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 幸福の匂いって、なんだと思う?
 そう尋ねられたのは少し前の日の曜日のことだというのに、一週間以上経った今でもその時のアンジュの声が耳に張り付いて消えないでいた。
 幸福の匂い。幸福に、匂いってあるのかな。あるとしたらそれは一体どんな匂いなんだろう。考える俺の脳内には山盛りのデザートが思い浮かんで、確かにそれは幸福だなあとしみじみと思う。少し子供っぽいかと思ったけれど他に良さそうな答えも思いつかなかったので照れながらも正直にそれを答えると、アンジュは笑って俺の頭を撫でただけだった。どうやらアンジュの考えている答えとは違ったらしい。その時のことは今思い出しても顔が熱くなる。
 幸福の匂いとはなにか。それを聞くってことはアンジュは幸福の匂いが何なのか、一体どういうものなのかを知ってるんだろうか。結局答えを聞かないまま解散になってしまったその日以来、俺は何をしていても常に頭の隅で幸福の匂いについて思いを巡らせていた。そんな俺はよく知りもしない幸福の匂いとやらに、あまりにも囚われすぎているのだろう。

 考えてみれば、幸福と聞いて過るのは幸せだったあの頃の思い出ばかりだった。それはもう何度も見た古い映画を懲りもせずに繰り返し再生する感覚に近く、多少の胸の痛みは感じるけれど思い出す日々はもはや受け入れた過去のことだ。
 呆れるほど繰り返し呼び起こされる記憶はいつだって色褪せていて、もう戻れない過去の幸せに俺は何を思うでなく、ただ過ぎていく日々を重ねていく。それは今も昔も、そしてこれからも変わりはしないだろう。だって過去は、変えられはしないのだから。

 *


「以前話した幸福の匂いの話、覚えてる?ねえ、一緒に探してみない?ゼノの幸福の匂い!」

 突拍子もないことを言い出すのはいつだってアンジュの方だった。俺がその「幸福の匂い」とやらに囚われ続けていることなどまさか知る由もないアンジュが無邪気に提案する。
 それはある日の執務室での出来事。大陸に鋼のサクリアを送って欲しいとアンジュからの依頼を聞き届けた後の、ちょっとした雑談の中でのことだった。

「もちろん覚えてるよ!けど俺の幸福の匂い……って、そんな探せば出てくるようなものなの?」
「それはわからないけど、気にならない?自分の幸福の匂い」
「うん。気になる。山盛りのデザートよりもすごい幸せな匂いだもんね…気になるよそりゃ!……でもアンジュを付き合わせるのは申し訳ないし、探すなら俺一人で探すよ」

 だから何かヒントをちょうだい、そう続けようとした台詞はアンジュの机を叩く音にかき消されてしまった。

「それはダメ!そもそもゼノは幸福の匂いが何なのかわからないのに一人でなんて探せないでしょ?一緒に探そうよ」
「う、うん。ありがとう、アンジュ。それじゃあ、俺と一緒に探してくれる?…それはさ、どこを探せば見つかるものなの?」
「もちろんだよ。ふふ、きっとすぐにわかるよ」

 そうと決まれば早速!と張り切って俺の手を取るアンジュはどこか嬉しそうに笑った。やっぱり自分の事に付き合わせるのはどうしたって申し訳なく思うけれど、本当に楽しそうに笑うアンジュの横顔を見ていると、俺まで楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
 今日の仕事は片付いているし少しくらい席を外しても大丈夫かな。守護聖としての自分を押し除けるように湧き上がる好奇心は、まるで朝から晩まで飽きる事なく探検をしていた幼いあの頃を彷彿とさせた。


 それから俺とアンジュの幸福の匂い探しの日々は始まった。
 ある日は公園に行って屋台の香りを堪能し、ある日は森の泉の裏の花畑で花の香りに身を包む。見晴らしの高台では撫でるように優しい風が自然の香りを運んできて、ベンチに隣り合って掛けるアンジュと取り止めもない話をしてたくさん笑った。
 肺いっぱいに取り込んだ香りはどれも確かに幸せだったはずだけれど、アンジュ曰くどうやら幸福の匂いとはまた違うらしい。

 なかなか見つからない幸福の匂いに落胆することも焦ることもなく、ただ二人で過ごす時間だけが積み重なっていく。それはただひたすらに優しく甘い、かけがえの無い時間となっていったのだった。

