肉薄の檻




「船長の決定に異論はねえ」

 だが、と続きそうで続かなかった言葉に怯み上がる。そう言ってぎろりと睨みつけるように私を見た彼の顔が今でも忘れられない。不服と顔に書いてあって、その鋭い眼光は彼の携えている刀のように、あっという間に私のことを斬り伏せてしまいそうだった。
 ルフィやナミ、サンジらの歓迎ムードとは打って変わって氷点下のような出迎え。それが麦わらの一味で、剣士として船に乗る彼との出会いだった。
 船長である以上みんなの前では私を仲間にすると言ったルフィを立てたが、目の奥では私のことを信頼していないのがひしひしと伝わってきて、私はその彼の真っ直ぐすぎる目線が怖かった。人一倍責任感が強くて、人一倍仲間を大切にする人だから彼が私への警戒を解くまでは随分と時間を要した。
 私から手渡された食事は一才手をつけないし、食事中も私が死角になるところには座らなかった。例え寝ていても私が近づけば寝ているフリをしながら警戒を続けているエトセトラ。
 船に乗ってからどれくらい経っただろうか。激しい戦闘の後だ。みんな満身創痍になっていた中で、私は疲れ切った様子の彼にコーヒーを差し入れした。サンジが買い付けた豆をドリップして入れただけだが、初めて彼が口をつけて上手いと言った。嬉しかった気持ちが半分、彼が仲間と認めてくれたとホッとしたのが半分。
 心を開いてからのゾロはまるで大きな犬のようだ。元々口数は多くないが、何か求めるようにじっと見られることが増えた。最初のうちは戸惑っていたのだが、そのうち彼が何をして欲しいのかわかるようになった。
 ルフィやウソップは元々表情豊かだが、例えるならゾロは真顔の種類がたくさんある気がする。話がしたい時はそばに寄ってくるし、コーヒーが欲しい時だけは「おい」と声をかける。
 何よその偉そうな態度、とナミは時々真顔で何かをの出るゾロに眉を顰めるものの、その距離感が私にとっては心地よかった。彼の仲間の懐に入ると、彼は甘やかされていると感じるほどに優しかった。
 あの日を境にあの刃物のような鋭い視線は飛んでこないし、私はあの朝以来ずっと彼にコーヒーを淹れている。それは二年間離れ離れになっていた後でも変わらなかった。久しぶりに会って前よりずっと逞しくなったゾロにガチガチに緊張していた私とは打って変わって、私を見つけるや否やコーヒーを強請った。それが何より嬉しかったけれど、二年経った今は少し申し訳なくもある。彼の懐の暖かさが、時々私を苦しめる。

「おはよ、ゾロ。コーヒー飲む?」
「……おはよう」

 もともと私が何もできないことを知ってルフィは船に乗せてくれた。私だって彼のことが好きだし、力になれるならなりたかった。悪魔の実を食べる機会があれば、たとえどんな実でも必ず食べよう。そう心に決めていたものの、悪魔の実に出会う機会などそうそうない。むしろ人数の少ない船内で悪魔の実を食べた人間がこれだけ揃っている方が珍しいのだ。二年前も、二年経っても私は無力のままだった。
 むしろ二年経ってみんな戦う力を身につけて、あっという間に背中が見えなくなるほど置いて行かれたような気がする。そのうち助けを呼ぶのが怖くなった。怪我をしたと言い出すのも億劫になってしまった。
 なるべく足手纏いにならないように。なるべく迷惑をかけないようにとそんなことばかり考えていると、最近また彼の目線が刺さるような気がしてならない。
 苦手だ。隻眼になった彼の目線が私の弱いところを暴こうとしている。暴いた先、彼がどう言う反応をするのか想像していつも途中で怖くなってやめてしまう。
 こうやってコーヒーを差し出すたびに、いつか手を払われてしまうのではないかと不安になる。毎朝きちんと受け取ってくれることにホッとして、また夜になれば明日受け取ってくれなかったらどうしようと不安に駆られて眠りが浅くなる。
 何も言わず連れ添うようにすぐそばにいる彼が、真顔で何かを求める彼が時々無性に愛おしくなる。この関係に終わりが来ないで欲しい。その時がくるのを永遠に待つのか終わる前に自ら手放すか。そんな二つの選択は、不安定な均衡を保ち続けていつも決めかねる。でも足手纏いだからとこの船を降りるには、私にとってここが大切な存在になり過ぎていた。
 
