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『何度でも大丈夫だよ。ノアの眠りなんて、全部ふきとばしてあげる』


 いつの日か。アンジュと交わした約束は今も色褪せず、ノアの鼓動する心臓の音に、はたまた記憶の海の底に、金色に輝く瞳の奥深くに、大切に、大切に、刻み込まれていた。
 もしかするとアンジュは覚えていないかもしれない。それでも、今でも鮮明に思い返せるあの日の光景を何度も何度も、飽きるほど反芻してきた。誘うような花の香りと、冷え切った体を包み込む、日だまりのような温かさ。祝福する鳥の囀り。それらを思い返すとたまらなく安堵すること。あの時の約束が自分の未来となっていること。アンジュが作り上げてくれた未来が今、どうしようもなくなるほどの幸せを孕んでいること。
 きっと君は何にも知らないんだろう。確かめるように、眠るアンジュの頬を親指の腹で撫でて、ノアが寂しげに微笑む。気がつきもしないで僕の隣で安らかに眠り続けるんだろう。それでもいい、何も知らないまま眠り続ける君の寝顔を、こうして隣で見つめることができる。それだけで僕は幸せだから。
 もし過去の自分に何か一つだけ伝えることができるとするのなら……。ノアは想う。
 暗闇に閉ざされ、ひとりぼっちでいた幼い頃の自分に、こう言うだろう。『もう僕は大丈夫』――だから、きっと、君も幸せになれるはず、と。



 真っ白なシーツの上。まるで一つのオブジェのように身じろぎ一つせず、ただひっそりと微かな寝息を立てるアンジュのその身体には、夥しい数のコードが繋がれていた。口元には酸素マスクが被され、十分な呼吸のための酸素が確保されている。骨と血管が浮き出て、ところどころ内出血の見られるその細腕に太い針が深々と刺さり、そこから伸びる管の先には幾つもの補液や薬液が設置されていた。
 眠るアンジュの傍らに置かれた心臓の働きを数値化させ管理する機械は、いつも通り平穏な数値を表示させている。静かな部屋に響く規則正しいリズムはアンジュの心音そのものだった。聞いているだけで温かな波に揺られるような心地になり、自然と目蓋が重くなってくる。ノアは押し寄せる眠気をそのままに、ただ揺蕩う意識の中、ベッドの上に横たわったアンジュの、透けるような白い髪を指で梳いていた。

 今日は、やけに明るい夜だった。
 眠りに落ちようとしている中で、まるでライトに照らされるような眩しさが煩わしい。眠気眼をそのままに窓の外へと目を向けると、窓ガラスの向こう側にはどこまでも広がる空にまん丸の月がぽつりと浮かんでいた。それは夜にも関わらず、まるで俺を見ろと言わんばかりに煌々と輝いている。丸くて、明るくて、温かな光。その図々しさは旧い知り合いを彷彿とさせ、月夜を見上げたままのノアは、ふふ。とこぼれるように笑った。

「アンジュ、今日は満月みたい。……見える?」
「……」
「……うん。眩しい。……今日の月は、どこかの誰かさんみたい」

 満月は空に浮かんだ雲の影も、遠くで輝く小さな星々をも照らして、更にはその身の陰影さえ強く濃く映し出していた。
 少し風が強いのか。その場に留まることを知らない雲が性急に流れていくその様に目を奪われて、溢れるようにノアは一つ嘆息した。
 いい夜だと思った。灯りも付けずにいた暗い部屋は、窓から差し込む眩しいほどの月明かりによって照らされている。この灯りで十分。これ以上、望む事など何もなかった。自分がいて、アンジュがいて、そして月が綺麗。ただそれだけで、自分はもう、身に余るほどの幸せを感じているのだから。

