初恋の残り香・後編

 男は私の手を引いてメイン通りに出た。男はここで店内の男と合流するようだ。
 一人ぐらい白ひげの人間はいないものかと必死に通行人に目を配るが、夕飯時というのもあって、人が多すぎて顔見知りが見当たらない。
 白ひげ海賊団はむやみやたらと人を殺したりする集団ではないが、みんながみんな海賊を良く思っていないということをちゃんと理解している。なので、夕食時は船を降りないことが多い。わかっていたことだ。

「あれ、ご飯途中だったよね、食べるかい?」
「……いらない」
「まあそう落ち込まないでよ。今日君は俺としておいてよかったなって思うから」
「ジジは」
「ん? 大丈夫。さっきも言ったでしょ。君の勇気に免じ
て見逃がすよ。大体あれは白ひげじゃないから意味がない」

 ジジのことを話す男の目に温度はない。そしてまた猫撫で声で私の頭を撫で、そして額に耳に頬にキスを落とす。もうそれを嫌がる気にもなれなかった。
 周りから見ればきっと恋人同士のじゃれ合いに見えるだろうか。男は気を良くしたのか、また肩に手を回す。時々優しく頬を撫でる指先が、恐怖と安堵をかき混ぜる。今にも叫び出しそうだ。顎に手を添えてキスをねだる男に命運尽きたと肩を落とすと、先程の店からよく見知った顔が出てきた。
 心臓が早くなる。じわりと視界が滲む。白いシャツに赤い細縁のメガネ。特徴的な金髪の髪型。彼は私を見つけると、いつも通りへらりと笑ってみせた。

「よう、楽しそうだなおれも混ぜてくれよい」
「……は?」

 先程、おまじない代わりに何度も呟いた名前。届いた訳ないのに、どうしてか彼はこうしていつも私のピンチに現れるのだろう。

「ま、マルコ! お前、なんでここに……!?」
「ホテルに行くって今楽しそうに言ってたじゃねえか。おれに」

 マルコの手には、見慣れない電伝虫が握られている。それを男に向かって投げつけると、電伝虫はヒッと悲鳴を上げて静かになった。
 マルコはゆっくりとこちらに近づいてくる。男は予想外のマルコの登場に取り乱したのか、大通りだというのに銃を取り出した。通行人から悲鳴やどよめきが生まれる。マルコはちらりと周りを見渡すと、面倒臭そうに頭をかく。

「ックソ! くそが!」

 一発。一発とマルコに向かって銃弾が撃ち込まれる。外野に弾が飛ばないようにと、不死鳥の能力で弾を受け止めながら地面に転がした。撃ち込まれたところに青い炎が揺らめく。草臥れたようないつものスタンスは変わらないが、彼の目は笑っていない。まっすぐに男を見据えていた。

「痛えよい。やめとけ、んなもん大通りでぶっ放すのは」
「来るな! 来るな!」
「おいおい、お前おれの能力かわかってそれ向けてんだよな?」

 次第に近づくマルコに戸惑った男は、銃弾を込める手が震えている。手から装填し損ねた弾が地面に散らばった。男は諦めたようで、銃をマルコに向けるのをやめた。
 そのまますぐ隣にいた私に掴みかかった男は、銃を私に向けた。散々発砲して熱を持った銃口が肌を掠めて、皮膚が焼けた。

「熱っ……!」
「お前になら当たるよなぁ、弾」

 死を覚悟した人間の行動とは全く予想がつかないものだ。私の肩を掴む手に力が入り過ぎて。爪が食い込んでいる。瞳孔が開いていて、小刻みに左右に震えていた。この人は本当に引き金を引くだろう。それを確信させるには充分過ぎた。
 が、それも突如現れた青い光で逆光になって、彼の表情は見えなくなった。私の顔が青く染まったことで何かを察したのか、勢いよく振り返った。そこには、腕に炎を纏わせたマルコがいた。

「これ以上なんもしねえなら、多少は許してやろうと思ったのにな」
「しまっ」
「何してくれてんだ」

 ふわりと地面を一度蹴り上げたマルコは片腕だけ炎を出すと、男の後頭部に手を当てる。そしてそのまま思い切り引き寄せて鼻のあたりに膝蹴りを食らわせた。ガツンと骨と骨がぶつかる鈍い音が響く。脳が揺れたのだろう。悲鳴もあげられないといった様子の男は、ガクガクと震えながら、膝から崩れ落ちるように地面に転がった。鼻は変な方向にひしゃげて血が出ていた。どうやら起き上がる気配はない。それと同時に緊張の糸が切れたのか腰が抜けた。そのまま、駆け寄ってきたマルコに縋る。

