ハルちゃん。

開けっ放しの教室の入り口に立つと一人、その人はいた。
自分の席につき真剣な眼差しで何かを書き込む彼女。呼ぼうか、呼ぶまいか。一瞬考えて、それから静かに、震えてしまわないように気をつけながら喉を鳴らして名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。


「白石くん…?あれ、部活は……忘れ物?」

「…んーん、今日は部活休み。ハルちゃんも、まだ帰らんの?」

そうなんだ。そう言って笑うハルちゃんのいつもと変わりのない様子に、静かに安堵した。よかった、いつも通り話せている。
教室に足を踏み入れ、教室の隅にある彼女の席の近くまで行く。ハルちゃんは持っていたペンを顎に当てがい、口を突き出すそぶりを見せた。まるで不機嫌な少女のようなその姿に胸が熱くなる。

「ちょっとね、まだやる事残ってるからさ」

「ふうん」

ハルちゃんはそう言ってまた日誌に視線を落として作業を続けた。
上から覗く。ペンを走らせ、日誌の隙間を埋めていくその様子に、ああこの人はマメだから。まだもう少しかかりそうな事を悟ってなんとなく、ハルちゃんの机の前の席に座った。

会話はそこで途切れた。
教室にはペンが紙の上を走る音だけが響く。しばらくの間沈黙が続いたが不思議と気まずさや居心地の悪さは感じなかった。



「白石くんは 」

ハルちゃんが顔を上げないまま話を切り出す。沈黙を破ったハルちゃんの落ち着いた声音と、彼女に呼ばれた自分の名前に心臓が痛くなった。

「夏休みどこか行った?」

「…んー、せやなぁ。テニス部で海行ったくらいかなぁ。合宿っちゅう名目やったけどほぼ泳いどった」

「楽しそうな合宿だね、いいなぁ」

「ハルちゃんは?夏休み、どこも行かなかったん?」

私は…うーん、ずっと家に篭ってた気がするなぁ。外暑すぎるんだもん、部屋から出たくなくなっちゃうよ。そう言ってハルちゃんは日誌から顔を上げて笑った。頬杖をついたままぼんやりと彼女のつむじを見ていた俺は、いきなり重なった視線にぎくりとして身体が固まる。そんな俺の様子には全く気がつかずに笑うハルちゃんに、俺は安堵して、少しだけ、本当に少しだけムッとした。


「…今年の夏は記録的な暑さってずっとテレビでやってたもんなあ」

「本当暑かったね、今年の夏。今はすっかり秋らしくなったけど」

そう言うハルちゃんがふと窓の外へ視線を向けて感嘆の声を漏らしたから、俺もつられてそちらに意識が向いた。
窓から見える景色は少し前から比べると急激に寒々しくなっていた。夏は青々としていた景色も今は色をなくしていて着々と秋へ、そして冬へと近づいている。ただ枯葉も落ち葉も空を飛ぶトンボさえも、全てを赤く染める夕焼けがこれ以上にないほど綺麗で、そしてどこか寂しげだった。


「綺麗な空だね」

そうやって溢すように呟くハルちゃんの横顔は、窓の外の景色と同じように眩しいくらいの赤に染まっていた。その反面、影が色濃く映し出されていて、俺に視線を移して微笑む彼女はとても、綺麗だと思った。
俺も、同じように赤く染まっているだろうか。彼女と同じでいる事が出来ているだろうか。
ハルちゃん。彼女の名前が、口の端からこぼれ落ちる。
ハルちゃん、…ハルちゃん。


「……」

そのくせ、呼んだのにその続きはなにも出てこない。
喉の奥に詰まってしまったように、…いや、詰まるもなにも、俺にはなにもなかった。なにも用意してないのに、言葉が出てくるはずもない。そんな事わかりきっているのに、なぜ俺は彼女を呼んだんだろう。こんなの、全然俺らしくない。完璧なんて、程遠い。

ダサくて、恥ずかしくて、逃げたくて、どうしようもない俺に、ただ優しく微笑むハルちゃん。
彼女の微笑みに、胸がぎゅっと締め付けられて、ああ。やっぱり敵わない事を悟った。

「白石くんはさ、頑張ってるね。とっても」

「……」

「白石くんは、偉いよ」


ハルちゃん。呼べば呼ぶほど、愛しさが募る名前。
ハルちゃんは、微笑む。
ハルちゃんは、俺なんかよりもよっぽど俺の扱いを心得ていた。

どうしようもなかった。やはり、彼女には到底敵わない。
俺は始めから用意していた台詞を、用意していた笑顔に乗せて言う。

「ハルちゃん」

「ん?」

「結婚おめでと。先生辞めても、俺達の事忘れたらあかんよ」

少し驚いたように目を丸めて、そして寂しげな表情をするハルちゃん。ありがとう、そう言って彼女は微笑んだ。俺も、彼女のように微笑んだ。



日誌を畳むと、握っていた赤ペンを置いて「さあ、そろそろ戸締りするから。君も早く帰りなさい」そう言って席から立ち上がった。

夕日が沈んでいく。教室いっぱいに広がっていた赤がどんどん消えていく。
俺は席から立ち上がり、聞き分けの良い返事を返した。

「帰り気をつけてね、さようなら白石くん」

「先生、さよなら」

夕日が落ちていく。赤が消えていく。
お願い先生。幸せになんて、ならないで。