 
 その日はやけに静かで、皆が口々に暇だ退屈だと溢していた。海は凪いでいて風一つ吹かない。船はトロトロとかろうじて前に進んでいた。魚のかかりが悪いと、ルフィは欄干に沿わせるようにぐにゃりと体を投げ出している。
 ならば歌でもどうですか? とこんな時にバイオリンやらギターやらを持ち出すことが多いブルックも、今日ばかりはリクライニングチェアでのんびりと昼寝に勤しんでいた。
 退屈だわ、と独り言をぼやけばちょうど近くにいたゾロと目が合う。コーヒーでも飲む? と問えば、ダンベル片手に汗を垂らす彼は何も言わずに小さく頷いた。
 今日はアイスコーヒーのほうが良いだろうか。そういえば昨晩、夏島を近くを通るからとサンジと一緒に水出しコーヒーを仕込んだことを思い出す。そろそろいい頃だろうとキッチンに向かって歩き出せば、チカリと視界の端に何かが映り込む。
 レディ、と緊迫したサンジの声が聞こえたと思えば、なにかの衝撃を受けた私の体はあっという間に空中へと投げ出された。スローモーションのように景色が過ぎていく。ふわりと宙を舞うコントロールの効かない体で攻撃された方を見やれば、遥か向こうの水平線に黒点が見える。敵襲だ。そう叫ぶまもなく、あっという間にサニー号の甲板を飛び越えて海へと放り出された。
 海面に叩きつけられてバシャンと派手に飛沫が上がる。水面に打ちつけた背中がヒリヒリと痛む。泡立つ海に揉まれながら、やっとの思いで顔を出せばサンジはジャケットを脱ぎ捨てて、今にも海に飛び込まんとしていた。ゾロも欄干に足を引っ掛けてこちらを覗き込んでいた。
 助けてと手を伸ばそうとすると、役立たず、と誰の声でもない声が脳内に響く。まるで瓶に詰めたコルクのように、喉の奥の何かが邪魔をする。

「大丈夫か!? 今助けに……!」
「だ、大丈夫! 怪我してないし、自分で上がれるから……!」

 心配しないで。そういうと、見計らったかのように反対側から敵の攻撃本格化し始める。どうやら遠距離から攻撃が可能なようだ。皆の顔がまた臨戦態勢に戻る。
 クリマタクトを握り直し、無理ならすぐに助けを呼んで! というナミの声に頷いてから船のラダーステップに向かって泳ぎ出すも、手を掻いた途端にクンと足が引かれる。下を見れば、ぬるりと大きな目玉が見えた。
 しまった海王類だ、と太腿に備え付けられていたダイビングナイフを取り出すも、大きな海王類にこんな小さなナイフでは焼け石に水だ。鼻先をナイフの歯が掠めるも、硬い皮に小さな傷がつくだけだった。鼻先にぶっすりと刺さったダイビングナイフに木を取り直すように顔を振る。その衝撃にぐるんと体が揺れて、ナイフから手が離れてしまった。海王類は痛くも痒くもないと言った様子である。
 思わず船を見上げると、ちょうど刀を咥えたゾロが見えた。ほんの少しだけ気のせいかもしれないが目があった気がする。もちろん助けて欲しいなんて声は出ない。右足に飛び上がるような痛みが走って、次の瞬間ツプンと大した音も立てずに海に引き摺り込まれた。
 海面の光が次第に遠のく。音が消える。噛まれた足が痛む。下を覗き込むことは恐ろしくてできなかった。いくらもがいても沈む体が恐ろしくて、口から大きな泡が溢れ出す。苦しい、怖い、助けて欲しい。息が苦しいだけなのに何故か身体中が粟立つように痛くて、最後に小さな泡が口から出るとそのまま意識はブラックアウトした。
 ここまま死ぬんだろうか。それよりも何の役にも立てなかったことが、唯一の心残りだ。



 何かに押し出されるように、ゲホと咳が出て意識が浮上する。頬を叩かれるように右を向かされると、びしゃびしゃと嫌な音を立てて口から塩辛い海水が溢れ出した。
 生きてる、と理解するまで少しだけ時間がかかった。

