夏が、嫌いだ。
そう告げた時の白石の顔は、10年以上経った今でも鮮明に思い出せる。傷ついた顔、驚き困惑した表情、必死に取り繕うとする口元、けれど隠しきれずに震える身体。自分の発した言葉のせいで白石が傷ついた。俺が白石を傷つけたんだ。白石の様子にそのことを知って、後から感じるのは申し訳ない事を言ったという罪悪感。そして、例えようのない高揚感だったのだ。



古い紙の匂いがする。微かに聞こえてくるささやき声と溢れていくような小さく笑う声。窓の外から漏れてくるように聞こえるのはくぐもった蝉の鳴き声だった。
少し甘い設定なのだろうか、冷房は確かに効いているはずなのだがいまいち冷えが足りない。滲み浮かんでくる汗を拭いながらもしばらくの間はにらみ合うように粘ってみるけれど、もうだめだ。卓上に広げたノートの上にシャーペンを転がす。限界だ、暑くてたまらない。こんな部屋では集中なんてできるわけない。椅子の背もたれに体重を乗せながら、隣の椅子に座るクラスメイトの白石に目を向ける。暑さなんて微塵も感じていない様な涼しい顔。真面目にノートと教科書に向き合うその横顔に、俺は微かな苛立ちを覚えた。


「俺、もう帰るわ」

だから深く考えないまま、気がついた時にはそう口にしていた。無意識に発していたそれは、届くか届かないかぎりぎりくらいの、とっても小さな声だった。

白石の綺麗な横顔がこちらを向く。驚いたように丸まる瞳。そして次には怪訝そうな表情に変わった。第二ボタンまで外れたシャツの襟元からは太い鎖骨が浮いているのが見えて、気まずくて目線を逸らす。逸らした先では骨張った手が、細くて綺麗な指先がシャーペンを弄っていた。テニス部のくせに、白い肌。汗一つかかず、いつだって涼しい顔しやがって。
ただの当てつけでしかない。けれど、なんて、むかつく。


「え、」

素っ頓狂な声を上げる白石に目もくれずに席から立ち上がった。白石を見ていると何故だかわからないけれど自分の中で苛立ちが募っていくのだ。
何に対して苛つくのかなんてわからないし、白石とはそれなりに普通の友人関係を築いてきたはずなのに。…これが、俗に言う思春期というやつなんだろうか。思春期ってそんな症状あったっけ、まあなんでもいいや。
机の上に散らかした文房具を全て筆箱の中に突っ込んで、ノートと教科書を乱雑にまとめる。スクールバックの中にまとめて仕舞い込んで椅子を机の下に仕舞いこめば、呆けたようにその様子をずっと眺めていた白石も慌てたように一緒に立ち上がった。待って、と俺の腕を取る白石。汗をかかないだけでやっぱり白石も暑かったんだろうか、やけに手のひらが熱い。腕を掴むその手を一瞥して、焦りの表情を浮かべる白石に目を向ける。「なに?」そう首を傾げると白石は困惑したように、戸惑うよう視線を左右に揺らした。

「や…え、急に、どないしたん…?」

伺うように尋ねる白石に、俺は掴まれるその手さえ乱暴に振りほどいてしまいたい衝動に駆られた。
苛つく。ああ、苛々する。なんでこんなにむかつくんだろう、白石の顔を見ていると、その綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてやりたくなるんだ。悲しんでほしい。怒ってほしい。泣き叫んだり、怒りに吠えたり、とにかく傷つけたくて仕方が無い。どうしようもない衝動が俺を突き動かす。ああ、どうしよう。こんなことは許されるはずがないのに。俺は、おかしいんだろうか?


「白石、夏は好き?」

「え?……まあ、好き、やけど」

全てを飲み込み笑顔を浮かべる。唐突な俺からの質問に白石は戸惑いながらも答えてくれた
。ああ本当馬鹿正直なやつ。
俺はその返答に、そうか、と小さく頷いてゆっくり俺の腕を掴んだまま放さない、白石の手を外した。

「俺はね、夏が嫌いだ。…そんで白石、お前の事も大っ嫌いなんだよ」

精一杯の笑みを浮かべて、言った。
ほら、傷ついて見せろ。悲しい顔をして見せろ。驚け、困惑し、そして悲しめ。怒ったっていい。身体を震わして感情そのままをぶつけてみればいい。俺は笑ってやる。腹を抱えて、指を指して、俺はお前の友達なんかじゃない!って、笑ってやるから。ほら、はやく。


「……それ、ほんまに言うとんの?」

「うん、ほんと」

白石は驚きと困惑を綯い交ぜにしたような顔をして、俯いた。その身体は微かに震える。
ああ、いい。それでいいから。感情的に、なってみせてよ。
そうやって、瞳を輝かせる俺に、白石はゆっくりと顔を上げて視線を向けると、いつもと変わらない綺麗な微笑みを浮かべたのだった。

「よかった。俺もハルんこと、友達やなんて思えへんかったから」


頭を、鈍器か何かで殴られたような衝撃を受けた。笑えるだろう、自分から全部仕掛けておいて全てをひっくり返されたのだ。

それは高校三年生の夏。忘れもしない、ある日の出来事だった。