短いはなし | ナノ


1.

「蓮二がいた」
「…うん」
「知ってたのか」
「…うん」
「会おうと思わなかった?」
「………知ってるくせに。意地悪」
「せっかく、近くにいたのに」

 貞治君の言葉がするどく突き刺さって、えぐるように入り込んだ。こうして傷口は広がって行くばかりで、何時になってもなおらない。貞治君はそれを知っていて、私に聞くのだ。彼の事になると、貞治君はとても意地悪になる。

 いや、ウソ。

 貞治君は優しいから、私が彼のことをとても気にしているのを知っていて、背中を押してくれているのだ。押してくれているのに、私が足を踏ん張って何時までも動こうとしないだけ。臆病者だから、踏み出してしまったあとが怖くて仕方ないだけ。
 あの日、何も言わずに消えてしまった彼。私と貞治君が知りあうきっかけになった友達。小さなころから一緒にいた幼馴染とも言える人。私は彼が好きだった。彼を思い出すと心臓のあたりが爪で引っ掻かれたように、小さな痛みを訴える。積もり積もった小さな痛みは、いつの間にか大きなものになっていた。
 彼は、私が嫌いだったから、何も言わずに消えてしまったんじゃないだろうかと、そんなことを考えてしまうほどに。

「また、変なことを考えてるな」
「変な、って…」
「『蓮二君は私のこと嫌いだったのかな』」
「……どうしてそう、人の心の中読むのかなぁ」
「読むわけじゃなくて、顔に出てる……あの日にそう言った時と同じ」

 貞治君を見ると困ったような表情で、あの時は泣きやんでくれなくて大変だったと零した。少し恥ずかしいのと、とても苦しいのとで俯くと、頭を撫でられた。なんだか全部が苦しくなって、泣きそうになった。目が熱くなって、じわじわと海になる。

「全国でも、蓮二はいる」
「…うん」
「今度は、会えるといいな」
「……うん」

 ぽたぽたと、海があふれた。





2.

 彼が引っ越してしまう前の日の話。

「蓮二くん」

 今となっては良く覚えていないけれど、その日は不安が押し寄せた。貞治君と別れて蓮二君と家に帰る途中で私は立ち止る。夕闇が心の中まで覆って行くようで、もやもやとしたものが広がった。どうして急にそんなことを思ったのかは分からない。いや、本当は彼の様子が少し違っている事に気付いたのに、気付かないふりをしていていただけなのかも知れない。
 不安で不安で仕方がなくて立ち止った私を蓮二君はいつも通りの顔で振り返った。男の子にしては少し長めの髪がさらさらと風に流れるのを見ながら、私は泣きそうになった。不安に耐えきれなくなったのだ。

「どうし、」
「蓮二くん、いなくならないよね?」
「……え?」
「貞治くんとまたテニスするよね?」
「………」
「三人で、一緒にいれるよね?」

 ころころと頬を滑って行く涙をどうすることも出来ず、いきなりそんな質問をした私に蓮二君は戸惑っているように見えた。今考えると、あれは彼の珍しく動揺する姿だったのかも知れない。
 服の袖でごしごしと目を擦る私に、蓮二君は「だめだよ、擦っちゃ」と言ってからハンカチを差し出した。そうして困ったように笑いながら、彼は言ったのだ。

「どこにも行かないよ」
「本当?」
「うん」
「絶対?」
「…うん」
「約束だよ」

 頷いた蓮二君が優しく笑ったことで、私の中の不安は晴れた。早くしないと暗くなるからと、蓮二君に手を引かれて帰った。手を繋いで歩くのは本当に小さい頃だけだったのに、手を繋いで帰ったのだ。普段ならおかしいと思っただろうけれど、その時の私は蓮二君が約束してくれたことに安心しきっていたんだろう。
 家に帰っていつものようにバイバイと手を振って、お母さんに今日あったことをはなして、ご飯を食べてお風呂に入って、ぐっすりと眠った。いつも通りのはずだった。

 けれど次の日、蓮二君はいなくなっていた。

 貞治君も何も聞いていなかったらしい。お母さんにどうして黙ってたのと聞くと、蓮二君に何も言わないでと言われていたと聞かされた。
 私はしばらく沈み込んだ。三日間学校を休んでいると、貞治君が家に来てくれた。言ってくれなかったことがショックなのは貞治君も同じだったはずなのに、彼は一生懸命に私を慰めてくれたのだ。

「蓮二君は私のこと嫌いなのかな」

 そう言った私に、貞治君はすぐさまそれは違うと答えた。

「嫌いならあんなに一緒にいなかったと思う」
「でも…」
「大丈夫。俺は嘘をついたことはない」
「……うん」
「きっとまた会えるよ」

 貞治君が会わせてあげると言ってくれた。何時なのかと聞くとはっきりとは分からないけれど、絶対に会えると言ってくれたのだ。あまりにも自信満々にそう言ったから、私はすこしだけおかしな気持ちになって笑った。
 そうして数年後、約束通り貞治君は蓮二君に会うチャンスをもってきてくれたのである。





3.