「大丈夫か!?」
「わ、たし」

 目が覚めると甲板にいた。芝が柔らかく私の体に触れる。目だけをぐるりと動かすと、すでに戦闘は終了したのかあたりはまた穏やかな海に戻っていた。
 バスタオルをたくさん抱えたナミはバスタオルごと私の体を抱きしめる。心配したんだから、と震えながら言う彼女の体は暖かくて、自分の体がいかに冷えているのかがわかる。
 心配そうに顔を覗き込むチョッパーが早く医務室に運ぼうと言えば、掬い上げられるように体が浮き上がる。びしょ濡れの体に溶け合うように触れる皮膚はじんわりと温かい。しかし、上半身がはだけた衣服だけは私と同じようにぐっしょりと湿っていて、短い緑の髪からはぽたぽたと雫が滴っていた。
 彼は何も言わないし私を見ようともしない。ただ、三連ピアスが歩くたびに擦れて小気味良い金属音を立てるだけだった。

「辛いところはないか?」
「大丈夫」
「寒くはないか?」
「ありがとうチョッパー」
「傷はなるべく残らないように治療するから安心してくれな」

 医務室で着替え、濡れた髪を拭う。体は冷えているが、ガタガタと震え上がるほどではない。噛まれた足も出血こそ激しいものの、つま先までちゃんと繋がってしっかりと動いた。チョッパーは噛まれた傷を消毒しながら無くなっていなくてよかったとホッとしたように笑みをこぼした。

「ゾロが潜って引き上げてくれたんだ」
「……そう、なの」
「ゾロが気づいてくれてよかった」

 やはりあの時目が合ったように感じたのは気のせいではなかったと言うことか。あの時彼は一体どんな顔をしていたっけ。
 チョッパーの治療の説明もそこそこに、そんなことを考えていると、バタンと無遠慮に扉が開く。ノックもなしに訪れた訪問者に、チョッパーは諌めるようにドアに駆け寄った。
 訪問者はドア先でチョッパーと何かを会話を交わす。チョッパーの目線に合わせるように膝を折ったせいで会話の内容は聞こえなかったが、チョッパーと入れ替わるように部屋に入った。
 部屋に入ってきたのはゾロだった。濡れた衣服はすっかり着替えていたが、髪を拭ったタオルはまだ肩に肩にかかったままだ。
 ゾロは何も言わずに医務室の鍵を閉める。カシャン、と鍵のかかる音が静かな部屋に響き渡った。彼は何も言わず、先ほどまでチョッパーが腰掛けていた椅子にどっかりと座り込んだ。

「た、たすけてくれてありが」
「何で助けを呼ばなかった」

 ゾロの低い声が私の声を遮る。彼の声音も表情も、私を責めているわけではないのだろう。単純に理解ができず、腑に落ちないといった様子だった。

「……それは」
「おれが気づかなきゃ、てめえは今頃おっ死んでるぞ」

 彼の目線は包帯に巻かれた足に向く。なぜか後ろめたくなって、手元でくちゃくちゃになっていたブランケットを放り投げるようにかけた。

「……自分で上がれると思ったの」
「お前、最後おれと目が合っただろ」
「……助けなくて、よかったのに」
「――お前はおれに、仲間を、見殺しにしろって言いてえみたいだな」

 核心に触れる彼の言葉に、思わずじわりと視界が滲む。
 強いあなたにはわからないと強く言い捨てられないほど今の私の精神はぐらついていた。だってそんな言葉を吐いたら、きっと私と彼の関係は崩壊してしまうではないか。
 でもこんな小瓶のように小さいところに押し込められたような私の悩みなんて、きっと理解されないだろう。大好きな彼に理解ができないと一蹴されてしまうのも辛い。
 ぽたりぽたりと大きく小さく垂れる墨が、次第に私の思考を真っ黒に塗り潰していく。最後に残ったのは、まるで叱られておずおずと謝る子供の言い訳のようだった。

「そんなんじゃない」
「じゃあなんだ」
「……なんでもない」
「じゃあなんで助けを呼ばなかった」

 プツンと私の中で何かが切れた音がした。助けを呼ぶことを辛く感じているなんて、きっと彼には考えも及ばないのだろう。真っ直ぐに彼を見れば、目頭が痛いほどに熱い。体は冷え切っているのに、私の中から滲み出ようとしているものは温かいのだ。

