闇夜に退路なし


「混成第一、交代完了しました」
「はい、確認しました」
「実力派エリート迅悠一も交代完了〜」
「はいはい〜」

 防衛任務に当たっていた隊員隊の交代報告に、ようやく肩の力が抜ける。
 本日は近界出血大サービスの厄日で、開いたゲートは十五。通常の三割増のオペレーションはなかなかにスリリングなものだった。誰一人としてベイルアウトしなかったので、結果は上々と言ったところだろう。

 ずっしりと重たい目頭を押さえ、モニターから目を離す。くるんと椅子を回転させながら大きく背伸び。後ろの時計を確認すれば、あと数分で交代時間。オペレーターの交代時間は、その特性上一般の隊員たちよりも三十分遅く設定されている。
 今日の夕飯は何にしよう。そんなことを考えていると、後ろのドアがシュンと音を立てて開く。代わるよ〜と間延びした声で入ってきたのは、夜のシフトのオペレーターだった。
 デスクの上に散らばった私物を手際よくまとめ、立ち上がる。時刻は十時少し前。タイムカード代わりに電子モニターの自分のアカウントを退勤に切り替えて、部屋を出た。
 ここから一番近い休憩室でホットココアで息抜き。いつものルーティーン。ぼんやりとスマホでSNSの投稿を眺めていると、休憩室にドタドタと慌ただしく誰かが駆け込んできた。

「明日、あの……!!」
「え、どうしたの?」
「別の日とシフト交換してくれませんか?!」

 助けて。まるで嵐のように私に泣きついたのは、半年前に本部オペレーターに所属された高校生のミリちゃんだった。
 頭の回転が早くて情報処理能力が高い。でも私のせいで誰か他の人がベイルアウトになっちゃうのは嫌だ、と言う理由でチームオペレーターの誘いを拒否し続け、晴れて私の部下になった可愛い女の子。

「……あ、六頴館だよね? そろそろテストじゃない?」
「うえ〜〜ん、そうなんです、シフト間違えちゃったぁ」

 十月になったばかり。三門市はあれ程しつこかった残暑はどこへやら、夜は長袖を羽織らないと少し肌寒くなった頃。もうそんな時期か。時間の流れの速さには頭を抱えたくなる。
 そんな子に泣きつかれて嫌だと断るほど鬼ではない。一応スマホでカレンダーを確認すれば、明日の予定は真っ白。強いて言うなら大学に入ってからできた彼氏と夕飯食べようと思っていたくらい。

「代わってあげてよ」

 そんな言葉と共にグッと肩周りに重さが乗っかる。不意打ちを喰らい、思わずぐえとつぶれた蛙のような声が出た。
 少しおちゃらけたような声に青い腕。昔から変わらない匂い。どこからかふらりとやってきたのは迅くんだった。椅子に座っていた私の肩に寄りかかるように両腕で抱きついた。
 目の前にいたミリちゃんは、滅多にお目にかかれないが噂だけはかねがねと言ったS級の急な登場にあっと声をあげる。

「お疲れお二人さん」

さっきまでモニターの向こうにいたのに。珍しい人物の登場に後ろ手で頭を撫でれば、可愛いと言うには些かデカすぎる迅くんはまた腕の力を強めた。

「え、先輩の彼氏って迅さんのことだったんですか!?」
「え、違う違う」

 なんだびっくりした、とミリちゃんはため息を吐き出す。
 勘違いされてもおかしくない。まだ一つ年下の迅くんがこんなに大きくなくて男の子だった頃から続くこの距離感。迅くんがでっかくなって男の人になってから誤解を招いた回数は数え切れない。
 私と迅くんの距離感はいつもこんな感じだ。私はこんなふうにやたらめったら抱きついたりしないけれど、迅くんは昔から距離が近い。私に限ったことではないようで沢村さんがよく標的になっている。まぁ、彼女の場合はセクハラのだが。
 私はこれを飼い主を見つけた犬が近くに寄ってくるようなものだと認識していた。沢村さんにセクハラ仕掛けてローキックだけで済んでいるのは迅くんの役得だろう。いや、セクハラは本当に良くないけれど。