 *


「というわけで今日はお部屋で探します!いらっしゃい」
「えっと、お邪魔します……わ、わぁ…女の子の部屋だ……」

 初めて入るアンジュの私室は綺麗に整理されていて、部屋中にはアンジュの匂いが染み付いていた。クラクラするほどのその甘い香りと閉じられた空間に緊張していつもの動作が不自然にぎこちなくなるけれど、アンジュが用意してくれたレモンスカッシュを口に含むと弾けるような炭酸にほっと安堵した。
 もはや恒例と化した幸福の匂い探し、もといデートもついにくるところまできたという謎の趣があるが、まさかアンジュが同じようにこれをデートと認識しているとは思っていなかったので一人心の中で噛み締める程度に収めておく。
 そうこうしているうち緊張も薄れてきて、アンジュが提案してくれたブレスレット作りを一緒にしているうちに、いつの間にか緊張なんてそんなことは、もう気にならなくなっていた。

 ブレスレットを作り終わった後は二人で映画を見る事に決めた。約1時間半の少し短め短編映画はひたすらさらりーまんとやらがご飯を食べ続ける、笑あり涙ありのバースの作品だった。曰くアンジュのおすすめ作品であるらしい。
 映画が終わりタブレットが暗くなったタイミングで、空になったグラスに目ざとく気がついたアンジュは「おかわり入れてくるね」そう言って席を立つ。
 軽やかな足取りでキッチンへ向かうアンジュの後ろ姿を眺めながら、固まった体をグッと伸ばしてソファにもたれた。
 やっぱりアンジュといると落ち着く。今日も結局楽しむだけ楽しんでしまって、目的のものは見つからなかったけれど、…でも、いいや。幸福の匂いが何なのかわからないままでも、俺は十分たくさんの幸せの匂いを知ったから。
 真っ白な壁を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていると徐々に瞼が重くなっていく。映画を見て目を使ったせいだろうか。何だか眠い、でもここで寝てしまうわけにはいかないし、起きないと…。
 そう思った次には抗う暇もなく、意識は闇の中へと落ちていったのだった。

 *


 幸福の匂いってどんなだろうって、今でも時々考える。アンジュと一緒にいろんな場所へ行って、いろんな体験をして、いろんなものの匂いを嗅いできたけどアンジュ曰く俺にとってのそれはまだ見つかっていないという。何でそんなことがわかるのか、不思議で仕方なかったけれどきっと彼女が言うのならそうなんだろう。幸福の匂いとやらが中々見つからないことに特別焦れることはなかった。見つからなくてもいい。一緒に探すという目的があるおかげで、こんな俺が彼女の隣にいることを許されるのだから。


 カチャカチャと控えめに食器がぶつかるような音が立つ。脂が跳ねる音。肉が焦げる香ばしい匂い。
 母の声が聞こえてくる。もう朝よ、起きなさい……。
 まだ眠たい。まだ寝ていたい。けど、起きて弟たちの準備を手伝わなくちゃ…。誘われるように、重たい瞼をゆっくりと開けて、視界に広がる天井にゆっくりと、何度も瞬きを繰り返す。

「……ぁあ、」

 見覚えのない真っ白な天井に、声が漏れた。
 それはまるで花が咲くようだった。色褪せ流れるだけだった映像が、鮮やかに色付き、まるでそこにいるかのような音声を再生する。胸の奥が痺れるような温かな感情が溢れて、それは驚くほど鮮明に思い出される幸せだった日々。

「おはよう、ゼノ」

 柔らかな声が頬を撫でた。それは夢にしてはあまりにも現実味を帯びた温かさで、横になる俺のそばではアンジュが微笑む。その姿は、まるで俺の目が覚めるのをずっと待っていてくれたようだと思ってしまって。まさか、そんなはずがないのに。俺のことなんて、待つわけがないのに。
 どう考えたって思い上がりが過ぎるのに、俺を待っていてくれたかもしれないと期待する自分が心を揺さぶる。

「ぁ……俺、ごめん……寝ちゃって、」
「いいよ、私もちょっと寝ちゃってたし」

 眠っていたのは数秒だったのか、数分だったのか、それとも数時間が経過していたのかは自分ではわからなかったけれど、体感的には俺が意識を飛ばしていたのは一瞬のことのように思えた。
 ぺたぺたと顔を触って変なところがないかを確認する。そういえばこんなこと、前にもあったっけ。その時は確か寝ぼけてアンジュのことを母さんと呼んでしまって、すごく恥ずかしい思いをしたんだった。今回はどうやら同じ過ちは犯していないようで、そっと安堵する。
 ずっと寝転がってるわけにもいかない。そう思って体を起き上がらせたとき、重力に従って瞳から何かが頬を伝ってこぼれ落ちた。一瞬それが何なのかわからなかったけれど、落ちた先に暗く小さな丸い濡れたシミを作った服の繊維にすぐさま理解する。これは、涙だ。なんで、俺は泣いているんだろう。

