No moon No swell

 海軍に籍を置いて幾許。
 残念ながらあんまり勤勉で優秀な海兵ではなかったが、最近は後輩と呼べる存在も増えてきて、意外と先輩という立場も楽では無いのだなと思い始めた。そんなこの頃。たまには一人で任務も任されるようになってきた私に、ご指名だという任務が飛び込んできた。
 なんでも、海軍は昨今の海賊の動向を鑑みて、主要の海賊団に潜入捜査として海兵を送り込んでいるらしい。潜入って言ったって何も世界がひっくり返るようなスクープを取ってこいっていうわけでも無いし、戦争を事前に止めろなんて大それたことでも無い。ただ正確な動きを把握する程度にとどまる。
 その説明を聞いて、ふうんと小さく頷く。この任務は何も一般海兵に伏せられているものではない。海軍ではこの任務につくのは、顔の怖い人だけだとまことしやかに噂されてきた程度には周知されていた。たしかに賊に混じるには怖いくらいでちょうど良いよね、なんて笑い話を同期としたばかりだというのに、その任務に当たる海兵に私が選ばれたと言う。
 いや、何で私? と直属の上司に半狂乱で詰め寄った。六式? 悪魔の実? そんなもの私のこの貧弱な体に備わっているわけもないだろう。海賊船なんてところに放り出されたら、一瞬で殺されて終わりではないかと。しかし上司はそんな私を宥め、君でも行けそうなところだからオーケー出したんだよと。
 まぁこの上司とはなんだかんだと入隊当時からの付き合いだ。私に何ができて何ができないかくらいよくわかっているだろうと、いったん納得した。辞令が出るまではやれることもないので開き直ってのほほんと過ごしていたわけだが、辞令が出て事態は急変する。私に割り振られていた潜入先は、泣く子も黙る四皇、白ひげエドワードニューゲート率いる白ひげ海賊団だったからだ。
 再び上司に泣きついた。そんなに私が憎いのかと。すると、ナースとして潜入するだけだから大丈夫だよと根拠もない理由で慰められた。白ひげ海賊団は家族には手を出さないと言う。看護師の資格を持ち、それを買われて海軍に本採用になったことをこの日ほど恨んだことはない。つまり家族でないことがバレたらぶっ殺されるではないか。
 白ひげはこの海に名を轟かす最も有名な海賊の一人であるが、海賊でありながらも義賊のような一面を持っていた。無益な戦いはしない。民間人に手を出さなければ、反対に民間人を脅かす海賊らを始末して回った。海軍だってそうやって海の皇帝として君臨してきた彼が今更何かしでかすだなんて思っていない。
 強さとはそれだけで抑止力となる。しかし近年の持病の悪化を理由に、海のパワーバランスが崩れることが海軍としては一番恐ろしい。万を超える彼の傘下の海賊たちが、彼の衰退を理由に暴れない保証はない。毎年続々と湧いてくる新生たちや、残りの四皇たちも彼の首を狙っているやもしれない。私に与えられた任務は、ナースとして船に潜入し、彼の容体に変化があれば報告せよとそれだけであった。
 知ったこっちゃない、というには話が壮大すぎた。私は自分が可愛いけれど、周りの目も気になるタイプなので、涙を堪えて頑張りますとしか言えなかった。それに泣こうが喚こうが辞令はすでに出てしまった。異議申し立てをしろと? この作戦を名目上仕切っている青キジに? 無理である。
 もうこれ今生の別ですからね人でなし、と泣きじゃくる私に呆れ顔の上司。はいはい、頑張って。なんて雑な送り出しで、泣く泣く予定の港から白鯨を象ったモビーディック号に乗り込んだ。
 乗船するや否やさっそく手渡されたピンクのナース服は、下着の線が浮き出るほどにボディラインをはっきりと浮き出るピタピタのものだった。どこの世界に豹柄のニーハイブーツを履いて看護師をするバカがいるのだと目をひくつかせた。
 初っ端から最悪だと固まる私にオヤジのシュミだから我慢しろと苦笑いを浮かべたのは、不死鳥マルコ。白ひげ海賊団の一番隊隊長であり、ナースと医療部隊を仕切るこの船の船医である。
 しかしふざけているのは意外にもこのナース服だけで、この船乗り込んでみれば意外にまともな船であった。皆廊下ですれ違えばきちんと挨拶は返し、白ひげは何処の馬の骨ともわからぬ私を受け入れ、娘だと言ってくれた。
 医学に対する造詣も深く、その中でも特に不死鳥マルコは立ち寄る島々に研究者や有名な医者がいれば教えを乞うほどに熱心であった。
 ベガパンクとパイプのある海軍の方が単純な技術という点においては優っているかもしれないが、さまざまな海を渡り実際に足を運んで得た彼の知識は広い。ひとたび戦闘が始まってしまえば、彼もそこら辺の海賊と変わらないのだが、思慮深く、穏やかな彼は尊敬するに十分過ぎる人だった。時々セクハラオヤジっぽくなるのはさておき。
 私の名前を呼ぶ間延びした声も、無骨な手のひらで優しく私の頬を撫でる手つきも、好奇心旺盛で少し子供っぽいところも。私に抱かせてはいけない感情を思い出させる。
 そのうちナースたちが頻繁に話題にする「付き合うなら誰?」や「抱かれるなら誰がいい?」という質問には、いつからか必ずマルコ隊長だと答えるようになった。アンタマルコ隊長好きねぇ、と揶揄う姐さんたちの言葉を笑ってやり過ごせなくなったのはいつからだろう。最初はそのくらい素直に答えられる方が馴染みやすくて人間味があっていいかも、なんて思っていたはずなのに。
 潜入任務にあたって今年で三年。この船に対して、どうしても飲み込めぬ感情ばかりが湧いて敵わない。
 