 嫌味なくらいに晴れ渡った空。どうしてこんなことになっているんだろうと、観客席からテニスコートを呆然と見ていた。痛々しくて、見ていられなくて俯いて、しばらくすると観客のどよめきが湧き上がった。「乾先輩!」という声が聞こえて慌ててテニスコートを見下ろすと、貞治君が倒れていた。

「なんで……」

 いてもたってもいられなくなって、階段を駆け下りる。コートに降りようとするとさすがに止められてしまった。病院に付きそうという海堂君に私もついていくことにした。痛々しい貞治君の姿を見ていられなくて、ふと視線を逸らすと蓮二君がこっちをじっと見ていた。
 泣きそうになった。色んな思いがこみ上げて来て、泣いてしまいそうだった。す、と蓮二君は視線を逸らしたけれど、私は目を離せなかった。このままだと泣いてしまうと分かっているのに。

「花山先輩早く!」
「う、うん!」

 後輩の子に急かされて私は蓮二君に背を向けた。溢れそうな涙を拭って頭を切り替える。とにかく今は貞治君が心配だ。運動不足な私の体に鞭打って、肺の悲鳴を無視して救急車に乗り込んだ。一人しか付き添えないということで、海堂君は私に譲って、自分はタクシーで行くといった。
 救急車の中はあわただしかったけれど、すぐにそれも収まった。傷や打撲は酷いけれど、どうやら体に問題はなさそうだと判断されたのだ。
 病院に着いてなんだかんだと検査をしている内に、貞治君は目を覚ました。医者の人も驚きながら丈夫なんだねぇとしみじみ呟いたらしい。私もそう思う。けれど特に問題はないと言うことを聞いてほっとしたのも事実だ。そんな貞治君はすぐに会場に戻りたいと言ったけれど、さすがにそれはということで、少し休憩してからということになった。

「倒れた時、心臓がとまるかと思ったんだからね」
「ごめんごめん」
「謝る気ないでしょ」

 心配して損した気持ちになった。包帯だらけの貞治君が、真剣な声で私の名前を呼んだ。

「なに?」
「蓮二は悪くない」

 心臓が鳴いた。けがをさせたのは切原君と言う子だと分かっていたけれど、それを止めなかった蓮二君を非難する気持ちがあったからだ。どうして酷いことをするのかと、泣きそうになったからだ。

「試合をやめなかったのは、俺の意思」
「でも、貞治君血が一杯で、倒れて、なのに蓮二君も相手の子も、謝らなくて」
「俺はむしろ謝ってなんか欲しくない」
「ど、どうして?」
「真剣にやって、後悔なんてしてないのに、謝られたら後悔するだろう?」

 貞治君の言うことはあまりよく分からなかった。でも。

「大丈夫。蓮二は昔のまま変わっちゃいない」

 子供にいうようにして貞治君が言った言葉に、私は俯くしかなかった。俯いて、涙と声を抑えるのに必死になるしかなかった。我慢しているのを知っているのに、貞治君が頭を撫でるから、私は大声で泣いた。





4.

「暇だろう?」
「確かに、暇だけど…」
「今度のテスト範囲広いけど、一人で大丈夫なのか。うん、分かった」
「待って待って!行く!行くから!」
「良かった。頼んだよ」

 部活が終わっても後輩指導で顔を出している貞治君に頼まれたのはスポーツショップに行って、注文しているものを受け取ることだった。テニス部にはマネージャーがいないから、本当なら部員の子たちが行くのだけれど暇だろうという理由で私に矛先が向いたのだ。関係ないのにと思ったけれど、テストの事を出されると行かずにはいられない。貞治君はずるいと思う。
 抱いた不満は仕方ないと言う諦めと、いつもお世話になっているからという感謝ですぐに消えた。だんだんと近付く目的地に、手渡された紙に書かれた文字を見る。何なのかは良く分からないけれど、そう重くはないと言っていた貞治君の言葉を信じたい。
 店の中は休日と言うこともあってか、随分とにぎわっていた。小さな子供に付きそう親、友達と楽しそうに話す子たち、静かに商品を見比べる人。スポーツショップに来たのは初めてではないけれど、久しぶりにみたその光景はなんだか微笑ましいように思えた。
レジに向かって店員さんに話しかけ、青春学園男子テニス部のものですがというと店員さんは少しだけ考えこんだけれど、店の奥に入ったと思うとすぐに商品をもってきてくれた。ちょっと大きめの段ボール箱だった。

