屋根に雨が落ちていく音が、室内に反響する。
今日は朝から雨が降り続いていた。湿気が多くジメジメとした空気は肌に纏わりつくようで決して心地の良いものではない。
今日は一日このまま雨だろう、天気予報もそうだと言っている。頬杖をつきながら妙に憂鬱な気分にため息を吐いた。

「どないしたん?ため息なんて吐いて」

そう言いながらキッチンから出てきたのはマグカップを二つ手に持ったルームメイトだった。そのまま俺の座る椅子の目の前に腰を落とす彼の姿を一瞥する。そうか、今日はこいつも一日休みだったっけ。
いやあとかなんとかお茶を濁すように曖昧な返事をするとルームメイトの白石はほい、と言って一つマグを差し出した。湯気が立つそれはカカオの香りがする。

「ホットチョコレート?サンキュ」

「あー、わかった。花ちゃん絡みやろ?」

「ん、まーそんなとこかな」

俺にはなんでもお見通しやでと笑う白石に特に何か返すでもなくマグに口をつける。熱すぎず冷めすぎず、丁度良い温度のそれを口に含んで飲み込む。広がる甘みと温かさに身体がじんわりと喜んでいる、俺が欲していたのはまさにこれだったみたいだ。
染み渡るチョコレートにほっと息を吐いて、花ちゃんねえ、と白石の口から出てきた名前を復唱した。


「どないしたん、デートでも断られた?」

「まさか。デートなんて、そこまでたどり着いてさえいないよ」

雨の日はあの子、いないから。
花屋で働いてるから花ちゃん。なんて、白石が勝手につけた単純なあだ名は割とあの子のイメージにぴったりだった。
花ちゃんは雨の日は出勤しない。晴れの平日のみ働く彼女に、俺はもう三ヶ月恋をしていた。その三ヶ月間思い続け、そして好きでもない花を買い続けて得たものは花好きな青年というイメージのみ。彼女の名前さえ聞くこともできないチキンな俺はきっと、これから何ヶ月彼女の元へ通おうとも連絡先を手に入れる事なんて出来ないだろう。
部屋に広がる花の香りはすっかり、白石と二人でシェアするこの家に馴染んでいるというのに。

「…ダメだと、思うんだ」

「ん?なにが…」

「俺、あの子が好きだから。花ちゃんじゃなくてあの子の本当の名前を呼びたいんだよ」

「……」

「このままじゃ俺が話しかける前に先に花ちゃんが辞めちゃうだろ、だから気合い入れて連絡先渡そうと思って」

思ってたんだけど、雨だし。窓の外に視線を向けて大きく息をつく。意気込んだ次の日にこう雨に降られてしまうなんて、なんというか、ついていない。別に今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日にでも行けばよいのだけれども、俺は自分の決心がいつ鈍ってしまうんじゃないかと不安で仕方がなかった。
白石はそんな俺の話を茶化すことも無く静かに聞いて、ただその整った顔面に優しい微笑みを浮かべた。

「せやったら、早く晴れて欲しいなぁ」

明日は天気予報晴れやって。ニコニコと笑いながら言う白石に背筋が伸びる。そうか、明日は晴れか。
たったその一言だけでジメジメした空気がなんとなく晴れた気がした。


「ほな、そろそろ出かけてくるわ。戸締りしっかりな」

「お前も雨の日よく出かけるよな、いつもどこ行ってんの?」

マグを机の上に置いて椅子から立ち上がる白石に何気なく尋ねると、彼は動きを止めてじっと俺の瞳を見つめた。
もしかして野暮なことを聞いてしまっただろうか。自分の気遣いのなさというか気づきの悪さに少し気まずく思って視線を彷徨わせる。白石は机に置いたばかりのマグを手に持つとそのままキッチンの方へ向かっていった。

「んー…ハル、百花蜜って知っとる?」

「ひゃっかみつ?なにそれ?」

聞いたこともない単語に首をかしげる。
白石は蛇口を捻ってマグを洗いながら淡々と説明を始めた。

「蜂蜜の種類なんやけど、百花蜜は蜂さんがいろんな花から蜜をとったもので、それとは逆に一つの種類の花から蜜をとったものを単花蜜っちゅーねん」

「へえー、それってさ蜂が花を選んでんの?」

「んーん。他の花から蜜を取れないくらい同じ花で囲うようなもんをイメージしてもらえればええかな」

「…ふうーん。それで、その百花蜜がどうしたの?」

まさか全く関係ない話をしたというわけでもないだろう。
不思議に思って、いれてもらったホットチョコレートを飲み干してから白石の後を追うようにそのままキッチンへ向かう。洗い物をする白石の隣に立ち、空っぽのマグをシンクへ置こうとしてそれを横から奪われる。目を向けると白石は、ええよ。俺洗う、と微笑んだ。

「せやから俺、いらん花は摘んでしまった方がええと思うんやわ」

「?蜂蜜作ってんのお前?」

「まあそんなとこやな。今まで遠ざけるだけにしとったけど面倒やし今日摘んでくるわ」

「よくわかんないけど、あんまり持って帰ってくんなよ?花瓶足らねーわ」

少し前に花屋に行ったばかりで花瓶はいっぱいだ。
辛うじて机の上の花瓶はそろそろ替え時、といったところか。茶色くなり色をなくしたスミレが頭を下げ萎びている。摘んで来るには丁度いいかも頃合いかもしれない。花は、そう長くはもたないから。


「おん、任しといて。ほな、行ってくるわ」

洗い物を終え濡れた手をタオルで拭く白石はそのまま玄関へ向かっていく。手持ち無沙汰な俺もなんとなくその後を追う。
白石は靴を履いて傘を手にすると顔だけ振り返って手を振った。
いってらっしゃい。俺も手を振り返して、白石を見送った。



その日の夜、白石は帰ってこなかった。蜂蜜がどうのとか言っていたがやはり女だろうか、まあ飯は適当に一人で食べればいい。
一人リビングでテレビをつけると明日の天気予報がやっていた。予報は晴れだ、心臓が沸き立つ。明日、花ちゃんに俺は声をかけるんだ。不思議な高揚感と焦燥感に駆られる。今日は早く寝よう、そう決めて立ち上がった。




そして翌朝、予報通り天気は晴れ。白石はいつ帰ってきたんだろう。律儀に整えられた靴に目を向けて朝帰りだとしたら珍しいなと思う。

リビングの机の上。
枯れたスミレはごみ箱に捨てられていてその代わりに黒薔薇が一本、花瓶に挿さっていた。




(無邪気な恋は捨てて。あなたはあくまで私のもの)