少女が一人消えた

 時々混じる目線を気まずそうに笑って逸らされることも、私と二人きりになると極端に会話が減ることも気がついて知らんぷりをしていた。他の二人とは明らかに対応が違うことも、昔はもう少し普通に話せていたような気がするのに。今日はたまたまだと自分に言いかけては傷ついて、いつしかもうそんな慰めは役に立たなくなった。
 特別扱いをして欲しいわけではないが、私は彼の特別になりたかったのだ。そんな淡い夢は船に乗って毎日潮風にさらされているうちに風化した。
 体のどこに存在するかわからない心とは、一体どんな材質で一体形をしているのだろうか。ただ、私の心は存外軽い音を立ててぽきりと折れた。きっと彼を思う数年の中で痩せ細り、気付かぬうちに脆くなっていたのだろう。
 彼が色々な女性に目を奪われるたびに中身が流れ出ていって、ついに私から気まずそうに目を逸らした後にナミちゃんに目を奪われる彼を見て折れた。涙は出なかった。諦めていたからなのか、恋を諦めて泣くほど子供じゃなくなってしまったからなのかわからないけれど。あの二人の距離が近いのは今に始まった事ではない。今更傷ついたりしないのだから、積み上がったものが崩壊するきっかけに過ぎなかったのだろう。
 船はグランドライン後半の海、新世界を行く。二年経って背が伸びて心も体も大きくなったルフィくんの「海賊王」という夢は、色や陰影を得て現実味を増す。雑用をやるしかこの船で立場のない私が中途半端な心意気ではダメなのだ。
 二年経って、背が伸びて髭を蓄えた彼はますます魅力的だ。私の手の届かないところに行ってしまったと思う方が良いのだろう。振られる勇気も、気持ちを伝える勇気もない。私の中であったが、外の世界ではなかった。そんな恋なのだ。

「レディ、紅茶は如何ですか?」
「……ありがとう、今は平気」

 彼は優しいから私を邪険に扱ったりしない。とびきり優しくてとびきり甘い。まるでお姫様みたいに扱ってくれる。それがまた苦しかった。
 彼がくれる砂糖みたいな底なしの甘すぎる優しさに埋もれて、私の恋心はいつまで経っても腐らない。もう終わり、期待などしないで欲しいと突っぱねてくれれば良いのにと何度思っただろうか。しかし、私はそれができない彼が好きなのだ。砂糖の海から抜け出して、いつかこの恋が朽ち果てるのを待つしかなかった。
 何か決意のようなものが欲しくて、伸ばしていた髪の毛をバッサリと切った。フラリと一人で島を降りたときのことだ。新しい自分にと書かれた看板がやけに胸に刺さった。長い髪の方が女性らしくて良いだろうか。そんな曖昧な理由で伸ばしていた髪だった。
 まるで彼への積み重なる思いのように重たくて傷んでいて、全部切ってとお願いしたらスッと軽くなった。うなじを撫でる海風も新鮮で、スッキリと首が長く見える。まるで別人だ。彼を好きだった私はこの世からいなくなってしまったようだった。今鏡に映るのは憂鬱な顔をしている彼を好きだった私ではなく、彼を忘れる新しい自分だ。
 船に戻ればおかえりと出迎えてくれたナミちゃんは、珍しく手にしていた大切なオレンジを落っことした。

「ど、どうしちゃったの、その髪……!」
「似合わないかな」
「そんなことない! とっても可愛いわ。びっくりしただけ。気分転換?」
「うん、失恋したの」

 口に出してみると案外朗らかな声が出た。私の言葉を聞いたナミちゃんははそんな話聞いたことがないと興奮気味に目を丸くする。素敵ですと言ってくれたブルックの言葉でさらに心が軽くなる。サンジくんは目を見開いて口元を押さえて、そして目が合うといつもの通りフイと逸らした。ジリジリと心臓の奥が焼けるように痛い。きっとこの痛みもいつか無くなるのだろう。