「起きたら小腹すいちゃって…簡単なもの作ったんだけど食べる?……ゼノ?」
「っごめん、食べる。ありがとう!」

 慌てて涙を拭き取り、取り繕うように笑って大きな声で返事を返すけれど、アンジュは俺の顔を見つめ、じっと視線を逸らさなかった。

「うわぁ、なんだろっ、あぁーもうっごめん!はずかしっ、」

 大袈裟なほどに反応してみるけれどやっぱりアンジュは何も言わずにただじっと俺を見つめていた。
 見られただろうか。いや気がつくよな、まさかこんな、涙を流してる姿まで見られるなんて。アンジュの前ではことごとく格好がつかないと顔を赤く染め、尚も静かなままのアンジュにこれ以上の取り繕いは無駄かな、と押し黙った。

 幸か不幸か、流れたのはその一滴のみだった。
 寝ている間に目に浮かんだものが落ちていっただけなのだろう、とは自分でわかってはいても恥ずかしいものは恥ずかしい。
 アンジュの顔を真っ直ぐに見れなくて、ただ赤くなった頬が早く冷めないかとぱたぱた手で煽る。
 すると不意に伸びてきたアンジュの手のひらが頭を撫でた。それは恐ろしく優しい手。それだけでは止まらず、そのまま抱きしめられて、息が止まった。

「あ、…ん、じゅ」
「うん」

 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、酸素がうまく取り込めなくて頭がふわふわした。
 アンジュの小さなはずの身体に抱きしめられるその感覚は、まるで包まれるような安心感を覚えて口を結ぶ。遠慮がちに肩口に鼻を埋めると、温かな香りがして、唐突に思い出すのは俺がまだ守護聖になる前の日常だった。それは今まで何度も何度も思い浮かべて反芻した、あの色褪せたはずの記憶で。色付き鮮やかに思い出される過去の日常は苦しくも愛しい。それは紛れもなく、幸福に違いなかった。
 そこでやっと気がつく。幸福の匂いの意味を。
 今まで探し続けてきたものの正体を、俺はようやく見つけたのだ。

「ありがとう、俺幸せだったんだね。あのなんてことない日々がすごく、大好きだったんだ」

 まるで幼子をあやす様に回された手がゆっくりと背中をさすった。



 今にして思えば、以前ロレンツォ様が香りと記憶の強い結びつきの話をしていた。その結びつきのことをバースではプルーストと呼ぶらしい。アンジュが幸福の匂いの話をしたということは、もしかしたらバースでは匂いと記憶が結びつくというのは割と有名な話だったのかもしれない。
 ふとした瞬間香る匂いに幸せだった記憶が甦るなんて、俺は今までこれっぽっちも意識したことがなかった。
 今ならアンジュが言っていた意味がわかる。どこを探しても見つからなくて、けれどどこにでもある。なんて事のない日常に散りばめられた匂い、そこそが正に俺の探していた、幸福の匂いだということが。


 例えば朝目が覚めた時。台所から流れてくる朝ご飯の匂い。
 例えば昼。風に舞う砂埃の匂い。
 例えば夕暮れ時。1日遊び回って帰ってきた弟たちの砂と汗の混じった匂い。
 例えばお風呂上がり。綺麗に洗濯されたふわふわのタオルから香るせっけんの匂い。
 例えば眠りにつく前。世界が寝静まった暗闇で風に乗って運ばれてくるひんやりと冷えた夜の匂い。

「俺、今が…信じられないくらい、幸せだ……」

 例えば今。胸に抱かれ、君の優しい甘い匂いに包み込まれる俺は、きっと世界中の誰よりも幸せを感じているに違いない。
 身体が震え、泣けてくるほどの幸せの匂いはもう手放せない。離すことなど、出来るはずがなかった。

 俺の感じる幸福の匂いに、君と探したたくさんの香りと、そして君自身の香りがいつの間にか入り込んでいることを、今はただ自分の胸に仕舞い込む。いつか伝えられればいい。俺の幸福の匂いは、君そのものだということを。