「あ?アオ先輩、まだ残ってたんですか」
放課後の教室だった。クラスメイトは皆帰り教室には俺一人だけが残っていた。隣のクラスだって、その隣だって。3年生の階は静まり返り窓の外も既に太陽は沈んで暗い。
少なくとも学校に残っている人間は俺くらいだと思っていたんだ。
「!」
「なにびびってるんすか、先輩いちいち大げさなんやて」
「・・・財前、・・・まだ、残ってたんだ?」
仏頂面、というよりも少しにやにやしながら薄暗い教室に入ってきた一つ下の後輩である財前光。蔵ノ介と同じ部活の後輩でもある。
自分の席から立ち上がって、前の扉から入ってきた財前に視線を移す。勢いよく立ち上がったせいで静かな教室にガタ、と椅子を引く音が響き渡って少し気まずい空気が流れた。
「部長はもう帰ったんですか?」
「蔵ノ介・・・は、うん。もう家だって、」
「じゃあ、ちょっと遊べますね」
どうせ家帰りたくなくてここおったんやろ?そう嫌らしく笑いながらすぐ近くまで来た財前に身体が強張る。
財前は目に嫌な光を灯しながら俺の机に腰をかけて、お手。と右手を受け皿にして出してきた。
「ほら。」
「…」
「あれ、また一から教えなあかんの?優しくされたいんやろ?」
「・・・っ」
有無を言わせないような財前の目に下唇を噛む。ああ、どうしても逃げられない。
昨晩蔵ノ介に殴られたわき腹がじくじくと痛みだしてきて、どうしようもないほど逃げ出してしまいたい衝動に駆られるもグ、とそれを飲み込む。
仕方ないんだ、仕方ない。俺は逃げられないんだ、と自分に言い聞かせてゆっくりと、机に腰掛け右手を差し出す財前の前で膝をついた。
「はい、お手」
「・・・」
「ん。ほら、アオくんは一体何者なんやったっけ?」
そっと差し出された右手の上に、自分の右手を重ね合わせた。体温が高いみたいで財前の手は熱く、冷たい俺の手を少しずつ熱で温める。跪いた俺にご機嫌な財前。そんな彼を見上げて、乾いた唇を舌でペロ、と舐めた。
「俺は、財前の犬、です」
「うんうん。偉いやん、やっぱアオくんはやればできる子やな」
いい子いい子、と俺の頭を撫でる財前は本当に嬉しそうに笑う。
繋がった手をぐい、と引っ張られて財前の方へ倒れこむと、彼はバーカと意地悪い笑みを浮かべてキスを落とした。
「ん、」
「んー、アオくん」
「・・・、」
「俺のこと怖い?」
「・・・」
「アオくん、いっつもびくびくしとる。かわええ」
距離数十センチ。いたく真剣な目をして、すぐ近くでそう囁くように言う財前に背中がぞくりとした。
口を堅く結んで距離を取ろうと視線を外す。が、両頬を財前の手に挟まれてしまって半強制的に前を向かせられる。無理やり合わされた彼の目には俺に対する若干の嫌悪感を感じて鳥肌を立たせた。
「ええ顔やなぁ、めちゃくちゃにしとうなる」
「財前、離し、」
「離さへん。なあ、聞いて。アオくんは知っとったかなぁ…」
そう言って柔らかく笑う財前に目を奪われる。
気がついとったかな?そう言って耳元に口を寄せる財前の黒髪が頬に掠ってくすぐったかった。
「おれ、殴ったことないんすわ。アオくんのこと。」
殴ったらどんな顔すんのか、ちょっと試したいんすよ俺。そう続ける財前に心臓が急激に冷えていくのがわかった。
みんなみんな、俺のことを殴る。蔵ノ介も、忍足も、笑いながら俺を殴り、蹴り飛ばす。痛くないわけがない。殴られる痛みに慣れることはきっとこれから先もずうっと来ることはないだろう。
「アオくん、俺に殴られてええの?痛いのすき?」
「や、やだ、…嫌い」
殴られたい人間がいるだろうか。殴られたくないに決まっている。けれど、どこかもう諦めてしまっている自分がいることも確かで。
すぐ目の前で問いかける財前を見たくなくて、ギュ、と目をつぶる。殴る瞬間の人の顔が大嫌いだった。本当に嬉しそうに殴る奴もいれば悲しそうに殴る奴もいる。どれも皆、自分勝手なんだ。
殴られたすぐ後の衝撃は一瞬だ。痛みは、一瞬では終わりはしないけれど。
「アオくん」
「っ、ん・・・」
突然唇に触れた熱いものに目を開く。
「別に暴力で縛りたいわけちゃうから。俺は殴らんすよ」
「ざいぜん、」
「安心してええっすから。」
あんたは怯えてる顔よりも善がってる顔の方がかわええ。
そう笑う財前に、泣きそうになってしまうのは彼の策略通りなのだろうけれど。
優しく頭を撫でる温かい手のひらが心臓をキリキリと締め付けた。
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