「ねえ、マルコ隊長が呼んでたわよ」
「……え、何かしたかな」
「あら、思い当たることでもあるの?」
「ないけど」

 早く行ってあげたら? というナースの姐さんの言葉に甘え、仕事もそこそこにマルコ隊長の部屋を目指す。目当ての部屋の前で少しずり落ちたニーハイブーツを上げ直す。もうこの格好にもなれたし、下着のラインが浮くのが嫌ならばティーバックを履けばいいという姐さんたちの言葉に赤面することもなくなった。かく言う私も、今となっては勤務中はもっぱらティーバック派である。
 二回ノックをすれば開いているとだけ返ってきた。中ではマルコ隊長がカルテ片手にデスクに腰掛けていた。よう、と手を振る彼に心臓が握り潰されてしまいそうなほどに苦しくなる。

「待ってたよい」
「あの、私何かしました?」
「なんだ? 何かおれに怒られるようなでもことしたのか?」
「記憶には、ないですが」
「おれもねェな」

 真っ白な歯を見せて笑う少年のような笑顔にまた胸が締め付けられる。彼の一挙一動が眩しい。ときめく。もう末期だこれ。この船に来てたくさん助けてもらった。大切にされていると実感することばかり。白ひげ海賊団では、敵襲の際は一番最初に非戦闘員の安全確保から始まる。船内で大人しくとしていろと押し込められて、戦闘が終わると真っ先に私の無事を確認しに来てくれる。マルコ隊長が他の人よりも私に構ってくれている気がするのは自惚れではないだろう。好きになるなと言う方が無理だ。本当に何で私をこの任務に就かせたのだろう。

「次の島、循環器内科の医者と勉強会やるが行くかい」
「え! 行きたいです」
「お前ならそう言うと思った。誘ってよかったよい」

 そしたら帰りに二人で食事をしよう。そう付け足したマルコ隊長はニヤリと口角を持ち上げる。二人きり、まるでデートだ。もちろんですと返した声は上擦ってしまい、マルコ隊長はケラケラと笑った。次の島には三日後には到着する。嗚呼、上陸が待ち遠しい。
 
「次の上陸地点から本部へ帰還せよ」

 子電伝虫から帰還命令が入ったのはそんな矢先の出来事だった。海軍は潜入が明るみに出ないように潜入官を数年おきに変える。潜入から三年。この船ではうまくやっていたし、三年任務を全うしたなら十分だろう。大手を振って海軍に戻れる。
 あれだけ泣いて嫌がっていた私が任務を全うしたとなれば、上司だって私にしては頑張ったときっと褒めてくれるはずだ。それだと言うのに、帰らなければいけないことに私が一番絶望しているのだ。ありがとうと入隊当時から一緒にいるリボンがよく似合う小さな子電伝虫を撫でれば、すんと眠ったように大人しくなる。部屋は気味が悪いほどに静まりかえっていた。
 