「僕……君と出会えて、本当に幸せ」

 君がいない人生はきっと、酷くつまらないものだっただろう。思いを巡らすノアが、アンジュの痩せ細って、骨が浮かび上がり筋張った手の甲を撫でるように握り直す。
 心に鍵をかけて固く閉ざし、惨めな自分を暗闇の中に隠して、近くの幸せにも気がつかない、そんな人生はきっとあり得たと、想像するだけでノアの胃は痛む。それでも全てをアンジュが塗り替えてくれたから、自分はいまここにいる。眠りに就くアンジュの姿を見つめ、その瞳に慈しみを抱いたまま、ノアは窓の外に浮かび上がる望月へと再び目を向けた。


 アンジュがその任を終えて宇宙の女王を退位した時、彼女の故郷であったバースという星はまだ生きていた。文明が発達し、それに伴い星の存続を揺るがす程の大きな争いや、抗いようのない天変地異が何度も、何度も、数え切れないほどに辺境の星バースに降りかかったようだったけれど、それでも人類の営みはまだ辛うじて存続していたのである。
 度重なる争いや天災によって、元々豊富だったはずの緑と水の割合は大きく変化し、面影を無くしたバースの姿に、周囲の人間は女王へ、中央星オウルへの隠居を強く勧めた。しかしアンジュはただ静かに微笑むと「それでも、私の故郷ですから」そう言って、躊躇うこと無くバースへ帰る事を選択したのだった。
 アンジュが女王候補に選ばれ、試験を経て女王となり、令梟の宇宙の絶対的な存在で在り続けていた間。そしてついに退位の日を迎え、数年経った現在でも、未だノアのサクリアは尽きない。
 バースにどれだけの月日が流れようと、太陽が死のうと、大半の陸地が海に沈もうと、バースの空に浮かぶ月だけは形や光を変えなかった。まだ女王候補だったアンジュとバースへと帰省した日、その時から数えるとバースでは何百年、下手したら何千年と時間が経過しているはずなのに、空に浮かぶ満月はあの日と何一つとして変わらない輝きを誇っている。それと同じように、ノアもまたあの頃と変わらず、闇の守護聖として在り続けて、本日も聖地にて、自らに課せられた職務をこなしてきた帰りであったのだ。

 アンジュが退位した後も二人の関係は変わらず、ただ住む場所とそれによって過ぎる時間の速さだけが変化した。
 日の曜日は勿論、ノアは仕事の合間を縫って足繁く聖地からバースへと通い、アンジュもまたバースで一人、ノアの来訪を待ち侘びていた。否応なしに解離する二人の時間を埋めるように逢瀬を重ねて行ったが、やはり過ぎゆく時の速さの違いにはどうしたって抗えやしなかった。聖地での七日間は辺境のバースに換算すると約三ヶ月に値する。頭では理解していたし覚悟も出来ていた。
 それでも、まるで何かに急くように。急ぎ足で駆けて行ってしまうよう、逢う度に年老いていくアンジュの姿に、ノアは取り残されるような焦燥感を覚えていた。住む場所も生きる時間も違う二人とって、一緒にいるという選択ははもしかしたら、互いに別の人生を歩むよりも酷なことだったのかもしれない。そんな考えに行き着く夜も決して少ないわけではなかった。

 けれど。それでも、とノアは思う。
 やっぱりアンジュがこんな自分を選んでくれたこの未来がどうしようもなく幸せで、例え過ぎゆく時間の速さが違ったとしても、こればっかしは誰にも譲ることは出来ない。
 これは僕だけの幸せだと、ノアが眠りについたままのアンジュの穏やかな寝顔に顔を綻ばせた時だった。

 固く閉じていたアンジュの目蓋が震え、その直後に、繋いでいたアンジュの手の指先に力が入るのが微かにノアに伝わった。予期していなかった突然の反応に息を呑み込む。意識が戻ったのだろうか。勢い良く席から立ち上がったせいで椅子が音を立てて後方へと傾く。けれど今はそんなこと、気にしてられない。安らかな眠りに沈んだままのアンジュの、その名前を呼ぶ。

