短いはなし | ナノ



「静香さん?」
「せ、……幸村君」
「精市君でいいのに」
「そういう訳にもいかないよ。幸村くんも、学校にいる時は花山先生でお願い」

 少し青い顔で困ったように静香さんは笑った。彼女はいわゆるご近所さんで、俺の家の隣に住んでいる人だ。何年もご近所さんを続けている彼女の家族と俺の家族は仲が良く、食事を共にすることも何度もあった。
 静香さんは一人っ子で兄弟がいなかったこともあってか、俺と妹を特別に可愛がってくれた。妹なんかは静香お姉ちゃんと言って彼女のことを慕っているし、ウチの両親も面倒見が良くて優しい彼女のことを気に入っている。
 かくゆう俺はと言うと、彼女の事をライクではなくラブの意味で好きなのだが、その思いを未だに伝えたことはない。いや、伝えたことはあっても彼女が本気に取ってくれないのだ。年の差なんて関係ないとよくいうけれど、関係大ありじゃないかと思ったのは何度か知れない。
 それはさておき、静香さんがいつものように俺を呼んでくれないのにはわけがある。それは彼女が教育実習生として高校へやってきたからだ。教育実習生である手前、いくら親しいと言えどいつものようには呼べない。彼女はそう言う。

「それより幸村君はどうしてここに?」
「次の授業で使う教材を持ってくるように頼まれて。静香さんは?」
「…呼び方……次の授業の事で、確認したい資料があって」

 呼び方を改めさせても無駄だとさとったらしい彼女は話を続けた。どうやら今日が初めて生徒や教師の前で授業をするらしく、どうりで青い顔をしているのだと納得した。そう言えば、初日の挨拶の時も同じように青い顔をしていた。
 静香さんから聞いて、彼女が教育実習生として立海に来ることは知っていた。中高と立海で過ごした彼女は当然のように大学も立海に進み、そうして教育実習という形ではあるがここに戻ってきたのだ。
 あの日、静香さんは緊張のあまり挨拶で舌を噛むと言う失態を犯した。舌を噛んでしまい、痛みで涙目になりながら挨拶を続けた彼女を、生徒たちは笑いながら、教師たちは苦笑しながら見ていた。静香さんは、それはそれは恥ずかしそうに舞台から降りたのを、良く覚えている。

「幸村くん、何笑ってるの?」
「静香さんが挨拶した日の事思いだしてたんだ」
「…忘れてください」

 静香さんの顔がみるみる内に赤くなった。恥ずかしいと小さな声で呟きながら白く細い手で顔を隠した彼女は、それはもう可愛らしかった。ひいき目なのかも知れないが、彼女の一挙一動にそんな感想を抱いてしまう自分がいる。
 しばらくそうして顔を隠していた静香さんは、長い息をついてから何度か深呼吸をした。そうして本棚からいくつか本を手に取り、自身の持ちものであろうノートや教科書を持ち、俺に向き直る。

「私はもう行くけど、幸村くんは」
「あ、もう出るよ」

 ぼんやりとしすぎていた。しっかりしろと自分に言い聞かせ、頼まれたものを手に取り、静香さんの後に続いて外へ出た。
 廊下はがらんとしていて、誰もいない。それはそのはずで、この資料室は生徒たちの教室からも職員室からも離れている上に、ほとんど使われていない場所だからだ。廊下はとても静かで、昼休みだと言うのに生徒たちの声は遠くにしか聞こえない。
 隣に並ぶ静香さんを盗み見る。並んでいると年齢なんて関係ないように思えるのに、実際は何もかも違うのだから、本当に嫌になる。頭一つ分以上下にある静香さんの頭を見て、身長みたいに年齢も追い越せればいいのにとありもしないことを思った。
ふわりと静香さんの髪が揺れたかと思うと、ばっちりと目が合う。

「何かついてる?」
「え?」
「いや、ちょっとだけだけど、視線を感じるなぁ、なんて」
「あぁ…静香さんは全然伸びないね、身長」
「…平均身長は、あるからいいの」

 静香さんはそう言って前を向いた。けれど彼女の唇は少しだけとがっていて、そんな表情で言われても全く説得力がないと思う。何に対して拗ねてしまったんだろうか。分からずに少し首を傾げた。

「静香さん、怒った?」
「…別に」

 確かに怒っている訳じゃないだろう。けれど拗ねている事だけは確かだ。

「精市君は…大きくなったねぇ」
「え?」
「小さい時はこんなだったのに、いつの間にか追い越されちゃったし」
「それは…」
「どんどん、男の人になってくね。弟みたいだったのに」

 静香さんの顔は少し寂しそうに見える。でも俺は不謹慎なことに嬉しくなってしまった。弟みたいだったのにという言葉に、どんな意味が込められているのかは知らないけれど、静香さんの口からその言葉が出てきたことが嬉しかった。
 何の意味がなくても、少しはチャンスがあるってことだ。いつも「私も精市君の事が好きだよ」と答えてはくれたけれど、それは弟のようにという意味だった。もどかしくて、歯がゆくてどうしようもないその返事に諦めそうになったことだってあった。でも、もう。

「静香さん」
「先生って呼んでほしいんだけどな……」
「さっき、静香さんだって精市君って呼んでたけど」
「えっ、ウソ」

 無意識だったのか。静香さんはキョロキョロと周囲を見て、誰もいないことを確認したのか、ほっと胸をなでおろしている。それに少しイラっとしたけれど、まぁいい。これから、変えて行けばいいんだから。

「秘密の関係だね」
「…秘密の関係って…なんか、人聞き悪いよ」
「あはは」
「あははじゃなくって…っていうか、誰にも言わないよね、せい…幸村くん」
「今はね」

 俺の言葉を聞いて慌て始めた静香さんにクスリと笑ってみせると、ぎょっと目を見開いて手に持っていたものをそのあたりに撒き散らした。

「ゆ、幸村くん!?」
「あははは」



秘密の名前
(20100813)
Thank you project! めぐさま
- ナノ -