「君、一人だけど大丈夫?」
「た、多分大丈夫だと……」

 重くはないと言った貞治君を恨む。実際に持ち上げてみたけれど結構重い上にかさばって仕方がない。

「いや、送ろうと思って連絡したはずなんだけどねぇ」
「え?」
「丁度他の部活にも届けるものがあったし、竜崎先生も承諾してくださったよ」

 だから来るとは思ってなくて驚いたんだ。困ったように話す店員さんを見て、少し良いですかと携帯を取り出し隅による。電話をかけると、随分早く電話に出てくれた。

「ちょっと貞治君、荷物送ってくれるって言ってるよ」
「ついさっき竜崎先生に聞いたんだ。ごめん」

 これっぽっちも悪気を感じさせない声で貞治君は言った。重いらしいしお店の人に任せて、今日はもうそのまま帰っていいよと言った貞治君の声もいつも通り。無言で怒りを示す私に、貞治君は今度ケーキでもおごってあげるからと言った。

「もう、今度からはちゃんと確認してね」
「はは、現金だなぁ」
「貞治君!」

 分かってるよと言って貞治君は謝って、休憩が終わるからと電話を切ってしまった。溜息をついて店員さんに送ってほしいという旨を伝えると快く受け入れてくれた。
 とんだ無駄足になってしまったと時計に目を落とす。時間は丁度お昼時だ。もともと外で食べるつもりだったので、スポーツショップを出てぶらりと歩き出した。そんな時だった。人の声が充満する夏の匂いが残る空気の中に、私を呼ぶ声を見つけたのは。

「静香」

 ほんの少し先にいる姿を見て、なんだか無性に泣きたくなった。

「蓮二君」





5.

 涼しげな音を立てて氷が落ちた。無意味にストローでかき混ぜて氷とグラスをぶつけてみる。カランカラン。少しだけ寂しげな音に聞こえてしまって、私はストローから指を離した。視線を何処へやれば良いのかよく分からなくて、私は俯いた。膝の上で握り締めた手を見つめる。
 蓮二君に時間をくれないかと言われて入ったカフェは、人がたくさんいるけれど話声はそんなに響いていない。落ち着いた雰囲気の店内に、まるで二人しかいないような気になった。

「静香」

 意味もなく涙が出そうになる。出てきそうになる涙を引っ込めてゆっくりと顔をあげた。昔の可愛らしかった顔立ちはどこかへ消えてしまって、男の子らしい顔立ちだ。テニスコートで彼のことを応援している女の子達の多さを目の当たりにしたとき、随分人気のある人なんだとも理解したのを思い出した。
 目を合わせたきり、しばらくの間沈黙が流れる。

「久しぶりだな」
「…うん。久しぶり」

 笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。その証拠に彼は困ったような顔をする。それを見てしまって、耐えていたはずの涙が流れだしてしまった。今まで溜めこんでいたものが全部出てしまったように、止めようと思うけれど止まらない。
 彼の困ったようなその顔は、あの日約束をした日にそっくりなものだった。そのせいで全部が一気に押し寄せてしまって、もうどうにもならない。店内で泣くなんて注目を集めるだけだ。服の袖を押し付けて、出そうになる声を堪える。ハンカチを出そうと思って鞄に手をかけるけれど、上手く手が動かなくてもたついてしまった。

「静香」

 伸ばされた手にはハンカチがあった。それが更にあの日の事を思い出させて、どうしようもなく苦しくて悲しくなる。受け取ることが出来ないまま涙を流していると、優しく押し付けられた。
 貞治君の言った通り、蓮二君は変わっていない。確かに変わったものもあるけれど、根本の優しさは全然変わっていない。

「どうして…どうして、っ何も、言って…くれなかったの」
「すまない」
「なんで、……約束、した…のに」

 店の人達の視線が向いているのが分かる。けれどどうしようもなかった。もう止められない。

「言えなかった。きっと静香は泣くだろうと思っていた」
「………」
「泣かれると、きっと、引っ越せなくなるだろうと思ったんだ」

 涙に滲む視界の中で、蓮二君は苦しそうな顔をしていた。まるで私の鏡みたいに。その時はじめて私だけが苦しかったわけじゃないんだと気付かされた。悲しいのも私だけじゃなかったんだと。

「ごめ……」
「何故静香が謝るんだ」
「私、自分のこと、っ…ばっかり、で」

 涙は何時までも止まりそうにない。体中の水分が抜けていく感覚だ。借りたハンカチもぐしゃぐしゃになっていて、何度涙を拭ったか分からないくらいだ。次から次へと溢れだす涙と感情を押し込めようと俯くと、蓮二君に名前を呼ばれた。

「泣かないでくれ。今でも静香に泣かれると困る。どうすればいいのかが、分からない」
「変な所で馬鹿だな、蓮二は」

 突然割り込んできた声に、ビックリして顔を上げると貞治君がいた。彼は片手をあげて「やぁ」と呑気な声を出す。

「とりあえず、お店の迷惑になるから外に行くことを勧める」

 その時の私の顔は相当間抜けだったものに違いない。蓮二君も蓮二君で相当驚いているような顔をしていた。貞治君だけは澄まし顔でいたけれど。





6.