「え、いや別にいいんだけどなんで?」
「うーん、そしたら俺にとっては結構良いことがあるかな」
「ねえ、また何か見えてるの?」
「ご名答」
「なにそれ。いいよミリちゃん代わる」

 そういうと、ミリちゃんは花が咲いたように嬉しそうに笑った。そりゃテスト前くらい勉強したいよね、あそこ進学校だし。と急な仕事になったことを彼氏にラインを送ると、すぐに了解を告げる熊のスタンプが返ってきた。



「そういえばあの日迅くんはいいことあったの?」

 翌週。珍しく迅くんがまたシフトに入っていた。いつものごとく本部に飛び帰って私のところに来た彼をみて、先週のやりとりを思い出した。

「なんで?」
「なんか良いことあるって言ってなかった?」
「まあ、ね。あんたは?」
「私は浮気野郎の彼氏のことぶん殴って別れたけど」
「ワァ」

 悲しいからコーヒー奢って。玉狛のエンブレムが入ったジャケットの裾を揺らせば、仕方がないなあわざとらしく肩をすくめた迅くんはスマホを自動販売機にかざした。
 ガコンと音を立てて出てきたのはコーヒーではなく温かいいつものココア。こっちの方が好きでしょ、といたずらっ子みたいな笑みを浮かべる迅くんに私は静かに頷いた。

 先週、ミリちゃんとシフトを変わって帰宅する頃。予定をすっぽかしてしまったし、どうせ一人で暇だろうとお詫びの意味も込めて彼の大好きなケンタッキーを買って向かった。しかも結構奮発して食べ比べ八ピースパックを買ったのに。
 家に行けば、やけに慌てふためいた彼氏。何故渋るのかと部屋の中を除けば、少し気まずそうな女が一人。妹なんだよと早口で彼氏は言ったが、その女は彼のサークルの同期である。ダウト。
 彼の顔面をグーで殴って、合鍵は遠くの方に投げ捨ててきた。食べ比べ八ピースパックをもう二つ追加して、どうせ仲良く麻雀でもしているであろう諏訪隊の作戦室に大泣きしながら流れ込んだのだ。

「見えてなかったのこのクソ未来」
「全部見えるわけじゃないんでねえ」
「せめて迅くんはいいことあったのかなって」
「あったよ。ちょっと本気出しちゃおうかなって思っちゃうくらいにはさ」
「そっか。それはよかったよ」
「……慰めてあげようか?」
「……どうやって」

 そう言うと、迅くんは艶っぽく口角を上げる。昔から顔だけは整ってるんだよな。セクハラで台無しだけど。

「もちろん、肉っしょ」

 そういうと迅くんは手で焼き肉を焼くような動作をしてみせた。お互い任務は終わっている。断る理由は見当たらない。
 昔から落ち込むと東さんや沢村さん、忍田さんが焼肉に連れて行ってくれた。別にお肉ひとつで気分が晴れるわけではないが、落ち込んで暗くなる時に一人で食事をするのは良くない。みんなでワイワイしている時間は、多少なりとも悩みを忘れられた。
 だから私はミリちゃん含めた後輩が悩んでいたら、先輩たちに倣ってご飯に連れて行く。ボーダーの年上たちから私たちへ、さらに後輩へと脈々と受け継がれたものである。
 行くと快諾した私にいい笑顔を浮かべた迅くんは、いつもみんなの行く焼肉屋に連れて行ってくれた。と思いきや、連れてこられたのは繁華街の方にある焼肉屋だった。
 一度システムが不具合を起こし、完全ダウンした時のことだ。畑違いではあったが徹夜で復旧を手伝ったお詫びとして、平謝りした鬼怒田さんが本当に助かったと一度私と先輩を連れて連れてきてくれた。いわゆるお高い焼肉屋。
 私は焼肉屋の名前の書かれた真っ白な暖簾の前でぼんやりと立ち尽くしていた。手持ちあったかなと鞄から財布を取り出せば、見計らったように迅くんは諌めるように私の手を押さえた。