 その夜は珍しく深酒をした。たいして飲めない酒を煽るように飲み、付き合ってくれていた姐さんたちに絡む。仕事中は厳しいけれど、仕事が終われば姐さんたちはみんな面倒見が良く優しかった。
 今日ばっかりはどうしたのよと邪険にせず、頭を撫でてくれる彼女らに、「実は私は海兵で潜入任務が終わって海軍に帰らなければいけないのに、名残惜しくて仕方がない。いっそのこと帰りたくないとすら思っている」だなんて素直に言えるはずもなく。なんでもです、と泣きながら叫んだ。

「そろそろやめにしなさい」
「どうした、珍しいな」
「もう、マルコ隊長からも言ってやってくださいな。あなたの言うことなら聞くでしょ」
「何がそんなに悲しいってんだ?」

 いつの間にやらどこかのテーブルを抜けて来ていたマルコ隊長は、私の隣にどっかりと座り込み、やんわりと私の手からグラスを攫った。距離感はまるで酒場で無遠慮に絡んでくるナンパの類と同じなはずなのに、誰にでも許すわけでない距離に入れてもらっていることが嬉しくて仕方がない。
 返せしてくださいと手を伸ばせば、やなこったと残りの酒は全てマルコ隊長が飲み干してしまった。これを契機と言わんばかりに、一緒に呑んでいた姐さんたちはそそくさとテーブルに転がっていた酒瓶のあれやこれを全て下げてしまった。
 マルコ隊長はナースたちにあとはおれがやるよい、と言って部屋に戻してしまった。時計を確認すればとっくに日付は変わっている。美容と健康にうるさい姐さんたちは普段ならばとっくに眠っている時間だ。付き合わせてしまって申し訳がないとごめんねと声をかければ、いいよとお茶目なウインクを返してくれた。つまり、マルコ隊長と二人きりの方がいいでしょうとそう言うことだろう。

「酒に飲まれてっと悪い奴に食われても文句言えねェぞ」
「わるいやつ」
「おれみたいなやつだね」

 マルコ隊長は少し戯けたように脅した。初めてこの船で酒を飲んだ時に「部屋には連れ込まれないようにね」と姐さんに言われた。男女のことに関しては白ひげも知ったこっちゃねェという具合なのだ。どちらかと言うとナースの方がケロッとしている方が多いけれど。ここは曲がりなりにも海賊船。酔っ払って転がって部屋に連れ込まれても文句は言えないとそう言うことである。
 でも目の前のマルコ隊長は介抱するばかりでナースも他の女の非戦闘員も部屋に連れ込んでいるところを見たことがない。紳士。この三年間、約千日のどこかで間違いの一つでも起こればよかったのに。

「いいです」
「あのなァ」
「まるこたいちょうは、女のひとだかないんですか」
「そりゃ抱くよい」
「私だけますか、マルコ隊長のしゅびはんいないですか」
「は?」
「……うう、そんなこというなら、おもいでほしいです、まるこたいちょう

 私の泣き言が食堂中に響き渡り、普段はこんなに叫んだりしない私が暴れているのを酒を飲んでいた兄弟たちは面白がって「いいぞもっとやれ」なんて囃し立てる。マルコ隊長はやんわりとそれを去なす。
 めちゃくちゃ酒を煽って分かったのだが、呂律は回らないが私は比較的酒を飲んでも意識がはっきりしているタイプだ。マジで何やってんだろうと言う感情が脳みそのど真ん中にあるのに叫んでいるのは、もう時間がないからである。ここまで来たら背に腹は変えられない。
 海賊と海兵。パンピーと賞金首。訳あって交差したけれど、この際私とマルコ隊長が再会する未来など存在しないだろう。私みたいな弱小激弱海兵なんて前線に出したがる馬鹿な指揮官はいない。
 それに三年間ここで過ごして彼ら白ひげ海賊団は無益な殺生も戦いも好まない。海兵どもめと口では言うが、無意味に戦おうとする人なんて一人もいない。彼らはこの海で一番自由な存在で、この船を降りたらそんな彼らに私の手が届くことなんて二度とない。
 それにもし次に会う機会があったなら、彼らに向けられる目線は軽蔑だろうか。家族としてこれ以上ないほどに大切にしてくれたのに、私はその気持ちを裏切るのだから。もう二度とこんなに優しい目線を向けてくれないのなら、思い出が欲しい。マルコ隊長にたしかに優しい目線を向けられていたのだという思い出が。
 