 短い髪の毛は、洗うのも乾かすものケアをするのも楽ちんだ。毎日あれだけ悪戦苦闘していた日々はなんだったのか。あっさり終わってしまったドライヤーを片付けると、ふと彼のことを思い出す。
 一度だけ手を怪我した時、彼が髪の毛を乾かしてくれたことがあった。綺麗な髪の毛だと褒めてくれたあの言葉が嬉しくて髪を伸ばし始めたことをふと思い出した。余った時間で彼を思ってしまうのなら意味がないではないかと苦笑する。
 気分転換をしようと真っ暗な甲板に出る。ナミちゃんがいつも腰掛けている椅子に腰掛けて海を見渡す。灯ひとつない海原からは船体にぶつかって泡立つような波の音だけが聞こえてくる。目を瞑れば船は少し揺れる。
 月明かりに背を向けて船は進む。行き先にはただ広大な海だけが広がっている。見慣れたはずの光景なのに、今日ばかりは少し恐ろしく思えた。
 今、静かに海原に落ちればきっと誰も気が付かない。海に揉まれて身動きが取れなくなって、そしていつか力尽きて海の底に沈むだろう。そんなふうに気持ちをほんの少しずつ捨てていくしかない。
 しばらく海風に当たっていると、こんこんと小気味良い音を立てて誰かが階段を登ってくる。踏みしめるような革靴の音。何度も聞いた彼の足音だ。思わず椅子から立ち上がるも、ここから下に降りるには今しがた彼が登ってくる階段を降りるしかない。片腕にブランケットをかけて、彼は私を見つけるとタバコを咥えたまま柔らかく笑う。

「甘いものはいかがですか」
「……サンジくん」
「夜風もいいが風邪ひいちまうぜ」

 私にブランケットを手渡した彼は、目の前のテーブルに小さなケーキ皿を置く。ほんのりと湯気の上がるアップルパイだった。

「また熱いから、気をつけて」
「……美味しそう」
「温かいりんごの方が好きだろ」

 彼の言葉に目を見開く。ナミちゃんは冷たいフルーツの方が好き。煮込んだり温めたりしないでそのままが好き。私とロビンはなんでも構わないというから、いつもフルーツを使ったデザートは冷たいものかゼリーなどそのままフルーツが食べられるものが多い。
 温かいりんごが好きだなんて言ったっけ。たしかに温かいものの方が好きなのだけれど。

「悪い。苦手だったか? 前にアップルパイ作った時、好きだって言ってたような気がしてさ」
「……でもナミちゃん冷たい方が好きじゃない?」
「……なんでナミさん?」
「いや、いつも冷たいのが多いイメージだから」
「これはナマエちゃん用に作ったんだ」

 彼の意図が読み取れずに首を傾げる。アップルパイは大好きだ。卵をたくさん使った、彼の作る甘さ控えめのカスタードクリームも。しかし私用にこれを作る意味がわからないと手をつけようとしない私に、彼は気まずそうにタバコを蒸した。

「ナミさんからその、……落ち込んでるんじゃないかって聞いて」
「ああ、なるほど」
「レディが弱ってるところに付け入るなんてしたくねえが、その、……君を振った男は見る目がない」

 甘くて柔らかくて優しくて、なんと残酷なのか。とってつけたような言葉はわたあめのように柔らかく、息もできない程に私の首を絞めた。私とは目も合わせてくれないあなたがそれを言うのか。本人にそう言われてそうだねと笑って流せるほど、温め続けた恋心は軽い気持ちではなかった。
 私が他の女だったら、切った髪を褒めてくれただろうか。取り繕ったような言葉ではなく、落ち込む必要はないさと優しく言ってくれただろうか。好きになってもらえたのだろうか。目を合わせてくれたのだろうか。 

「……サンジくん」
「――は?」
「私、サンジくんのことが好きだったの」
「え、あ、は?」
「言うつもりなかったのに」
「あの」
「だからもう無理に優しくしないでいいよ」
「聞いてくれ」
「傷つくから」

まだ湯気を立てるアップルパイを置いて、泣いてしまう前に退散しようと彼の脇を通り抜けると、ぐいと肩を引かれる。バターとりんごの匂いがする。気がついた時には彼の腕の中にいた。
 背中から抱き止められて彼の表情は見えない。やめてと体を捩るたびに私を捉える腕の力は強くなる。ピッタリと密着した背中と胸。諦めたと言ったくせに、背中から伝わる彼の熱に心拍数は上がる。そんな自分が嫌になった。