「ジジが…! ジジが別の男に!」
「大丈夫だよい。中の男から始末した」
「え……」
「ジジの声がでかくて助かったよい。店中に響いてたからな」
「そっか、よか、よかった、」

 マルコは着ていたシャツを私の肩にかける。すると、タイミングを見計らったかのように、外の騒ぎを聞きつけたジジとサッチが店から飛び出してきた。
 ジジに何もなかったことに胸をなでおろすと、次第に涙が出てきた。マルコは、男に噛み付かれた首筋と、銃口で火傷した鎖骨を順になぞった。

「悪いな。もっと早く来れなくて」
「うう、う、ごめん、ごめんなさい、マルコ」
「ジジを守ろうとしたんだな。偉かったよい」

 マルコに両手を伸ばすと、彼はすぐに腕を開いてくれた。まるで子供をなだめるように背中をさする。

「隊長、ごめんなさい! あたし、全く気が付かなくて、それで、」
「いい。普通は気付かねえよい」
「怪我は……」
「命に関わるようなもんはねえ。大丈夫だ。お前、あの大量の荷物持ってサッチと先に船戻れ」
「でも、」
「おう。いくぜジジ」
「サッチ隊長、でも」
「ジージ」

 サッチがなだめるように、優しくジジの名前を呼ぶ。ジジは泣きそうな顔をして私の方を見ていた。そして、マルコを押しのけて私に抱きつくと、私の額にキスをした。そしてありがとう世界で一番大好きよと一言。そのままサッチに連れられて船に戻って行った。

「ここ任せていいか、イゾウ」
「おう、任せな。引き受けた」

 唸りを上げて、意識を取り戻そうとしていた男の頭に、下駄でもう一撃を食らわせたイゾウ。そのままマルコに拳を見せた。
 マルコは立たなくなった私をひょいと抱え上げると、自らの首元に顔を埋めるように言った。私は言われた通りに顔を埋めると、彼はどこかへと足を進める。朝触れた時とは違う。彼の体温を感じるだけで心が落ち着く。
 この騒動で集まっていたギャラリーの声が聞こえる。海賊同士の抗争かとヒソヒソとした話し声だ。せっかくこの島は海賊でも快く受け入れてくれる島だったに。私の行動でそれも台無しにしてしまったのかと思うと、自らの軽率さを呪った。
 しかしマルコは、鼻をすするたびに、耳元で何度も「聞かなくていい」と囁いてくれた。どんどん人混みから遠ざかっていくことだけがわかった。
 降ろされたのは、小綺麗な宿屋の前だった。古いガラスの戸を引くと、テーラードのスーツを着た男性が頭を下げる。理解が追いつかないが、こういう場所は海賊の立ち入りすら禁止しているところろもあるのに。
 入っていいのかと確認するように彼のシャツを引くと、彼は手招きするだけだった。壮年の男性はお帰りなさいませとフロントに立った。

「急で悪いが、こいつ入れていいか?」
「おや、表通りが騒がしいと思ったら貴方でしたか」
「勘弁しろい」
「失礼ですが……」
「そんなんじゃねえよい。そこは弁えてる」
「これは大変失礼致しました。お部屋へどうぞ」
「助かる」

 マルコは受付もしないまま鍵を受け取ると、ボーイに案内された部屋に向かう。綺麗なホテル。というかあれだ、高いホテルだ。

「船戻っても落ち着かねえだろい。落ち着くまでここにいろ」
「……ここは?」
「十数年前に海賊の抗争に巻き込まれた時にオヤジが助けてな。それ以来の付き合いのホテルだ」
「そう、なの?」

 マルコは入り口で立ち尽くしていた私に痺れを切らしたように、ベッドに放り投げた。

「そもそもこの島は昔からでかい港があったせいでゴロツキまみれになってな。一時期は治安維持のために白ひげの名前掲げてたんだよ。オヤジが今は栄えたからそれもいらねえだろっつってやめちまったけどな」
「初めて知った」
「良いホテルだからここ来たら仕事部屋として一室借りてんだ」

 仕事部屋? そう言われてよく見てみれば、シーツこそ新しいが部屋のあちこちに人のいた形跡がある。奥の机には書類の類が積み上がっていた。近づいて確認すれば全て白ひげ海賊団のものだ。燃料代に食費、修繕費エトセトラ。奥には使いっぱなしのマグカップが積まれている。まるで数日前からここにいたような形跡である。
 今朝マルコからしたあの甘い石鹸の香りは、もしかしなくともここのものなのではなかろうか。
 そういえばこの島に着く前にマルコが書類と睨めっこをしていたのを思い出した。そろそろ予算組みの時期だ。どんぶり勘定の人間が多いせいで、船が立ち行かなくならないようにとマルコが頭を悩ませる時期。十年も一緒にいるのになぜ忘れていたのだろうか。

