、スマホとライターだけ持って本当に出て行ってしまった。
 追いかけるように急いでドアを開ける。新しいタバコを咥えたばかりの諏訪は、あまりの早い呼び出しにギョッとしていた。
 そのまま裸足で諏訪に飛びつく。無言で私を抱きとめた諏訪に、蚊の鳴くような声でごめんなさいと言うと、そのまま体を抱き抱えられた。

「一人になりてえんじゃねえのか? いいのか?」
「もういい」
「ったく、素足で突っ込んでくんな」
「一人はいやだ」
「へーへー。もう帰る」

 世話の焼けるやつだなと諏訪は呆れたように言った。咥えていたタバコをポケットに押し込まれていた箱に戻した。
 時間にして三秒。たった数メートルの諏訪の家出は、これにて終了である。ようやく出てきたごめんの言葉で私の気持ちもようやく軽くなったような気がする。

「……私、すごいわがままで、今日みたいに気持ちの整理つかなくなることある」
「知ってる」
「それでも諏訪、私のこと好き?」
「嫌なら付き合わねーよ」
「私、諏訪のこと大好き」
「そう思うんなら当たってもいいから、嘘でも嫌いとか言うなよ」
「ごめんなさい」

 玄関に私を座らせた諏訪。後ろ手で鍵をかけると、私の目の前にしゃがみこんだ。そしてしゃーねーから許してやるよ、そう言って唇にキスをした。少しだけ甘いタバコの味がした。
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