「何の役にも立てないのに」
「あ?」
「……っ、迷惑ばかりで、それが、最近死にたくなるくらい、……つらい」
「――は?」
「どうやったらみんなと一緒に居られるのか、わからない」

 じゅんと目元に涙が滲み、ぽろりとこぼれた。ふたつもみっつも歳下の男の前で、みっともなく涙を流すなんてなんと情けないのだろう。助けてくれた仲間の前で、助けなくて良かったと言うだなんて何と恩知らずなのか。
 それでも海に落ちて死にかけた恐怖よりも、また足を引っ張ってしまった罪悪感ばかりが私の体を満たす。息が苦しくて、前を向くことすら辛い。しゃくりをあげてみっともなく泣く私を彼は真っ直ぐに見ていた。
 ゾロは面を食らったように一瞬固まった。

「悪い、泣かせるつもりはなかった」
「っ、……も、やだ、役に立てなくて、なにもかもやなの」
「そんなことねえ」
「いつも、何もできない、わたし」

 ゾロは気まずそうに椅子を立ち上がると、私の座っていたベッドに膝を乗せる。子供をあやすように頭を撫でられたかと思えば、そのままぐんと抱き寄せられた。
 医務室まで運んでもらった時と同じ、はだけた胸元から伝わる熱が暖かい。それがまた涙を誘うのか、息をすることも苦しいほどに本格的に涙が出てきた。

「おれはアホコックの淹れたコーヒーよりお前の淹れたやつの方が好きだ」
「なに、それ」
「お前は話が早い」
「っ、なにそれ」
「それだけじゃダメなのかよ」

 みんなのことが大好きだから、みんなにも大好きでいて欲しい。ゾロのことが大好きだから、ゾロに嫌われたくない。何で自分勝手でわがままなんだろうか。与えられるばかりで何も返せていない私は、その焦燥感だけを募らせてきた。ゾロは何も言わない私に痺れを切らしたように、じゃあと切り出す。

「なら何が欲しい」
「……え?」
「言ってみろ。お前がこの船に残るために欲しいものを全部くれてやる」

 欲しいもの。存在意義が欲しい。役割が欲しい。言葉が欲しかった。私はここにいても良いのだと言う言葉が、誰よりもゾロの口から欲しいのだ。

「……ここに居てって言って」
「……此処に居ろ」
「どこにも行かないでって、言って」
「どこにも行くな」
「たくさん頑張るから、たくさんもっと、がんばるから、わたし」
「おう」
「ここに居ていいって言って」

 そういうと、ゾロの大きな手が私の手に重なる。大きな手だ。刀を握るっているせいか、手のひらは皮膚が分厚くなっていて硬い。節くれだった手。全てをねじ伏せ守ってきた手。私のコーヒーを受け取る手だ。

「頑張ろうが頑張らなかろうがどうでもいい。お前の好きにすりゃいい。おれの側に居ろ」

 ポロポロと涙をこぼす私をここに縛りつけるように、彼は私に唇を重ねる。暖かくてすこしかさついている。抱き寄せるように手を伸ばせば、分厚い舌が割り入ってきた。

「おれはお前が欲しい」
「ゾロ」
「死んで欲しくねえ」
「ゾロ、わたし」
「お前じゃなきゃ駄目だ」

 低く唸るような言葉は、最早慰めの域を超えている。切なげに細める目に普段の鋭さはなく、まるで燻る熱を持て余すようだ。
 いつものように険しい顔をして、彼は私にいつもと違うことを伝えようとしていた。大きすぎる心音が次第に聴覚を侵食していく。音が聞こえなくなれば、まるで彼とわたし二人しか世界にいないような錯覚に陥る。
 腰の奥にじんわりと重たく響く言葉、吐息混じりに発される声。ずっしりと預けられる体重は、私の心の隙間をなかったことにするかのように押し潰す。喰らい尽くすようなキスが降ってきて、私の頑なだった心がぼろぼろと脆くも儚く崩れていくのを感じる。暖かくて心地が良い。
 私じゃなきゃ駄目。彼の言葉を何度も噛み締める。彼の懐は温かい。まるで麻薬のようにスカスカになった心に沁み入ってくるようだった。彼の優しい言葉に頭が鈍っていく。しかし、彼から与えられるキスは、確かに鈍る思考を肯定していた。
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