「だからお前が心配することはねえよい。の前に治療だな」

 先ほどの火傷と噛み付かれた箇所に触れる。少しだけカサついた指先から熱のない炎が上がって傷口を包んでいく。
 これくらいでいいかと言ったマルコの声に合わせて目線を下げると、火傷のせいで薄くなってピンと張っていたところは綺麗さっぱり消えていた。

「この治療は傷消すだけだからな。船戻ったら一応抗生物質だしてやる」
「……怒らないの?」
「ん?」
「マルコの言うこと聞かなかったのに、怒らないの」
「なんだ、怒られてえのか?」
「だって」

 勝手に勘違いして怒って、勝手に約束を破って、終いには助けてもらうだなんて私は子供の頃から何一つ成長していない。一年でも一番忙しい時期のマルコに負担をかけてまで張る意地だったのだろうか。勘違いしていたとはいえ、結果迷惑をかけてしまったことに罪悪感が募る。
 それでもマルコは私の頭をぐちゃぐちゃに撫でた。何も心配はいらない、何することはないと言い聞かせるように。
 十五歳の時に船に残れば良いと言ってくれた時も、同じように頭を撫でてくれた。おれがなんとかすると言ったあの言葉に救われたのだ。
 初めて彼を好きだと思った時の気持ちがいまだに色褪せない。霞むことも知らぬほど手に取るように思い出せる。もう身体中から溢れ出してしまいそなくらいマルコが好きだ。一度全てに絶望したからだろうか。言葉の代わりに溢れ出した涙をマルコは呆れたように指で拭ってくれた。

「あのね、マルコ」
「泣くな。どうした?」
「私マルコが好き」
「……はいはい、ありがとうな」
「ちゃんと、聞いて」
「お前ね、そういうことはもう少しよく考えて……」
「考えてる。男の人としか見てないの。マルコが好き」

 嗚呼、言ってしまった。十年間温めたはずなのに、私の口から出たのはまるで勢い任せの三流映画のセリフのような、使い古されたありきたりな言葉だった。しかし十五歳のあの時から変わらない気持ちを伝えるには一番ぴったりだ。飾り気のないただ純粋で、私の中で一番綺麗なままの感情。
 部屋は静まりかえっている。ガラス戸の向こうからは人の行き交う声がするはずなのに、世界は音を失ったように静かだ。
 マルコは黙ったまま私をじっと見下ろして、ピクリとも表情を変えない。笑顔はなく眉根を寄せて苦しげに目を細める。この沈黙が告白への答えであるかのようだった。
 この反応も初めからわかりきっていたことではないか。彼に相手にされていないことくらい、私が一番知っている。二十五になっても私はずっと子供の枠から逃れられないのだから。
 十五歳も年下は相手にされなくたって仕方がない。そう思うにはもう少し時間がかかりそうだ。人生の長い時間をかけて育てた恋。いまだに色褪せないこの気持ちは、いつか笑って話せる良い思い出にできるのだろうか。きっとまた同じだけ泣いて沢山の時間がかかるのだろう。滲むような熱とツンとした痛みを伴って、また涙が溢れ出してくる。

「……ごめんなさ」
「……考えてねえだろうがよい」

 涙を隠そうと俯きかけた視界がぐらりと揺らぐ。気がつくと手首をベッドに縫い付けられるように、マルコに押し倒される形になった。あまりに急な行動に理解が追いつかない。なぜマルコに押し倒されているのだろうか。

「ここをどこだと思ってんだ?」
「……え?」
「おれの気持ちは?」
「――マルコ?」
「あいつに噛まれた首筋は?」
「あの、」
「おれが許したと思うかよい?」

 私の言葉を遮り矢継ぎ早に言葉を並べるマルコの声は、坂を転げ落ちるように低くなっていく。目は大きく瞳孔が開いていて、目を見開いた私が小さく映り込んでた。天井が背景に変わる。彼が真っ直ぐに私を見下ろしていた。

「頼りない娘っ子だったはずなのに、日に日に綺麗になりやがる」
「え?」
「いつの間にか一丁前の顔するようになって。お前を綺麗だと言う男が腐るほどいる。お前が他の男のものになると思うと耐えられねえ」
「マル、」
「おれのいないところで、二度とおれの手が届かねえところで、勝手におれのことなんて忘れちまって、それで幸せになりゃよかったのに」
「……マルコ 」
「狂いそうだ」