「……貞治君」
「何処かの誰かが随分機嫌を損ねてたようだから来てみただけで、偶然だ」

 偶然、というのは本当なんだろうと思う。蓮二君も酷く驚いた顔をしていたから。さっきまでの涙は嘘みたいに引っ込んで、私は鼻を鳴らすだけになっていた。びちゃびちゃになってしまったハンカチを握りしめて、貞治君を見る。彼は朗らかに笑っていた。

「それより静香も落ち着いたようだし、話せるんじゃないか?二人とも」

 よっこらせ、と言って腰を上げた貞治君が「ごゆっくり」と笑ってベンチから離れた。作為的ななにかを感じたけれど、今は偶然という貞治君の言葉を信じて蓮二君に聞いて見ようと思う、あの日からの疑問を。
 きっと今聞かないと、いつまでも聞けないままずるずると引き摺ってしまう。

「蓮二君は…私のこと嫌いだったの?」
「違う。一体どうしてそんなことを…」
「……何も言わずに消えちゃったから」
「違う。何も言わなかったのは」
「うん、さっき聞いたから、分かってる。でも、はっきり違うって聞きたかったの」

 違うと聞いて、捨てたかった。あの日からずっと止まったままだった私の気持ちを。
不自然にならないように時計に目を落としてから蓮二君を見た。なんだかよく分からない表情のまま、蓮二君はじっとわたしを見ていた。すっと腰を上げて振り返る。

「久しぶりに会えて、良かった」
「もう行くのか?」
「うん。時間もあるから」

 本当は何もないけれど。

「静香」
「なに?」
「また、会えるか?」

 心臓が嫌な音をたてた。正直すぎるなと思いながら笑顔を作って蓮二君に「うん」と頷く。それじゃあと歩き出そうとしたけれど、踏み出せたのは一歩だけでそれから先に進むことは出来なかった。大きな手が私の手首をすっぽりと覆っている。
 蓮二君は真剣な顔をしていた。口を真一文字に結んでいる。なぜかあの日の私が重なった。

「嘘を吐くな」
「嘘って?」
「嘘を吐くときの癖も全然変わっていないんだな」
「え、」
「会う気など、ないのだろう」

 すっかり見透かされてしまっている。貞治君もそうだけれど、蓮二君もいとも簡単に人の気持ちを見抜いてしまうのだ。笑ってごまかそうとしても誤魔化されてくれなくて、いつも困ってしまったのをよく覚えている。今回もダメもとで笑ってみたけれど、蓮二君は眉間にしわを寄せて低い声で名前を呼んだ。咎める色を含んだ声に視線を落として地面を見た。
 会いたい気持ちはあるけれど、もう会いたくないのだ。矛盾しているけれど、その気持ちははっきりとしている。あの時のように突然会えなくなってしまうのがとても怖いから、その恐怖から逃げるために私はもう蓮二君と会いたくないのだ。会わなければ、会えなくなるということを考えずに済むから。

「静香」
「だって、会えなくなるかも知れない。もうあんな思いするのはいやだ」
「もうさせない」

 きっぱりと言い切った蓮二君を恐る恐る見上げると、怖い顔から困った顔になっていた。

「これからも、静香に会いたいんだ」
「……もう、勝手にいなくならない…?」
「ああ」

 力強く頷いた蓮二君にもう出てこないと思っていた涙が出てきた。

「会わない内に、随分泣き虫になったな」
「…蓮二君が、泣かせてるんだよ」

 それはすまないと言った蓮二君の手が頭を撫でる。少し重たい掌が何度も行き来するのは、随分久しぶりのことで、余計に涙が出てきた。ぐすぐすとやっていると首にヒヤリとしたものが当てられて、思わず飛び上がる。振り返れば貞治君がいた。その手にはオレンジジュースが握られている。

「…びっくりした」
「ははは。で、話は?」
「もう終わった」

 はい、と手渡されたオレンジジュースはひんやりとしていて気持ちが良い。目に当ててその心地いい冷たさを堪能していると、蓮二君に名前を呼ばれた。

「ハンカチは貸しておくから、今度返しに来てくれるか?」
「………うん」

 頷くとまた涙が出てきてしまった。蓮二君に頭を撫でられる。貞治君がクスクスと笑った。小さなころに戻ったようで、とっても幸せだと思えた。



約束
(20100414)
Thank you project! すずさま
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