「コラコラ、俺が誘ったんだから財布出すのはなしでしょ」
「え、迅くんここいくらするか知ってんの?」
「俺の稼ぎ舐めてもらっちゃ困るなー」
「でも」
「高校球児とかじゃなきゃ平気だから。それともこの実力派エリートの財布破産させられるくらい食える?」

 無理と首を振って店内に入る。席に着くなりドリンクメニュー以外は取り上げられた。
 タンにロース、カルビにハラミ。ホルモンを必ず頼むのは、東さんに奢ってもらって大きくなったみんなの癖。
 私はビールを頼んで迅くんは未成年だから烏龍茶。店員にテンポよく注文をする迅くんにハラハラしていたのはたったの数分。運ばれてきたお肉を見たらそんな気持ちも吹き飛んでしまった。

「お姉さん飲んでるぅ?」
「本当に美味しい〜」
「酔っ払った風間さんならここ奢ってくれるぞ」
「いや可哀想」
「とっておきの特性壺漬けハラミいくぞ〜〜」

 ドンと大きなハラミが網の上に乗せられた。ジュウジュウと音を立てる肉を眺めていると、頬に落ちた後毛を迅くんの指が攫った。

「俺はあんたが笑ってる方が好き」

 肉を焼いていた手が止まる。向かいに座った迅くんは揶揄うわけでもなく、真っ直ぐに私の顔を見てそう言った。
 いつの間にやら迅くんは私よりずっと大きくなって、大人っぽくなった。私の後ろをつけ回していた頃が懐かしい。
 大きく飛び跳ねた心臓の音は聞かなかったことにした。網が熱いと誤魔化すように、火照った頬を手で仰ぐ。最近、ふとした時に知らない顔をする迅くんにドキッとしてしまうことがある。

 それから水曜日の夜、任務終わりは迅くんと二人で食事に行くことが多くなった。
 玉狛に行ってから滅多に本部に来なかったくせに、最近はいつの間にやらふらりと顔を見せる。趣味と聞かれて堂々と暗躍と答える彼の動向が、ここまで掴めたことがここ最近あっただろうか。
 迅くんは私の任務が終わるまで太刀川くんと話したり、緑川くんの相手をしたり。それでもロビーに私が行けば全て中断して私のところに来た。そして今日はどこに行こうかと笑うのだ。
 迅くんと付き合っているの? そう聞かれる頻度が増えたが、前より悪い気はしない。前より迅くんと過ごす時間が増えて、私も彼のことをたくさん知ることができた。
 美味しいものを食べると「美味い」より先に目をパッと見開く。笑顔は子供の時のまんまだけど、真面目な話をする時に浮かべる薄い笑みは一丁前に男だ。相変わらず心臓は、誤魔化しようもないほどに大きく飛び跳ねる。
 なによりどこに行っても呼び止められる彼が、誰よりも私を優先する優越感がないわけではなかった。
 そんな日々が半年続いた頃、ちょうど書類提出の催促に向かった先で太刀川くんに呼び止められた。
 ぐちゃぐちゃの作戦室。そろそろレスキューを入れなければダメかと散らばった衣類をソファーの端にまとめる。

「ねえ、服持って帰りなよ。流石にボーダーに洗濯機ないよ」
「そのうちな」
「来週レスキュー入れる前に持って帰らなきゃこのオフホワイトのロンティーでも捨てるからね」
「はいはい。つーかお前、迅と上手く行ってるのか?」
「……なんのこと?」

 これだけ言っても一向に片付けようとしない太刀川くんは、ソファの上であぐらをかいてニヤリと笑う。

「とぼけんなよ」
「え?」
「迅は」

 そこまで言うと、太刀川くんの言葉を遮る様にシュンと扉の開く音がした。

「おー、危な。太刀川さんストップ」
「……タイミング良すぎだろお前」
「見えたんだよ」

 何が? と聞くタイミングを完全に逃してしまった。迅くんは、ぐちゃぐちゃの机の中から一発で提出書類を探し当てると私に押し付けた。
 サインはある。長居する理由もなくなり、迅くんに続いて私も作戦室を出た。
 長い廊下を黙って歩く。この先にあるのは本部作戦室。現在この提出書類の確認が行われている場だ。迅くんもどうやらついてくるらしい。
 迅くんとうまくいっているのか。太刀川くんの言葉はいったいどう言う意味なのだろうか。そもそも、迅くんは昔から私のひっつき虫だ。上手くいっていなかったことなんて一度もない。なら何故。