「……アンジュ? っ、アンジュ!!」

 ノアの悲痛な叫び声が、空気を震わす。その声によって、まるで深い眠りから呼び覚まされるように。重たそうな目蓋がゆっくり、時間を掛けて開いていく。
 ずっと閉じっぱなしだった目蓋の奥、大切に仕舞い込まれてた青の双眸が虚ろに揺れ動いて、何度か緩慢に瞬きを繰り返した。
 あんじゅ。目の前で横になる彼女の名前を呼ぶ自身の声が遠くに聞こえる。それは情けなく震えて、消え入りそうな微かな音として暗闇に溶けていく。それでもアンジュは、乞うような、哀願とも、哀訴ともつかないノアの叫びならぬ声を溢すこと無く拾い上げた。夜明け前みたいな白みがかった青がノアを捉え、酸素マスクに覆われたの下、乾いた唇が微かに動く。
 
「……」
「っ、うん……うん、アンジュ、アンジュ、…僕は、ここにいる、から」
「……、」

 煩わしいと言いたげに、自身の口を覆った酸素マスクへ手を伸ばすアンジュに変わって、ノアが震える手で彼女のマスクをずらした。すぐに戻せば問題ないはずだと逸る気持ちを落ち着かせながら、横目で機器の画面を確認して数値に変わりが無いことを確かめる。
 露わになった唇がゆっくりと、小さく意思を伝えようとしてくるのに、音は何も聞こず、ただ微かに空気を震わせるだけ。もどかしい、けれど絶対に取りこぼすわけにはいかない。ノアはアンジュの手を握りしめたまま、その唇が何を伝えようとしているのか、呼吸さえ忘れて目を凝らした。

「……、なに、……アン……、」


『だいじょうぶ?』


 アンジュの唇が象った言葉がそれであると認識してすぐ、時が止まったかのように思えたのは一瞬のことだった。直後には全身の血液が沸くように、急激なスピードで血が巡っていく。
 腹から何か昂ぶりのようなものが迫り上がり喉がひりひりし始めて、目の奥がどうしようもなく熱くなる。酸素が上手く取り込めず、喘ぐように肩で呼吸をするノアが、溢れ出そうになる感情の荒波を飲み込むようにぐっと奥歯を噛み締め、縋るようにその細くて小さな手を両手で包み込んだ。

 アンジュの手は少し力を込めるだけで、骨が軋んで脆く崩れてしまいそうだった。その危うさも、儚さも、全てが愛しい。大好きだった、離したくないと思った。アンジュとなら、永遠さえ苦痛じゃ無いと心から思えた、……なのに。ぐにゃりと、耐えきれなかったノアの顔が悲痛に歪む。
 永遠どころか、アンジュと共に年を取ることも、共に死ぬことも出来ない。先に逝ってしまう君を追いかけることもできなくて、僕はたった一人、この世界に取り残される。…心が、叫ぶ。僕はもう、君無しでは生きられない。そんなこと、隣にいた君が一番よく知っているくせに。
 声にならないノアの悲痛な叫びに、アンジュの宇宙の色を映し出したような深い瞳が慈しみに揺れる。ノアの思いも、叫びも、堪えた涙さえ、全てお見通しだというように、アンジュはただノアをその小さな青い宇宙に捉えていた。

「…………、アンジュ……、」

 満杯になったノアの瞳からついに耐えきれず、ぽろぽろとこぼれていくみたいに涙が落ちていく。涙を流す度に、アンジュを手放すのがどんどん惜しくなっていく。離れたくなくて、これ以上君に辛い思いをさせたくないのに、それでも更に命の永らえさせたくなってしまう。生きていて欲しいと願ってしまう。
 それでも、アンジュからの一言が、そんな弱い自分を蹴っ飛ばして、自分に冷静さを取り戻してくれた。そんな風に言われてしまえば、大丈夫じゃないなんて答えられるわけがないのを、アンジュはよくわかっていて、その上で言ったのだ。
 荒波のようだった感情が、いつの間にかアンジュの深い瞳に捉えられることによって鎮められるように落ち着いていった。やっぱり、いつになったってアンジュには敵わない。けれど、どうしたって涙は止まらなかった。俯いて、目から落ちていく涙を拭いもせずに、ただ口だけで笑った。