「ったく。何があった」
「……ひみつです」
「何だそれは」
「マルコたいちょ、わたしのことずっとわすれないでください」
「……思い出だけでいいのか?」

 不意に落ちてきた言葉に、え? と顔を上げればマルコ隊長は笑ってなどいなかった。真っ直ぐに私を見下ろしている。表情は読み取れない。怒ってはいないけれど、彼の中の感情は凪いでいるわけでもなさそうだ。
 まさかなんて気持ちを煽るように、マルコ隊長は私の頬を撫でる。ドキドキと馬鹿みたいに心臓が暴れだす。酒のせいというには無理があった。

「据え膳なら食うぞ、悪いが」
「……えっと、」
「帰れなくなっちまうな」

 どこに? そんな言葉はマルコ隊長の唇に塞がれて言葉にならなかった。マルコ隊長からは、さっきまで私が飲んでいたお酒と同じ味がする。触れ合うところ全てまるで熱に溶けて一つになってるみたい。
 さらば私の恋。そう思い目を瞑る。周りでおお、と煽るような声すらキスのいやらしく立つ水音がかき消してしまった。



 昨晩はあれよあれよと言う間に全て剥かれ、あっという間もなく隅々まで喰われた。抱かれたと言うよりも、喰われたという表現が適切だ。そんな夜だった。結局彼と過ごした一晩は思い出になんかならず、彼への想いを深くするばかりであった。
 だってあのマルコ隊長はベッドの上ではあんなふうに私の名前を呼ぶだなんて知らなかった。私を求めて眉を寄せる彼も、好きだと繰り返す唇も、陶器のように優しく私に触れる指先も。こんな気持ちになるくらいならば全部知らなければよかった。切ない。マルコ隊長の温かい腕に抱かれながら、バレないように泣いた。
 体のあちこちが痛い。マルコ隊長は朝食に誘ってくれたが、とてもベットから抜け出すことはできなかった。シャワーを浴びてコーヒーを飲みながらいつもの仕事場に向かう。
 腰が痛い。爆発しそうだ。なんなら初めての経験の時のよりも体が悲鳴を上げている。それなのに、昨日のことを思い出してはジュンと熱が滲むのだ。今日ばかりはティーバックなんて履いてこなければよかったと後悔した。 
 おはようございますと挨拶をしていつも通り仕事に着く。今日は島が近いから医療品諸々の棚卸しと、オヤジの血液検査の日。一通り検査して、オヤジの治療方針を決める会議が入っていた。それからオイスターがシーズンになるので食中毒喚起に、それから。重たい腰を摩りながらやるべきことに優先順位をつけていく。すると近くで見ていたナース長は大丈夫? と声をかけてくれた。

「辛そうねぇ、どうしたの?」
「……寝不足で」
「ナース長、ついにこの子ったらマルコ隊長に食べられちゃったのよ」
「あらぁ? あらあら、よかったじゃない。ついにあの牙城崩壊したのねぇ」

 おめでとうと笑顔でお祝いしてくれる姐さんたちに募るのは罪悪感ばかり。私次の上陸でトンズラするんです。海兵に戻らないといけないんです。でも、意識が遠くなるくらい莫大な薬の棚卸しまでは必ず終わらせてから消えますので。心優しい祝福を浴びるが心はすり減る。それでも絶対に帰るもんかと、大きな組織には向かえるだけの勇気は私にはなかった。

「ね、どうだった?」
「……腰、痛いです」
「やだぁ、情熱的! ドキドキしちゃう」
「今度詳しく教えてね」
「まあ、ハハ、話せたら」

 次の島で海軍支部に無事帰還すれば私の任務は完遂される。初めての大仕事は成功するのだ。それなのに、姐さん達と酒場でお酒を飲みながら昨日の夜の話がしたい気持ちが拭えない。ほんと、なんでこんなに情に流されやすい私なんかを潜入官に選んだんだろう。

「じゃ、マルコ隊長と寝たってことは帰らないってことかしら」
「あの人がみすみす帰すわけないじゃないですか」
「あの人独占欲の塊みたいな人だし」
「そうそう」
「――……え?」