「……待ってくれ」
「お願いだから離して」
「どうしたら、傷つかない」
「サンジくんが、離してくれたら傷つかない!」

 押し除けるように彼に伸ばした手は、あっという間に絡め取られた。力強く私の動きを制御するのに、手のひらを掴む彼の手だけは優しい。まるで愛しむように私の手の甲を指先がなぞる。それがまた苦しくて、痛いほどに熱くなる目からは涙が一粒こぼれた。一度決壊してしまうた涙は止まらない。

「おれを優しいと思うなら、おれの優しさを真っ直ぐそのまま受け取ってほしいんだ」

 抵抗をやめた私を彼は自分に向き直らせる。膝を曲げて私の目線に合わせた彼は、私の目から止めどなく流れる涙を拭う。拭ったって涙は止まりやしない。彼の本心が見えないからだ。彼はもう抵抗もせず静かに涙を流すを私にほとほと困り果てたと言わんばかりのため息を吐き出してから、じっとまっすぐ私を見た。彼と目が合うのはどれくらいぶりだろう。

「おれは君と目が合うたびに恋に落ちてたよ」

 また涙がぽろりと溢れた。

「……私は、サンジくんに目を逸らされるたび傷ついてた」
「ごめんね、でもナマエちゃんが可愛すぎて真っ直ぐなんて見られない」

 逸らさずにずっと目を合わせていたら、彼はこんなな顔をするのか。困り果てたように眉を垂らして耳まで真っ赤だ。口をへの字に曲げてまるで子供みたい。二年前の少し幼さが残る彼のことを思い出して、堪えきれずに吹き出してしまった。サンジくんは急に笑い出した私に戸惑ったように眉を寄せる。その表情があまりに可愛くて、頬にそっと唇を寄せる。
 ここまで言われたら敵わないじゃないか。これでは臍を曲げていた私の方が悪いみたいだ。やはり彼は底抜けに優しい。その優しさが時折自分に向くだけで嬉しい。それがたとえ仲間として向けられる感情としても。これが私の長かった恋の終わりなのだ。

「……優しいサンジくん。ありがとね」
「……違う、違うんだ」
「態度悪くしてごめんね。明日からまた元通り普通にするから」
「聞いて」
「温かいうちにアップルパイ食べようかな」
「……その余裕綽々とした笑い方がたまらなく好きで、たまらなく憎らしい」
「え?」

 すると弾かれたようにまた彼の腕の中に抱き寄せられた。今度は胸と胸がくっつく。彼の心音が聞こえて私の壊れてしまいそうなほどの心音も彼に届いているだろう。
 耳の横を彼の髭が触る。キスしてしまうくらい近い距離で、囁かれた一言に湧き上がる感情を整理するように噛み締めた。さっきまで優しく指先で拭われていた涙が、べろりと舌で舐め取られた。あまりの驚きで上擦った声が漏れる。

「これは優しさだと思うか?」
「え……」
「大切にしたいさ。でも違う」

 真っ直ぐと私を見ているようで、浮かされるように宙を見る瞳。彼の目の中には間抜けな顔をした私が映り込んでいる。頬をなぞる彼の指先にはさっきまで感じていた優しさはない。皮膚と皮膚が擦れるたびに、腰から力が抜けてしまいそうなピリピリと甘い痺れが生まれる。

「おれは時々君をどうしようもないほどめちゃくちゃにしたくなる」
「サンジ、くん」
「腹の奥からドロドロしたものが湧き上がって押さえきれなくなりそうだ」

 うなじから指先が這い上がるように登ってきて後頭部を押さえ込まれる。サンジくんは咥えていたタバコを外すと、何も言わずに私の唇にかぶりつく。味見したであろうアップルパイの甘さに、タバコの苦味が混じる。やっぱり優しい彼の気持ちはいつでもわからない。

「アンタが思ってるほど優しかねえぞ、おれは」

 眉間に皺を寄せて低い声で凄む姿は、まるで脅しのよう。キスの合間に呟いた彼の言葉に返事をしようにも、私のことなどお構いなしに止まないキスがそれを邪魔するのだ。
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