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私とユエが恋人になって、今日で丁度一ヶ月が経つ。森の泉でずっと好きだった人に好きだと言われて、そこで私は女王試験を諦めることなく、そして大好きなユエのことも諦めないと決意した。そうしてようやく結ばれた私たちはその場所に誰か他の人が来るまでずっと、お互いの存在を確かめるみたいに手を繋いでいた。流れる滝の音と、撫でるような風、繋いだ手の先から感じるユエの体温に、私はこの上ない幸せにどうにかなってしまいそうだったのだ。
なのに。

「……」
「………」

私たちは日の曜日に、私の部屋で一緒に映画を見て過ごしていた。ユエはソファの上で横になっていつの間にか眠ってしまったようで、静かな寝息を立てあどけない寝顔を見せている。目の前で無防備にも寝顔を晒す恋人の姿につい胸がときめいた。かわいい。いや、かわいいけれども。
そっと手を伸ばして、男性の割にとても綺麗な肌に触れるか触れまいか悩む。うらやましくなるほど、綺麗だ。綺麗なのは肌だけではなく、彼を構成するもの全て、ひとつひとつが人間離れした美しさを持っているのは、彼が神にも等しい存在である守護聖だからなのか。
指先が頬に触れた。ユエは身じろぎひとつせずに眠り続ける。触れた先から顔の一つ一つのパーツをなぞるように、指を滑らしていく。長い睫、高い鼻、大きな口、柔らかい耳たぶ。手のひらで包み込むように、ユエの頬を両手で挟み込むけれど、依然としてユエは目を覚まさない。静かな寝息だけが部屋に響く。綺麗な顔。閉じた瞼の下には緑の深い瞳があって、強く周りの人間を照らしてくれる。彼が大丈夫だと笑うだけで、私は何度も救われてきた。私はユエが好きで、大好きなユエも私のことを好きでいてくれる。そんな奇跡に、いつから私は満足出来なくなっていたのだろう。

柔らかな唇に親指で触れる。やはりユエは目を覚まさない。顔を寄せてみる。僅か数センチ先に、眠るユエ。
私はそのまま、彼の口の端に唇を落とした。一方通行で、口の端に触れるだけの行為をキスと呼ぶのであれば、私たちにとってそれが初めてのキスとなったのだ。

「っ……」

咄嗟に距離を取ってユエの様子を遠巻きに眺めるけれど、私の心配をよそにユエは身じろぎひとつせずに眠り続けていた。私は、なんてことを。発火したかのように急激に身体が熱くなり、全身には熱が籠もってじんわりと汗をかく。口から心臓が飛び出してしまいそうなほどの動悸に何も考えられなくなって、近くにあったクッションに慌てて顔を埋めた。今更ながら、ただただひたすらに後悔だけが押し寄せる。初めてのキスを、こんな…これではただの独りよがりだ。大切にしてくれていたユエに見せる顔がない。波のように押し寄せる羞恥と自己嫌悪に叫びだしたい気持ちを抑えて、恐る恐るクッションから顔を上げて眠るユエに目を向ける。……唯一の救いと言えばユエが、触れた唇にも、私の心の乱れにも、一切何にも気がつかずに眠り続けていることだろう。クッションを抱き潰していた腕から力を抜いて小さく息を吐く。拍子抜け、が正しい言葉なのかはわからないけれど、一体私は一人で何をしているんだろうか。ユエの寝顔を眺めたまま、自分の阿呆さ加減にいい加減呆れることしか出来なかった。

私たちは付き合って一ヶ月になる。けれど、私とユエは未だキスさえ出来ないでいた。
もちろん女王試験が終わるまでは深い関係を持つことはやめておくべきだと、よく理解しているつもりだ。それは互いの使命に対する最低限のけじめであるし、女王になるまでは、否なってからも仕事を疎かにするわけにはいかない。……けど、キスくらいはしたっていいんじゃないかって思うのは、おかしいことなのかな。

一ヶ月もの間チャンスがなかったわけではない。ユエは私の部屋にも頻繁に来るし二人きりになる瞬間だって決して少ないわけではなかった。かわいいと言って、繋いだ手にぎゅっと力を籠めて、どうしようもないくらい好きだと言ってくれる。これ以上無いほど大切に愛されているとわかっているけれど、ユエが私にあえて触れようとしないその事にも気がついていた。守護聖になったのは割と小さな時だったと聞いているし、女性経験がないということを考えたって、少し慎重すぎるくらいだと思うのはやっぱり私がせっかちなだけなのだろうか。

至近距離で見ても何一つ欠点など見当たらない綺麗な顔にやっぱりずるいなと再度思う。もやもやとした感情に振り回されるのはもうごめんだ。ユエが好き。好きだからこそ私だけを見ていて欲しいし、他の誰にも取られたくないって思う。好きだからユエに触れたいし、好きだから、私に触れて欲しい。そう思う私は、傲慢で、恥ずかしい、いやな女なのかな。
なんとなしにユエの髪に手を伸ばして、ゆっくりと梳く。こんなこと、起きている時なんてしたこともないのに。ユエの髪は猫の毛のように柔らかくて金色にきらきらと輝く。かわいいなあ、好きだなあ、なんてぼんやり思っていると、不意に腕が伸びて、髪に触れる私の手を取った。心臓が跳ねる。時が止まったように感じて、はっとした。先ほどまで閉じていたはずのユエの目が、今では突き刺すように私を瞳に捕らえていた。