 幸せだった。思い返せば思い返すほど、幸せがあふれ出る。
 アンジュはすぐ近くの幸せに気がつかせてくれた。
 人を愛する勇気を与えてくれた。
 アンジュとならひとりぼっちの暗闇も、一緒に眠りにつくことも怖くなかった。朝、共に目を覚ますことの幸せを教えてくれたのもアンジュだった。
 アンジュから受け取ったたくさんの数え切れない愛が、幸せが、安らぎが、僕を確かに強くした。

 ノアは震える唇を一度強く噛みしめると、深く息を吐き、そして自身の濡れた頬を摘んだ。固まってしまった筋肉を解すように引っ張って、震える口角を上げてみせた。それはきっと、笑えてくるほど不恰好だろう。それでも。

「もう僕は、…大丈夫」


 止まらない涙をぽろぽろ流しながらノアは笑った。アンジュと繋いだ手から微かな力が伝わってきて、滲んで見えにくい視界の中でアンジュもまた顔を綻ばせて笑っているようにも、安堵するようにも見えて、――そしてアンジュは、まるで眠気に抗えない猫のように、重たそうな目蓋をゆっくりと閉じていく。
 アンジュの熱が触れた手のひらから伝わってくる。優しい鼓動。温かな体温。穏やかに流れていくこの時間に浸って、溺れたかった。でも、そんな余韻ももうお終いにしなければならない。

 いろんなものを与えてくれた君に、僕は一体何を返せるだろう。そんなことを今までずっと考えてきた。本当はずっと何かを返したかった。自分もアンジュに何かを与えてあげたかった。
 今の僕が君にあげられるものはただ一つだけ。
 意を決して前を向く。その瞳に浮かんだ涙はそれ以上溢れることは無く、ただ余韻のように頬を一筋伝い、シーツへと落ちていった。暗い染みが滲んで、広がっていく。
 
「アンジュ。君は、十分頑張ったね。……僕は、君が好き。どうしようもないくらい、君が愛しい」
「……」
「いつまでも愛してる。……ゆっくり、おやすみ、僕のアンジュ」

 繋いだ手にありったけの思いを込める。
 それに呼応するよう最後、閉じていた目蓋が僅かに開いた。空を見つめたまま、唇が微かに動く。

「――……」

 呼んでいるわけでは無い、ただ自分の中で確かめるみたいに、音に出さないまま口の中で呟く。
 確かにそれは、最期、安らぎを与えてくれた天使の名を象って。
 目蓋が震えて、そうして落ちていくようにゆっくりと閉じていった。筋肉が弛緩した頬が、まるで微笑んでいるようで、それは一時の眠りに就いているようにも見えた。直後、無機質な機械音が静かな部屋に響き渡る。心臓の動きが止まったことを知らせるアラーム音だった。

 ノアは再び堰き上がってくる感情の濁流を必死に飲み込んで、ただ繋いだ手に精一杯の安らぎを、愛を、感謝を込めた。それでも視界は滲み、揺らぎ、溢れて止まらなかった。

 大嫌いだった自分の力を、少し好きになれたのは。この力で、最愛の人へ最後の安らぎを与えたいと、そう思えたのは。
 ――きっと何にも変え難い、君からの贈り物だったんだろう。
 本当に僕はもらってばかりだった。ノアが笑う。もう大丈夫、嘘なんかじゃ無い。きっと君のいない世界でも上手に生きてみせるから。

 だから、いつか来るその日。もう一度君と会える日までは、――君が何者にも邪魔をされずに、深い眠りにつけますよう。

 ただただ深い安らぎが、アンジュに永遠をもたらしますように。そう願って。