「資料これで全部?」
「そう。資料の場所も見えた?」
「アンタが半泣きで三十分以上探すのもあったよ」
「最悪」

 そう言うと迅くんはケラケラと笑った。迅くんに何か変わったことがあるのかと思ったが、そう言うわけでもないらしい。

「最近本部いること多いね?」
「まあ、実力派エリートなんで」
「……あのさ、さっきの遮ったのなに?」

 もうギブアップ。そう言う意味も込めて、直接疑問を迅くんにぶつける。彼は特に焦る様子もない。見えていたのだろうか。
 人によってはこれを嫌がる人間もいるが、嫌だなんて気持ち消えてしまうくらい迅くんと一緒にいるのだ。

「まあ、どこから話せばいいかってとこからなんだけど」
「なにそれ」
「見えてたんだよ」
「……何が?」
「あんたの彼氏の浮気」
「……ああ」
「あいつと別れる時、どう分岐してもあんた絶対に泣いてたから」
「……そう、なの」
「一番傷つかない方法があれだった」

 そう言うと迅くんは私の目をじっと見るも、すぐにぐにゃりと表情を歪めた。

「ごめん嘘」
「え?」
「あいつが浮気してたことには変わらないけど、あんたが気づかずに過ごせる未来もあった」
「そっ、かあ」
「でもあんたがあいつのこと一番綺麗さっぱり忘れてくれる選択肢はこれしかなかった」

 綺麗さっぱり。あまり合点のいかない言葉を音を出さずに口にする。
 たしかに迅くんの言う通り、泣いたのはあの麻雀に乱入した経ったの一日だけ。キャンパス内ですれ違っても涼しい顔ができるほど私は彼のことを引きずっていない。
 でも迅くんが私に綺麗さっぱり忘れてほしかった理由とはいったいなんなのだろうか。迅とうまく行っているのかという太刀川くんからのヒントを加味すると、合点がいってないのに、早る心拍数はさながら迅くんの真意を見透かしているかのようだった。

「んで、こっからが本題な」
「うん」
「今まで彼氏何人いた?」
「ふたり、くらい」
「もういい加減俺のこと見てほしいんだけど」
「……迅くん」
「好きだよずっと」
「ま、まって」
「あんただけだ」

 そう言って伸びてきた彼の両腕。もう子供同士のじゃれあいなんて可愛い意味合いはなくなっていたことくらいわかってた。逞しくなった彼の腕は、私を逃がさんとばかりに強く締め付ける。
 彼の胸の位置に頬が触れる。動けずに彼の腕の中で固まっていると、次第に聞こえてきたドクドクと大きな心音が鼓膜を揺らす。

「ここまで辿り着くまでどんだけ俺が暗躍したと思う?」
「……どのくらい?」
「教えてあげない」
「なにそれ」
「当ててみてよ」

いつもの真意が掴めない彼はどこに行ってしまったのだろう。彼は私を手に入れるためにお得意の暗躍をしていたのだろうか。一体いつから。

「俺の見た感じだと結構うまくいく筈なんだ」
「……どうだろう」
「教えて。そうじゃないと確定しないから」

 少し拗ねたような掠れた声。昔の迅くんのようでまるで違う声に聞こえた。
 もう顔がどこもかしこも熱くて上げることはできない。
 聞きたいことは山ほどあるが、どうやら今は彼から伝わるじんわりとした熱を甘んじて受け入れることしか出来無さそうださ。
 迅くん曰く未来は変えられるらしいが、きっとその迅くん自らが引き寄せた未来は変わらないだろう。
 好きだと答える代わりに、彼の背中に手を伸ばす。腕に少しだけ力を入れて抱きつけば、彼は少し照れ臭そうに笑った。
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