「ちょっと」
「っゆ、え」

低い声は寝起きのせいか、それとも怒っているせいか。早鐘を打つ心臓を悟られまいと慌てて取り繕うように笑みを浮かべるけれど、その顔は強張って仕方が無い。何も言わないユエにおはよう、と挨拶する声は微かに震えていた。

「お…起きたんだね、お水でも飲む?」
「…お前さ、俺をどうしたいの?」
「……」

私の意味の無い質問には答えずに言うユエに血の気が引いていく。今目が覚めたわけではないことはユエの様子を見ればすぐにわかる。なら、一体どこから目を覚ましていたんだろう。
ユエの顔を真っ直ぐに見れなくてつい俯いた。もしかしたら怒っているのかもしれない、ユエは寝た体勢から起き上がると答えを待つかのように私をじっと見つめた。低いユエの声がまるで私のことを責めているようで、胸が締め付けられたように痛んだ。「……いつから、起きてたの?」伺うように顔を上げて尋ねるとユエは面白くなさそうに息を吐きだしたのだった。

「はじめっから。あれだけ顔べたべた触られたら嫌でも目、醒めるだろ」
「……ごめんなさい、」
「……あー、くそ。ちげえ、そうじゃなくて」

不快な思いをさせてしまったと謝る私に、頭をがしがしと掻くユエが何かを探すように視線を彷徨わせる。どこか焦りを含んだその横顔にわけがわからなくてただ目を丸めてユエを見つめると、ユエは困ったように眉を潜めて、観念したと言わんばかりに嘆息したのだった。

「……俺が悪かった、…ごめん。だからお前が謝る必要なんてどこにもないから、謝るなよ」
「…ユエ?」
「本当は、色々考えて、ちゃんとしようって思ってたんだ。土の曜日に視察行った時か、休みの日か、どのタイミングかずっと考えてた。…けど一回考え始めたらもう全然駄目で、……あー、超かっこ悪ぃな俺。ごめん、不安にさせたよな。……お前に、こんな顔させるくらいなら正直に言っておけばよかった」

そうやって謝るユエは真っ直ぐに私を見つめる。緑色の瞳がきらきら輝いて目が離せない。そんなこと、全然気がつかなかった。ユエはユエなりに色々と考えてくれていたのだと、実際に彼の口から聞く真実がこんなにも嬉しいものだなんて思いもしなかった。

「アンジュ、好きだ。お前に触れたくて、仕方なかった。……なあ、いいか、お前にキスしても」
「……うん、もちろんだよ」

ユエからの問いかけに、心臓が震えた。もちろん、当たり前だ。私はずっと、ユエに触れたくて、ユエに近づきたかったんだから。

ユエが緊張した面持ちで私の後頭部を支えると、ゆっくりと唇を寄せる。それから触れるだけのキス。一瞬だったのか、数秒だったのか、全然わからないままにゆっくりと離れていく唇は少し名残惜しくも感じるけれど、それよりも目尻を赤くして、瞳を潤ませて、ただじっと噛みしめるように私のことを見つめるユエが、愛おしくて仕方が無かった。

「……え、へへ…恥ずかしいね、なんだか」

真っ直ぐにユエの顔が見れなくて、視線を外しながらそう言ってみるけれどユエからの返事はない。
不思議に思って目の前の彼に目を向けるとユエは両手で顔を覆ってしまっていて、その表情は一切伺うことは出来なかった。

「ユエ?」
「あー…、くそ……かわいいなお前。なあ、もう一回いいか?」
「…うん」

顔を覆う手を外したユエの顔は真っ赤に染まっていた。そんな顔をされたら、こっちまで恥ずかしくなる。
段々と熱くなる頬をそのままに小さく頷くと、今度は啄むようなキスが降ってきた。遊ぶみたいなキスは彼のお気に召したようでしばらくの間はそれが続くけれど、それがおかしくてふふっと笑うとユエも一緒に笑っていた。

「お前、笑うなよな。こっちは真剣になってるってのに、余裕な顔してよ」
「ユエだって笑ってた」
「俺様はいいの。…なあ、もう一回」
「いいよ、聞かなくて」

永遠と続きそうな問答に少し笑いながら答えると、やっぱりユエも嬉しそうに笑った。唇だけじゃなくて瞼や鼻の頭。目尻や頬など、顔中に降ってくるようなキスに、愛しさがこみ上げる。
先ほどユエはごめんと謝っていたけれど、私もユエにばっかり任せないで自分から欲しがれば良かったんだ。一人で悩んでふて腐れていたのが馬鹿みたい。

今までの間を埋めるみたいなたくさんのキスに、漸く満足したのかユエが少し身体を離して私の頬を両手で包んでまじまじと顔を見つめる。ユエの大きな手のひらは私の顔全体を覆い隠してしまいそうで、その手の温かさと指先のくすぐったさが心地よかった。

「くそ、本当やばいお前。かわいい。大好きだ。もう絶対離せねえから、今更他が良かったって後悔するなよな」

背中に腕が回って強く抱きしめられる。痛くないけど、少し苦しい。けど、これくらいが丁度良い。

「後悔なんてしないよ。私も、ユエが好き。お願いされたって絶対離さないから」
「はっ、上等だ。愛され潰される覚悟しておけよ、アンジュ」


彼の思いが私に届いているように、私の思いもユエにきちんと届いていればいい。
そうやって二人、この先の未来を歩んでいきたいと心から思うのだ。