*続く。



「え……ね、え、…なんで、なんでこんなこと、すんの?俺たち、幼なじみで、…親友じゃ、なかったの?なんで、」

「うん。幼なじみで、親友で、一番の存在で、なーんにも間違いなんてあらへんよ。全部ハルの言うとおり」

蔵ノ介は上擦る俺の台詞を切り捨てるようにそう言って、昔から変わらない、俺が困ったときにまず安心させるように浮かべる笑みを見せた。
何にも変わらないのは蔵ノ介の笑顔だけではない。頬に触れる手の少しだけ低い温度も、俺を見つめるその瞳に籠もった優しさも、『ハル』と、そう呼ぶ甘い声も何一つ、普段の蔵ノ介と変わりは無い。そして、それが俺を更にパニックに陥れる。
幼なじみで、親友?それじゃあ、その手に持つものは一体なんなんだ。俺たちは幼なじみで、親友で、そして。なのに、なんで?

蔵ノ介が左手に持つナイフは太陽の光が反射して、まるでそれ自体が輝くように爛々と光っていた。刃物には詳しくはないけれど、果物ナイフくらいの大きさであまり刃長はあるとはいえない。しかしそれが刃物であることに変わりは無い。それは外に、学校に持ち出す物ではなく、ましてや人に向ける物などでは決してない。
炎天下、肌に纏わり付くみたいに蒸すような暑さが気持ち悪い。じりじりと焦がすような太陽の強い光が肌を焼き、じわりと全身から浮かぶ汗。なのにどこかで背筋が凍るような寒気が俺を襲う。

ここは体育館裏だった。手入れもされず、雑草が生える地面に、制服が汚れる事を気にする余裕もなく尻餅をついた状態の俺と、そんな俺に目線を合わせるよう腰を落として微笑む蔵ノ介。一体、なんでこんなことになったんだっけ。そうやってまるで現実逃避をするみたいに、いやに冷静な俺の意識が遠くへ飛んでいくけれど、不思議なことに何一つとして思い当たる節どころか、ここに至るまでの一切の経緯さえ浮かんでは来なかった。
ただ脳裏によぎるのは、俺の人生にぴったりと寄り添うように、思い浮かべればいつだって隣にいた蔵ノ介の姿で。


「くら、」

嘘だと、言ってくれよ。縋るように、言う。蔵ノ介はそんな俺の姿に、まるでしょうがないなと言うよう、微笑んだ。蔵ノ介のその表情に、こんな状況下でもどこかで安堵してしまうのは、やっぱり彼が俺にとって絶対で唯一の存在であったから、他ならなくて。

俺の安堵と、そして蔵ノ介への信頼をぶった切るように、ナイフの切っ先が、薄いシャツの上から胸元に突き立てられた。柔らかな肉が食い込むけれど、シャツと、その下の皮膚を切り裂き突き抜けるほどの圧力は掛けられていないみたいで、そこには蜂に刺されたみたいなちくりとした痛みを感じた。
一瞬、わけがわからずに呆ける。そして次の瞬間、全身を支配するのは恐怖と緊張で、まるで金縛りに遭ったかのように、身体が強張った。殺されるのかもしれないという危機感が、今更ながらに全身を支配しだしたのだ。

「怖い?殺されるかもって思う?」

「蔵、や、やめ……」

「目、瞑って。ここ、わかる?すっごい、どくどく言ってる……ハルの生きてる音がする」

恍惚に頬を染め、夢見心地のような様子で言う蔵ノ介、震えて噛みしめ切れなかった奥歯が鳴る。目が、合った。蔵ノ介は瞳を細めると、もう一度、「目。潰れ」そう言って俺の瞼を優しく撫でたのだった。まさか逆らえるはずもなかった。そのまま、瞼の上から目を押しつぶされてしまうのではないかという恐怖に身体が震える。言われるがままに目をぎゅっと瞑り、蔵ノ介の手のひらが瞼をなぞり、そして胸に押しつけられる感覚に震える唇を噛み締めた。蔵ノ介の言う台詞はほとんど耳には入ってこなかった。殺されるかもしれないという恐怖を全身で感じている俺にとって、彼の世間話のような調子で紡がれる言葉なんて聞こえるはずもなかったのだ。

