ようそろ




 負けん気だけでずっと頑張ってきたけれど、今日ばかりは心が折れてしまいそうだ。静かになったドックでハァとため息を吐けば、嫌味なほどに響いた。
 業務時間はとっくに終わっている。みんな帰宅し、各々の時間を過ごしている。カクはルッチ達を連れて飲み屋に行ったし、給料日から日が経っていない絶好調のパウリーは、意気揚々と新聞片手に夏のトゥウィンクルレースへと向かった。
 水路の周りをまばゆいほどの電飾が囲い、幻想的な光の中をヤガラブルたちが駆け抜ける夏の風物詩である。暗闇に慣れないヤガラブル達がいるおかげで大番狂わせが起き、ダークホースが抜けてくる。ヤガラレース好きにはたまらない一戦である。パウリーが行かないはずもない。
 一方の私、残業。世間的には花金的な日なのに。高く積み上がった木材と睨めっこをしながら鋸に手をかける。なんてことない。今日に限ってびっくりするくらいトラブル続きで、尻拭いの尻拭いの尻拭い……を終わらせた頃には日はとっぷりと沈んでいた。
 要領が悪いからそうなるんじゃ。なんてカクのいつもの軽口すら上手く流せなくて、手伝ってくれそうな気配を見ないふりしてドックから追い出した。社長はあんまり残業を好む人じゃないけれど、一人がこっそり仕事をするくらいバレたりしない。ドックの一角の明かりを灯して作業を始める。遠くからはヤガラレースの光景が目に浮かぶほどの湧き上がる様な歓声が聞こえる。なぜだか今日ばかりは惨めに思えた。

 小さい頃からこのウォーターセブンで育ち、船大工達の背を見て育った。父も祖父も船大工。私も船大工になりたいと言った私を祖父は笑い飛ばし、父は諭した。男の世界で女にはとてとつらい職場だと。しかし、小さい頃から年の離れた兄弟に揉まれて生きてきた私にとってそんな二人の言葉すら発破を掛けただけだった。
 誰よりも勉強したし、誰よりも遅くまで練習をした。女がなんだと言う奴らも沢山いたけれど、がむしゃらに努力する私を馬鹿にする奴らはそのうちいなくなった。そんな努力の末、勝ち取ったのがガレーラカンパニーの内定である。
 しかし仕事と勉強、理想と現実は違う。女ではどうにもできないことばかりで、客も女と分かれば高圧的に態度を変えるものもいる。女に船の何がわかると怒鳴られたこともあった。力仕事では邪魔者扱いだし、体力だって足りない。そんな私をいつもフォローするのが同期のパウリーだった。
 私に対して理不尽なことを言う客を怒鳴りつけ、仕事だって平等に振った。そんな仕事を振ったら可哀想だろうと言う人もいたが、私の気持ちを私ってか知らずがパウリーの「職人に女も男も関係あるか」という一言はいつも私を救ってくれた。
 まあ、女と言われるのが嫌で髪も顎のラインでバッサリと切って、怪我が怖くて肌ひとつ露出しない私のことなんてきっと女とも思っていなかったと言う説もある。
 しかし、がむしゃらに船のことだけ考えて生きてきたが、最近努力は必ずしも報われるわけではないと言う言葉が身に染みる。
 同期だったはずのパウリーはぽんぽんと飛び上がる様に出世し、今や一番ドックの職長を務めている。彼が沢山努力しているのを一番そばで見ていたはずなのに、なんだか置いていかれた気分になった。
 あっという間に私の倍以上の仕事を終わらせて、定時でヤガラレースに行けるパウリーと、振られた仕事もろくに終わらない私。投げやりになった手には、追い討ちをかける様に木材のささくれが刺さった。
 