 私をベッドへと押し付ける彼の手には、骨が軋みそうなほど力が入っていた。痛いと言い出すのも憚られるほど彼の目は殺気に近いを放っていて、グッと言葉が沈んでいく。
 マルコに剥き出しの強い感情を向けられたのは初めてだった。私の前のマルコはいつも陽気で飄々としていて、最近少しくたびれているようにも映るが、彼はいつでも笑顔だった。天下の白ひげ海賊団の隊長ともなれば、その迫力は恐怖を揺さぶる。しかし、胸が早り身体中に雷が走るような感覚はそのせいではないだろう。

「お前おれの隊から外れろ」
「な……、なんで」
「その方がいい」
「や、やだ」
「こんなこと聞かされた後じゃ居づらいだけだろ」
「そんなこと……!」
「お前が思ってるほどおれは優しくねえし、お前が思ってるほど軽くもねえ。気の迷いでおれを好きだというお前に今すぐに付け込んじまえ思う自分がいる。……いつかお前が後悔する」
「マルコ」
「おれを期待させないでくれ」

 ひとしきり言った後で、マルコは深くため息を吐き出した。いつもの調子に戻ると、言っちまったなあと少し後悔したような声でマルコは頭をかく。あまりにその声が切なくて、腹の底がきゅうと縮まる。
 さっきまでの殺気はどこはやら、いつも通りのくたびれたような笑顔を浮かべで部屋を出て行こうとするマルコを、急いで追いかけてその背中に飛びついた。
 聞き間違いでなければ、マルコも私が好きだということだろう。他の男のところに行くのを思うだけで、狂ってしまいそうになるくらい私を思っているということだろう。
 夢見心地で思考が働かない。それでもマルコをここで帰らせてしまってはダメだということだけはよくわかる。背中に飛びついて、今度こそ逃げられないようににと前で手を組んだ。組んだ手は小刻みに震えている。
 まるで天変地異でも起きたかのようだ。天地がひっくり返るほどの衝撃とは今この瞬間を指すのだろう。マルコが手を解こうとするのを防ぐために、これでもかというくらいに強くに抱きしめた。

「……頼むからやめてくれ」
「ねえ、いやだ行かないで」
「……お前」
「マルコと一緒にいたい」
「あのなあ」
「マルコになら何されてもいい」
「そんなこと言うもんじゃねえよい」

 気の迷い。そんなことがあってたまるか。こんなにも私の頭を支配して、まるで新世界の空模様のように激しく私を一喜一憂させるのに。
 何度マルコを思って泣いただろうか。あしらわれるたびに出会わなければよかったと何度思っただろう。辛くなるたびに、あの日私を引き止めてくれたのがマルコじゃなかったら良かったのにと嘆いた。
 それでも小さな何かに期待して、懲りずに前を向いた。彼の言葉を都合よく受け取って胸を躍らせて。マルコを思った日々が気の迷いで済まされるのなら、この世の大概のことは気の迷いで済まされてしまうだろう。

「十五歳の時から、マルコが私に声かけてくれた時からずっと私はマルコが好きなの」
「……だからそれは」
「気の迷い? 困ったら名前を呼んでくれって言われた時から、マルコにその気はないのわかってたけど、ずっとずっと好き」
「……」
「マルコのこと思うと十年間ずっと苦しいのに、これは気の迷いなの?」
「……どうなりたい、お前は」

 どうなりたい。漠然とした質問だった。今まさに突き放そうとしたくせに、今度は全て私に委ねた彼はずるい人だ。
 互いの気持ちを飲み込めば、きっと元の関係には戻れない。白ひげのオヤジの元に集まった家族ではなくなってしまう。それが怖くてマルコに飛び越えられないというのなら、私が飛び越えるしかないのだ。
 ずっと飛び越えたいと思っていた壁だった。先が見えないほど高くて煩わしくて仕方がなかった壁は、もう跨げば越えられるほど低くなっているのだから。

「……マルコのそばにいられるなら、どうなったっていい」

 しばらくマルコは何も言わなかった。頭を抱えてため息を吐く。その数秒間は生まれて過ごした中で一番ゆっくりに感じた。
 後悔するなよ。決心したように振り返ってそう言ったマルコの顔は、怒っているような泣いているような、少し拗ねているようなそんな不思議な顔だった。
 ベッドに腰掛けたマルコの上にストンと跨るように腰を下ろす。白ひげのマークが彫られた彼の胸にゆっくりと手をそわせる。胸、鎖骨、首。それから頬に。マルコは少し頬を緩めると、頬に触れる私の手のひらにわざとらしく音を立てて唇を寄せる。まるで誓いのキスのようだ。

「帰るなって言った意味わかるよな」
「……あ、あの、はじめてだから、優しくして」
「勿論」

 ツンと鼻先が触れ合う。今度は覚悟を決めてゆっくりと目を閉じると、唇に温かいものが触れた。
- ナノ -