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まるで滑るように頬を何かが撫でた。暗い混沌に投げ出された意識が唐突に呼び覚まされ、まず誰かの呼吸を感じ取り、次に薄ぼんやりとした光を認識した。熱い、息苦しいほどの蒸し暑さに身体全体で汗をかいている。じっとりと汗で張り付くような背中がとても気持ち悪い、それに喉もカラカラに渇いている。水。水が、飲みたい。
それまで閉じていた重たい瞼が何度か震え、はたはたと何度か瞬きを繰り返した後。眼前に迫った、こちらを覗き込むようにして見ていた双眸とほぼゼロ距離で視線が重なって、詰まるように呼吸が止まった。

深い緑をした瞳、金糸のように輝く髪の色。まるで威嚇するみたいに鼻に皺を寄せてむき出しになった上歯茎、そのために丸見えになった犬歯は肉を引き裂く為より鋭く発達した切っ先を持ち、人間の退化したものとは全く程遠い。
眠気も、乾きも、一瞬で何処かへ吹き飛んだ。代わりに心臓が止まるほどの衝撃に私は呼吸すら満足に出来ずに、ただ息を張り詰める。

「ユエ……?」

緊張の最中。半ば無意識に、まるでこぼれ落ちるみたいに彼の名前を呼んだ。静かな室内に響きもしないその声は自分が思うよりずっと小さかったのだろう。けれど僅か数センチの距離にいるユエには当然の如く届いたようで、ユエは自分の名前を呼ばれた事よりも、私が声を発したことに驚いた様子で目を瞬かせ、次いで乾いた唇を舌で湿らせた。明らかに動揺したような反応を見せるその姿は今でこそユエ本人で間違いないと確信できるけれど、先ほどまで私を見下ろしていたあれは一体なんだった?呼吸を荒げ牙を剥き、開いた瞳孔を隠そうともせず、興奮したような姿は正に獣に違いなく、誇りを大切にするユエとは全くかけ離れている。それでもその獣を、ユエだとすぐさま認識した自分が、何より不思議に思えて仕方がなかった。

開いた瞳孔のせいではっきり私を捉えられないでいる瞳が何度か左右に揺れて、まどろっこしいと言わんばかりに目が細まる。私の上に跨がるようにして顔を近づけるユエは、荒い呼吸をそのままにまず私の匂いを確かめるみたいに鼻を首筋に埋め、次いで頬に顔を擦りつけた。瞼を舌で舐め上げたり、鼻に齧り付いたり、それはまるで猫がじゃれて遊ぶようだった。
そんな中、私は未だに状況が把握できずに、ただ身体は緊張したままユエの後ろに広がる自室の天井をぼんやり眺めていた。まだ窓の外は暗い。夜中の2時か、それよりももう少し遅い時間だろうか。
よくみればユエには人間の物とはかけ離れた、大きな獣の耳があり、それはぴんと空を向いて立っている。ユエの髪色と同じ黄金色が毛並み良く、微かな光に淡く反射していた。

「ユエ、それ、なに、一体どうしちゃったの……?」

「あ……ぁ、…悪い。起こしちまったか、ごめんな」

目を覚ましていることになんてとっくに気がついてたくせに、そんな言葉で取り繕うユエは私の質問には応えないまま、悪い。と何度も謝罪の言葉を口にした。ユエはその間も、待てができない出来の悪い犬のように荒い呼吸を繰り返しながら私の顔を唾液で濡らす。
明らかに異常な様子のユエに顔が強張って、ただされるがままでいるしかできない。無意識のうちに縋るようシーツを掴んでいたせいで、手が酷く痛み始めた。

「ユエ……ねえ、ユエ…!」

ユエの重みに苦しさを感じながらも、必死にユエの名前を呼ぶけれど、ユエは荒い呼吸を繰り返すだけでやめようとはしなかった。
怖いと思った。私の声はもう届かないのだろうか、ユエはユエではなくなってしまったのだろうか。恐怖や緊張だけでなくどうしようも無い困惑から、徐々に瞳に浮かんでいく涙は溢れて目尻を伝って落ちていく。耐えきれずに喉の奥から嗚咽が漏れた時、ユエがハッとしたように顔を上げて、酷く傷ついたような顔をした。