こめかみを伝って汗が流れる。瞬間、冷たくて固い、金属質な物が首筋に押し当てられた感覚、身体が大げさに跳ねて、側からは喉で笑うような音。遊ばれているのだろうか、まるでいつもの悪ふざけをする蔵ノ介そのもので、この状況自体が蔵ノ介が企てた悪趣味ないたずらなのかもしれないと心のどこかでふと思う。そうであればいい、いや、そうであってほしい。

そして次の瞬間、まるで迸るみたいな熱。痛み。痛覚を直接刺激されるかのような、感じたことのない激痛が突き立てられた首筋からまっすぐ横に、走る。瞑れと言われたことも忘れて、反射的に目を見開いた。


「い、!!!いた、痛い、…痛い、く、くら、蔵ノ介、……」

「痛い?ははっ、何言うてるん、指でなぞってるだけやのに、なんで痛いねん」

嘲るように笑う蔵ノ介にはっとして、慌てて手のひらで首に触れて確認した。確かに、蔵ノ介の言うとおり俺の首をなぞるのは蔵ノ介の指先で、俺が切っ先を向けられていると思い込んでいたナイフは、いつの間にか乱雑に地面に置かれていた。
そうしたら、さっき感じた痛みは一体なんだったというのか。
確かに感じていた、肉を引き裂かれるような痛み。現に今だってまるで余韻のように、なぞられた箇所が残滓のよう熱を持ち残っているというのに。

「思い込みで人って死んでまうんやって。今まで半信半疑やったんやけどなあ」

「はっ、…は、あ、はっ、……っ、も、やめ、……」

「なあ、男と女やったら、幼なじみなんてこれ以上ないくらい運命的な関係やのに、なんで男同士だとあり得なくなるん?なんで同性ってだけで可能性がゼロになんねん。俺が女の子やったら、ハルは俺と恋愛してくれてたんかなって。そう考えると、もう全部、嫌になねんねん。なあ、ハル」

俺って、やっぱおかしい?蔵ノ介は笑った。笑って、言って、今度こそ本当に、俺の胸へとナイフを突き立てた。じわりと痛みが広がる、熱も同時に広がって、胸元を確認するように俯くと、シャツには小さな赤い染みがゆっくりと、白いシャツを浸食し、全てを赤く染め上げるように広がっていっていた。


「くら、」

「ああ、綺麗やなあ……ほんま、綺麗や」

「くらの。す……」

「好き。愛しとる。なあ、お願いやからハル、俺の物になって」

まるで神様に願い事をするように、蔵ノ介は言った。その目は俺を捉えず、何かを探すようにくるくると動き回る。ああ、もしかしたら蔵ノ介は、何か悪い物に取り憑かれてしまったのかもしれない。こんなのは、俺の知る蔵ノ介なんかじゃない。そうだ、本当の蔵ノ介は人を傷つけない。こんな風に一方的なんかじゃない。いつだって人を、俺を、俺の意見を尊重してくれて。…きっと蔵ノ介は、蔵ノ介ではなくなってしまって、…。

消える直前、揺れ動き今にも失ってしまいそうな意識の中でそんな答えに辿り着いて、心底ほっとした。悪いのは蔵ノ介じゃない、彼に取り憑いた何かのせいなんだ。なら、仕方ないよな……。

燃えるような太陽の下、俺の意識は暗い闇に引きずり落とされるように、あっけなく消えて無くなった。
そこに取り残されたのは、蔵ノ介に対する恨みでも、疑念でもなく、ただ色濃く映る哀れみのみだった。ただ、ただ今現在彼が支配されている、その得体の知れない何かから、どうか解放されますように。
最後に残ったのは、そんな小さな願いだけだった。


一夜 おしまい