 すぐ隣で展開される、まるで水が流れていくような会話の内容に身体中の血が冷え切った。まるで芯から凍りついたように体が動かない。指先が冷たくなって冷や汗が止まらない。今、彼女たちは何と言っただろうか。私がどこに帰らないと?
 しかし、固まって動かなくなった私を見た姐さんの一人はコロコロと笑って私の肩を叩いた。

「やだ、バレてないと思ってたの?」
「……え?」
「最初からみんな知ってるわよ」
「え?」
「前任の潜入官にね、人手足りないからどうせなら寄越すならナースが欲しいわって言ったらあなたが来たのよ」

 そこまで聞いて昨日のマルコ隊長の最後の一言を思い出した。帰れなくなっちまうな。意味はわからなかったけれどまさかまさかまさか。今度は弾かれたように体が動きだす。マルコ隊長の部屋をノックもなしに開けるが、彼の姿はない。食堂にも医務室にもおらず、クルーがオヤジのところにいるぜと教えてくれた。
 万事休す、終わった。一番恐れていたことが今目の前にある。私は今ここで死ぬかもしれない。逃げたい。海の上なので逃げられないけれど。
 殺されてしまうくらいなら、もういっそのこと仕事に戻ろう。今出来ることで死ぬまでにやりたいことが一つあるならば、大好きな姐さんたちのために棚卸しを手伝うことだ。一緒に無限に近い錠剤を数えることだ。
 開き直って踵を返せば、どこに行くつもりだとイゾウ隊長に捕まってしまった。棚卸しに行きますとはとても言えず、大人しく長い髪に引かれるように後ろをついて歩く。行き先は聞かなくともわかる。船長室だろう。
 イゾウ隊長がノックもせずに入った船長室には、マルコ隊長とオヤジがいた。二人が並んでいるだけでもう息もできないほどに苦しい。私一体どうなってしまうのだろうか。グラグラの実って仮に人に使ったらどんな感じになるんだろう。わざわざ能力なんて使わなくてもオヤジの大きな手のひらに握られたら、全身くまなく複雑骨折でショック死するだろう。
 しかし、そんな爆発しそうな不安とは裏腹にマルコ隊長はいつも通りよぉと手を振った。オヤジも特段気にした様子もなく酒を煽るばかり。このあと血液検査あるって知ってるくせに。

「よぉ、体どうだ」
「……え? いや、その」
「ちょうど良かった。そろそろ呼ぼうと思ってたんだ」

 ここでオヤジとマルコ隊長、それから私でする話など一つしかないだろう。もうしらばっくれたって無駄だろうと、覚悟を決める。

「あのいつから、知ってたんですか……」
「は? ハナっから知ってたよい」
「え?」

 ハナから? ハナって一体どこだ。
 私が船に乗った三年前からと言うことだろうか。だったら私は今なぜここでのうのうと生きているのだろう。私の不安はどうやら顔に出ていたようで、マルコ隊長は私の頬をつねった。

「毎回潜入官を寄越す時、それとなく海軍側から情報が入る。前任のやつにどうせ寄越すなら可愛い子にしろと言ったらお前が来たってそう言うわけだ」

 マルコ隊長の言葉は姐さんたちの言葉と重なる。本当にこの人たちは、私が海兵だと最初から知っていたのか。というかそんなふざけた要望が通るのか海軍。

「オヤジの体調で海軍がどうなろうが知ったこっちゃねェが、民間人にまで被害が及ぶ可能性があるってんなら教えてやりゃいいだろってオヤジがな」
「……え、え?」
「まぁだからってお互いじゃあどうぞ船に乗ってくださいって訳には行かねェからよい」
「あの、」
「舐めたマネしたら締めるが、お前類を見ないほどに真面目に働いてくれたからよい」
「え」
「ナース向けの研修にも勉強会にもちゃんと出てたしな」
「ふ、つう出ないんですか?!」
「何人か潜入官は来たが、女ってのも理由だろうがこんなに馴染んでんのはお前さんくらいなもんだ」

 隣にいたイゾウ隊長が最後にそう付け足した。どうりで任務期間長いはずだよ。
 マルコ隊長は昨日ベッドでしたみたいに頬を撫でて髪の毛を梳かす。その優しい手つきが余計に別れたくない気持ちが募る。ずっとこの人の腕の中にいたい。マルコ隊長に好きだと言って欲しい。マルコ隊長の役に立ちたい。そんな思いばかりが溢れて、飲み下せなかった分がぽろりと涙としてこぼれ出す。