 パウリーのことが憎いかと言われるとむしろ逆で、船一筋に生きてきた私が初めて心を悩ませているのが彼である。まあ彼が私に仕事で声を荒げることはあっても、間違ったって顔を赤く染めたりしない。それって女として見られていないわけではなくて? いつかそう言った友達の言葉に撃沈。もうぐうの音も出なかった。そう、まぁ、脈も何もないってことだ。
 恋も仕事も何も上手く行かない。さっさと仕事を終わらせて、帰って飲もう。こんなマイナスな感情しか浮かんでこない日は飲むに限る。
 乱雑に広げられた資料をまとめていると、がこんと暗闇で何かを蹴っ飛ばすような音が聞こえた。驚いて手元の資料がザラザラと地面に散らばる。暗闇の向こうからは鍵慣れた葉巻の香り。ひょっこり顔を出したのは、やっぱり定時で颯爽と帰ってはずのパウリーだった。

「何やってんだお前」
「……え」
「何時だと思ってんだ」
「パウリーこそ、なにしてんの」
「ドックに明かりが付いてるのが見えた」

 そういうと、パチンとドック全体の明かりが灯る。二人きりのドックにはいつもなら聞こえないはずの、電球がブンと唸る音がした。残業をしていたことがなぜだが後ろめたくて、急いで散らばった資料を拾い集めるも、運悪く資料の数枚はパウリーの足元へ転がっていた。

「なに溜めてんだ」
「……計画表と、外板の」
「来週でもいいだろ、んなもん」
「……良くない」
「はぁ?」
「早く行きなよ。レース終わっちゃうよ」
「……おれのレースはもう終わったんだよ」
「……また負けたの?」
「うるせェ」

 パウリーは新しい葉巻の先を指先で千切り火をつける。そして置いてあった木材に手を伸ばした。

「外板おれがやっから、早くその計画書なんとかしろ」
「一人でやるから帰っていいよ」
「ハ? 帰れねェぞ」
「いいの」
「可愛くねェな」

 どうせ可愛くないわよ。すぐハレンチだと騒ぎ立てる男に赤面もされない可愛くない女よ。だめだ今日は絶不調だ。まるで水水肉のように心が柔らかくなって、どんな言葉でも面白い簡単に心に刺さってしまう。

「パウリーの馬鹿、阿保、童貞」
「おい、一つ関係ないだろ」
「もう辞めたい」

 やっぱり女がやすやすと生きていける世界じゃないんだ。明日になったら、来週になったらまた持ち前の負けん気で頑張れる自信はあるけれど今日だけはどうにもだめだ。絶対に泣くもんかと唇をかみしめて見ても、涙の膜は分厚くなるばっかりで引っ込んでくれないし、目頭はツンと痛いほどに熱い。一回も職場で泣いたことなかったのに。しかもパウリーの前でなんか泣きたくなかった。対等に扱ってくれていたのに、これでは対等では無理だと言っているようなもんだ。

「……おい」
「かえって、ひとりにして」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「なんで見え透いた嘘つくんだテメェは」

 そういうとパウリーはドックの奥へと消えていった。いなくなったと思ったら、箍が外れたように次から次へと涙が湧いてくる。体の中の水分が全部涙になってしまったみたいだ。右を拭えば左が溢れる。煩わしいとTシャツの裾で目元を拭えば、いつの間にか戻ってきていたパウリーに腹を見せるなと手を払われる。そして代わりに真っ白なタオルを手渡された。どうやらドックの奥にこれを取りに行っていたらしい。洗った奴だと断ったパウリーはそのまま雑に目元を拭った。

「おれは、言っとくがあんまり励ますのとか得意じゃねェぞ」
「……知ってる」
「早くねェのは仕方ねェ。力仕事がままならないのも誰も責めたりしねェよ。むしろ周りの筋肉持て余してる奴ら顎で使っちまえ」
「……うん」
「お前の仕事は、丁寧だし正確だ。頭もいいからみんなトラブルがあると頼る。頼りにしてる」
「……え?」
「辞めるとか……あんま言うな。今日もさんざっぱらトラブル対応させておいてほっといて悪かった」

