朝から降り続く雨は未だ雨脚を緩めず、時折空に光を走らせ唸り声のような雷鳴を轟かせていた。大粒の雨が窓に打ち付け跳ね返る。多量の雨と一切の光を遮断した黒い雲のせいで少し先も見えづらいほど景色は陰っていた。
 コンビニで数百円程度で買える中途半端な大きさのこのボロ傘ではきっと禄に雨も防げないだろう。しかしだからと言って悠長に雨が止むのを待とうとすれば、日付は変わり明日になってしまうに違いない。放課後の帰宅ラッシュを終え、すっかり人気の無くなった昇降口に残ったのは俺ただ一人だった。かれこれ数分もの間、昇降口で立ち尽くしたままでいるけれど、動かなければ当然いつまで経っても家に帰ることは出来ない。気は進まなかったけれど、このままずっとこうしているわけにもいかないし。重たいため息を吐き出して一歩前に足を踏み出した。

「アオくん」

 屋根の下、一歩前に出れば濡れてしまうギリギリのラインで正に今、空へ向かって傘を広げようと持ち上げたところで、背後から自分を呼び止める声がかかった。はっとして動きを止めると靴の鳴る音が近づいてくる。数センチ先の色が濃く変わったアスファルトに打ち付ける雨が細かくなっていくつも跳ね返って足につく。それを見つめたまま、ただじっと身体を固めるけれど、ざわつく心臓は誤魔化しきれない。ごくり、唾を飲み込む音が嫌に大きく感じるけれど、きっとこの煩いほどの雨の音にかき消されて聞こえやしないから、大丈夫。むせかえるような湿気のせいか、首の後ろにべたつく汗が浮かんでどうにも気持ち悪かった。


「今帰るところやろ、一緒に帰ろ」

 右肩が掴まれる。さして強い力じゃないのにずしりと重たく感じるその手に大げさに肩が跳ねた。なあ、とのぞき込むように無理矢理に目を合わせてくるのは、想像してた通り後輩の財前だった。胸の内まで見透かすようなその双眸に、頭の奥がずしんと重たく感じ、更には全身に嫌な汗をかいていく。財前のその深い瞳に貫かれるのが怖くて、逃げるように咄嗟に俯いたのだった。

「あ……うん、いいよ、帰ろうか」
「…なんや、乗り気やないな。やめとく?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ふうん。まあええわ、アオくん、こっち来て」

 目を逸らしたのが気にくわなかったのだろうか、財前は仏頂面のまま俺の腕を取ると、躊躇無く雨の下に出た。頬を打つ雨に一瞬呆気にとられるけれど、財前は振り返ることなく前を進んでいく。
 傘も差さずにただひたすらまっすぐ行く財前に引っ張られて、俺は引きずられるように後を追うことしかできなかった。土砂降りの中傘も差さずに行く俺たちを、一体他の人はどんな目で見るだろうか。いやこんな大雨では視界も悪いから、誰も俺たちを見つけることは出来ないか。
 大粒で痛いほどの勢いの雨に、全身は拭う暇も無くすぐに水浸しになった。水たまりに片足を突っ込んでしまって靴が浸水しようとも、目に雨の水が入り視界が悪く躓こうとも、財前は前を歩いたまま振り返らない。大雨の中帰宅することに対して、あんなに躊躇っていたのが馬鹿みたいだ。

「ざいぜっ、ごめ、ごめんって、!濡れるから、財前も濡れちゃうから、傘、」

 全ての音をかき消すほどの雨の音に、負けじと声を張り上げる。濡れるのは何も俺だけじゃない、前を歩く財前の制服が雨に濡れて透けている。張り付くシャツの布はさぞ気持ち悪いことだろう。雨の日は視界も悪いし、一般道では車通りもあるから危ない。引き摺られながらももう一度財前の名前を呼び、腕を強めに引っ張ると、財前は漸く歩みを止めてくれた。ほっとして、立ち止まる財前に閉じっぱなしだった傘を差そうとして、不意に振り返った財前の腕が俺の身体を押した。

「っ、い」

 意識外からの衝撃にバランスを崩して、盛大に尻餅をついた。水しぶきが上がって、制服の下の下着まで徐々に冷たく染みていく感覚に何も考えられなくなる。深さは2,3センチほどの水たまりの中で唖然としながらも、降り続く雨が顔に跳ね返った泥水を洗い流していく。

「あー。アオくんほんまにドジっ子やな。ぐっちゃぐちゃ」
「……」

 水たまりの中で尻餅をついたまま動けずにいる俺に、財前が目線を合わせるようしゃがんだ。制服に泥水がしみこんで冷たい。ぐちゃぐちゃ。本当に、ぐちゃぐちゃだ。

「かわいそうなアオくん……。俺んち寄って、着替えてきや」

 役立たずの傘と、泥だらけの鞄。頬を伝って落ちる雨のしずくを財前が指で掬って、そのまま頬を撫でる。財前の口角は上がって、その深い瞳は俺を捕らえて、決して逃がしはしなかった。