「泣くな、そんな顔するなよ」
「ユエ、なんで、ユエ、」
「…頼むよ、」

縋るような弱々しい声。温かな手のひらが流れる涙を拭って、そのままに私の髪を梳く。手から伝わる優しさは、私の知るユエに違いなくて、私は溢れそうになる嗚咽を飲み込んで、おずおずと、彼の背中に手を回した。

「ユエ、…ユエ。好きだよ、大好き。…だから、…いいよ。許すから、ユエのすること全部、私は許すよ」

ユエは動きを止めて、ただ私を見つめた。その瞳が、ぐらりと揺れる。泣きそうな顔、してる。そう思ったと同時にユエは、ユエの中の何かが決壊してしまったかのように私の胸元に顔を埋めて、まるで幼い子供が泣き喚くように、ただ静かに声を震わせた。

「…っ、食べたい、全部、残さずにお前のこと、食べちまいたい。なあ、だめか、だめだよな。お前を食べたらもう一緒にいられないんだもんな。でも、もうだめだ。好きだ、アンジュ。大好きだ。俺は、お前を食べる」

自分の内に轟く感情全てを言葉にするユエは、そうすることで自分の中でぐちゃぐちゃだったものを一つ一つ整理していくようだった。悲痛な叫びは葛藤を繰り返し、やがて決心に至ったようにも思えた。ユエの頭を撫で、その大きな獣の耳に触れる。彼が獣と人間、どちらの特性も持ち合わせている確固たる証拠はこれ以上ないほど愛しく、それと同じくらい寂しさを感じさせた。

どれくらいそうしていただろう。ゆっくりと顔を上げたユエの瞳にはもう迷いはない。上から私を見下ろして、乾いた唇を唾液で濡れた舌で舐め上げた。燃え盛るような欲望を孕んだ目。それでもなお静かに、射止めるように私を見つめるその瞳は相変わらずの芯の強さと気高い誇りを感じさせて、私はどうしようもないほど彼を愛しく思っていることを実感させられた。

「アンジュ、好きだ。愛してる。俺を、許してくれ」
「ユエ。私も好きだよ、大好き。だから、私を食べて」

ぽたり、ぽたり。頬に一つ二つと水滴が落ちてくる。それは口から溢れる程、はち切れんばかりに膨れ上がった食に対する欲望か、獣らしからぬ理性に揺さぶられたせいで落ちた涙か。
私の額に、頬に、唇にキスを落とすユエにゆっくりと瞳を閉じる。目を閉じれば、まるでいつもの日常に戻ったみたい。丁寧なキスを繰り返して、愛を言葉にする。私はもうそれだけで胸がいっぱいだった。

現実を受け入れたのか、それとも現実を見ないようにしているだけなのか、もうどっちだっていい。ユエは私を愛している。私もユエを愛してる。ユエのお腹に私が収まって、血となり肉となる。私はユエの一部となって、彼が死ぬまで一緒なのだ。めでたしめでたし、これがハッピーエンドでなければ、一体何だというの?人狼と人間、共に生きていくことの出来ない二人にこれ以上、何を求めるっていうの。

首筋に熱い吐息が掛かる。首筋に舌が這うような感覚を感じて肌が粟立ち、時折遊ぶように甘噛みを繰り返されて、その度に喉が鳴った。
次ぐのは何か鋭い切っ先が宛てられるような感覚。あの鋭い犬歯だろう。どくん、どくん。首に通る太い血管が脈打っている。どくん、どくん。
ユエが好きだった。誇り高く生きるユエが大好きだった。例えユエが人狼だったとしても、彼の誇りには決して間違いなどない。どくん。血管に犬歯が突き立てられ熱が広がっていく、私は迫る暗闇にゆっくりと微笑んだのだった。