 ほら、終わらせよう。そう言ったパウリーの言葉尻がどうにも優しくて、もう意固地にすらなれなくて素直に頷いた。
 計画書を片付ける片手間で横目でパウリーの作業を盗み見すれば、やっぱり惚れ惚れしてしまうくらい正確で早い。レース場で絶望し、社長秘書に喚き散らす彼とは大違い。私が一緒に過ごすパウリーのほとんどは、船大工のパウリーだ。
 やっぱり好きだ。職人としても、一人の人間としても。そんな一生伝わらないかも知れない気持ちをそっと背中に投げかける。
 パウリーに手伝ってもらったおかげで、まだドックの向こうは明るい。どうやらトゥインクルレースが終わる前に終わったらしい。パウリーのことだ。またレースに戻るのかと思いきや、どうやら送ってくれるらしい。何も言わずに私の家の方角へと歩き出す彼の背中を負った。
 仕事の話。アイスバーグさんの話に、酒場の話。いつもの他愛無い話をしていればあっという間に我が家が見える。少し高台にあるアパートメント。アクアラグナの影響を受けないところを第一に選んだ物件である。パウリーはもう泣くなよと触れてほしく無いことを軽く掘り返した。

「パウリーご飯食べた?」
「飯食う元気も金もねェよ」
「手伝ってもらったし、よかったら夕飯でも食べてく?」
「……は?」
「あ、でもあんまり難しいのと時間かかるのは作れないよ」

 米と麺もあったはず。卵に野菜もいくらか残っていた。二人分の夕食くらいならなんとかなる。トゥインクルレースに戻るにしても、先ほど聞こえた大歓声はおそらく今夜最終レースの終わりを告げていた。奢ってくれそうなカクとルッチはきっとブルーノの酒場だろうが、ここから向かうには些か距離があった。
 カバンの中に沈んだ鍵を探していると、ピタリと隣のパウリーの足が止まる。彼が声を荒げたのは、どうしたの? と振り返ったと同時だった。

「――行くわけねえだろ!」
「え?」

 キンと耳が痛くなるほどの大声での拒絶だった。近所迷惑もいいところの声量に思わず耳を塞ぐ。何か彼の気に触るようなことでも言っただろうかと彼の顔を覗き込めば、なんとも言えない間抜けな声が口の隙間から溢れだした。
 ワナワナと震えるパウリーは、これでもかと眉間に皺を寄せて不機嫌そうだが、耳まで顔を赤くしていた。

「……え?」
「何言ってんだお前は……!」
「え、……は?」
「お前までハレンチなことを言うな!」
「ちょっと待ってよ、私はただの、お礼と思って……」
「ふざけんな!」
「気に障ったなら、謝るけど……!」
「お前、か、簡単に、夜なんかに男を部屋に入れンな!!」
「……え?」

 部屋の前にたどり着いてしまった。しかし、パウリーの言葉がうまく飲み込めずその場に立ち止まる。

「……は?」
「ハ? じゃねェわ」
「だ、だって」
「テメェはなんとも思ってねーかも知れねェがな、おれは男なんだよ!!」

 その気もねェくせにンなこと言うな! とパウリーは私の手から鍵をふんだくり、半ば押し込むように部屋に入れて玄関の戸を閉めた。石の階段をドシドシと音を立てて歩いて行く彼の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。いきなり赤面していきなり声を荒げて、まるで嵐のようだ。アクアラグナだってもう少し予兆があると言うのに。
 おれは男だなんて、そんなこと出会った時から知っている。おれは男。じゃあパウリーにとって、私はずっと女だったわけか。ずるずると玄関の戸を伝うようにしゃがみ込む。とんでもない爆弾を投下してくれた。じゃあ彼が最後に口にしたその気とはいったいなんなのか。
 仕事は全て終わらせて正解だってかも知れない。どうせ来週出社したって彼の顔を見るたびに仕事が手につかないだろう。赤面するパウリーを思い出すたび心臓が壊れてしまいそうだ。嗚呼、どうにも今夜は眠れそうにない。
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