「帰りたいか?」
「……わたし」
「今ならまだ帰してやるよい」

 どうする? と涙を拭う彼の笑顔は優しい。一般人よりもよっぽど優しいと感じてしまうのは、私がもう彼に絆されてしまっているからなのだろう。

「……帰りたく、ないです」
「ハハ、そうか」
「マルコ隊長が好きです」

 帰らなくてもいいならここにいたい。
 ごめんなさい、私を可愛がってくれた上司。お世話になった先輩。迷惑をかけ続けた後輩も。マルコ隊長の手を取ると、彼は涙の浮かぶ目尻にキスをした。
 海軍を辞めて無事ここに戻って来られるのだろうか。それやったドレーク少将って賞金首になってなかったっけ。私の首にかけられる金額なんてたかが知れてるだろうが、海軍をやめて無事ここまで戻ってくるのは無理だろう。では今生の別れか。グズグズと泣きながらそんなことを考えていると、マルコ隊長は一言泣くんじゃねェと言った。私の涙を拭いながら不敵に笑う。

「私、海軍辞めてここに戻って来られる自身がありません」
「だろうなァ。鈍臭ェからなお前」
「マルコ隊長……」
「んじゃ可愛いお前のためにたまには海賊らしいことでもするかねぃ」
「――え?」

 そう言うと、マルコ隊長はどこからか一際小さな子電伝虫を取り出した。見覚えがある。と言うより私がつけてあげたピンクのリボンがお気に入りの気の弱い子。島に近づけば本部に繋がるからと、この潜入に唯一持ってきた海軍に入った当時に支給された友達。あまりの恐怖からか、マルコ隊長の掌で固まって動けなくなっていた。目線だけで私に助けを要求している。
 マルコ隊長は子電伝虫に本部に繋げと有無も言わせぬ迫力で言うと、子電伝虫は震えながらに電波を繋いだ。上陸予定があったせいでここは陸から近い。やばい、繋がってしまう。そう思ったのも束の間、ガチャと通信がつながってしまった。

「10-2、ネイル」
「赤」
「え?」

 何故それを。私が海軍本部と通信を繋げるときに言わなければならないパスコード。決めたのは私で、その言葉になんの意味もない。何の意味もないからこそ、なぜ彼は知っているのか。

「こちら本部、少尉応答せよ」
「こちらモビーディック号」

 もちろん私ではないことに気がついた通信を受けた海兵は、何者だと狼狽えている。

「よお、お前らんとこの潜入中の海兵が随分やらかしてくれてな」
「……は?」
「この海兵はおれたちで預かる」
「……お、落ち着きなさい!」
「可愛い子猫寄越しておいて散々可愛がらせてから帰せなんて、人が悪いこと言うなよい」
「ちゅ、中尉は」
「今まで通り望む情報はくれてやる。悪い相談じゃあねェだろうよい」

 どうする。選ばせているようで彼の表情と声音は、通信に出た海兵はペーペーだろうなな、ノーだなんて言わせる気はとてもない。この通信を傍受した電伝虫は、一体どんな恐ろしい顔をしているのだろうか。
 とんでもない人に目をつけられてしまった。私と一緒に船長室までやってきたイゾウ隊長「愛されてんな」と、私の脇腹を突きながら呑気に笑う。愛されているで済むのかこれは。というより私の部屋から子電伝虫を勝手に持ち出した時点で、私を帰す気なんて無かったのではなかろうか。帰りたいと言っていたら私、どうなっていたんだろう。
 そんなに高い志があって海兵になったわけじゃない。安定志向、お堅い食いっぱぐれない職業といえば海兵しか思い付かなかっただけである。
 しかし、こんなにも向いていないとは思っても見なかった。だって大好きな人が私をこの船に縛りつけようとしていることに、こんなにも心がときめいているのだから。
 
 のちに、海賊の潜入捜査官として女性海兵を使うなとお達しが出たそうだが、結局マリンコードを返却することにした私がそんなもの知る由もないのであった。
 この一件を経て、海兵誘拐の冤罪を着せられたマルコ隊長の懸賞金は四百万ベリーも上がってしまった。しかしお前を手に入れるなら安いもんだと横で笑う彼に、私は今もときめいている。
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