kurumi | ナノ

ブルー、BLUE、青 (ChanYeol)




 俺は今日何度目かになるため息をついた。肩が、まるで重しを乗せられたかのように重くなった。けれども、俺はむしむしと暑いこの夏に苛まれているわけでもないし、夏休みを目前にしての課題や部活動の多さに嫌気がさしているわけでもない。
 本当に、変なことなのだ。実は、自分でもその理由をわかってはいない。
 普通、休みというものはどんな人にとっても嬉しい、喜ばしいものであるはずだ。それは例外なく、今までの自分もそうであった。そうであったはずなのだが……何故なのだろう。
 高校二年生の夏休みを前にして俺は、ずるずると身体がベッドに沈み込んでいくような感覚に溺れていた。
 しいんとした部屋。ベットに横たわり、天井を穴が空くほど見つめた。まばたきをしても、まばたきをしても、それは当たり前に変わらない。遠くで広がる真白。頭上を覆う真白。
 それが、なんだか急に腹立たしくなってきた。
 俺はたまらずに寝返りを打った。けれどもそうするとまた自然と、ため息が出てきたのだった。……何故。
 横になったまま目を開いて、部屋を見回してみる。そこに映るのは特になんの変哲もない部屋だった。棚には漫画や小説が収められ、机には参考書やノートがあって、床にはバスケットボールが転がっている。
 俺はバスケットボールを見て、ああ、明日から部活か、と、そんなことをぼんやり思い出した。しかし、それはふわりと浮かんできたにも関わらず、何だかよくわからない質量を持っている気がした。
 暇ならばその時間はバスケの練習をするべきだ、もしくは勉強をするべきだ、   と、そういう義務のようなものを感じた。
 ……わかっては、いるんだけどなあ……。
 俺はもやもやとした心でまばたきを繰り返す。ぶー、と手元の携帯が震えた。見れば、友達からのカカオだった。他愛もないメッセージ。俺はそれをちらりと見ただけで、返そうとは思わなかった。

「あー、つら」

 ぽろりと言葉が零れ出てきた。いよいよ、俺は何もかもが負担に思えてきてしまった。
 俺は起き上がり、家を飛び出して当てもなく歩き出した。
 外は陽の光に包まれていた。けれども夏の陽射しだから、暑いといえば暑くて、走る車の運転手やすれ違う学生たち、主婦、老人などみな一様にそれに顔を顰めていた。
 携帯は家に置いてきていた。持って行けば、それに縛られるような気がしたのだ。それでもお金はやはり持ってきた。何かあったときのため、とそこは手放せなかった。
 足はやがて、人影乏しい山中の小さな浅めの川へと行き着いた。自分でも今から思うと、どうしてそこへ行ったのか、どうやってそこへ行けたのかが思い出せない。突飛な行動だった。歩いていて、山が目に入ったら、自然と吸い寄せられたのだ。
 そよそよと風が通り抜けた。森の中は陽射しが和らぎ、涼しかった。ここは心が落ち着く。誰もいないし、邪魔するものもない。つうと手を伸ばした先の水は冷たかった。目を閉じて、深呼吸をした。生の木の独特の香りや土の匂いが、身体を染めていくような心地がした。
 ずうっとここにいれたら、幸せなのに。自分が森の小人や鳥なんかだったら、こんな場所で自由に遊んだり休んだりできるんだろう。
 そんな他愛もない妄想が浮かんだ。けれどそれと同時に、俺は虚しさや後ろめたさを感じた。
 そのとき、森のどこかから荒々しく土を踏む音が聞こえてきた。小石が転がる音や枝が折れる音……、それは誰かが走ってくる音だった。
 近づいてくる。俺は訳もなく緊張した。そして、聖域を穢されていくような嫌悪感のようなものを感じた。
 人影が向こうのほうからやって来た。大きな息遣いが徐々に鮮明になっていく。俺はその人影にじっと目を凝らしていた。
    男。
 走ってきたのは黒のタンクトップを着た男だった。それも、自分と同じくらいの歳の男。
 注視していたそいつとばちりと目があった。瞬間、俺は急に居心地が悪くなった。
 がしかしそいつは俺のことなど全然気にしていないようだった。そいつは俺の目の前で突然その足を止めて、かと思えばそのまま、ばたりと小川へ倒れこんでしまったのだった。
 な、なんてやつだ……。
 俺はとんでもないものを見てしまった気がした。そうっと目線をやる。男はまだ川に埋もれるようにして寝ていた。けれどもその胸元は激しく上下し、荒く呼吸をする音が先程までの静寂を犯している。
 どうしよう、目を覚ます前に帰ろうか。変に関わり合いを持つよりも先に、逃げてしまう方がいいのではないか。
 と、思ったのだが、俺はやっぱりその場を立つことができなかった。
 心が、非日常との出会いに震えていたのだ。まるで、現実の世界ではないかのような心地がしていたのだ。
 だから、

「あのさ」

 彼に声をかけられた瞬間、至極のような喜びを感じた。
 ごくりと唾を飲み、返事を返した。

「な、なに」

 けれども返事はかっこ悪くひっくり返った。しまった、と恥ずかしさに髪をかく。男がすかさず笑い声をあげた。そして、そいつは起き上がってこちらを向いた。

「何でそんな顔してるの」
「……へ?」
「顔だよ、顔」

 そんな、変な顔しているのだろうか。ぺたぺたと顔を触った。初対面のひとに、そんなことを言われるのは初めてだ。かっこいいとか言われることはあるが、変と言われたことはない。

「馬鹿、表情のことだよ」
「え、?」

 男が突然立ち上がった。
 ……なんだこいつ。馴れ馴れしい口調に、それに、馬鹿……だって?
 と、そう思っていた途端、俺は肩を強く引かれた。

「うわ、うわわわ!」

 もちろん、まさか引き摺り込まれるだなんてことは予想していなかったから、身体は、彼に引かれるがままに傾いていき、そのまま、俺は膝をつくようにして川に突っ込んだ。   冷たい。

「きもちくない?」

 笑う男。間近で見ると、そいつはベビーフェイスをしていた。
 心臓が早鐘を打つ。それは水の冷たさのせいもあるが、間違いなく、男のせいもあるだろう。
 俺は男の問いに戸惑いつつも頷いた。水は確かに気持ちよく感じた。気づいていなかったが、散々歩き回っていた自身の身体は熱く火照っていたようで、ひんやりとした川の流れに手がじんじんとした。

「お前だれ?」

 男がしゃがみながら言った。

「だれって……、パク……チャン、ヨルだけど」
「ふうん。チャニョル」

 だれ、って。そんな聞き方あるのかよ。もっとこう、名前は何ですか、とか普通にあるだろうに。なんて横暴な聞き方なのだ。と思いつつ、自分からすんなりと名前を答えてしまったあたり彼のそれを本当に嫌だとは感じてないのだろう。
 むしろ、心臓のどきどきは止むことがない。
 おもむろに男が手を差し伸べてきた。

「俺、ベッキョン。ビョン・ベッキョン」

 そう言って、男、もとい、ベッキョンが笑った。俺はいつの間にかその手を取っていた。身体を引き上げられる。立ち上がったら、ベッキョンは俺よりも背が低いということに気がついた。
 ベッキョンがこちらを見上げて、

「お前でかいな」

 と言った。俺は素直に、うん、と頷いた。ベッキョンが口を尖らせる。

「いーなー! 俺も背伸びないかなあー!」
「……いいじゃん、そのままで」
「はあ?」

 顔を歪めたベッキョン。俺は咄嗟に「ああ、いや」と取り繕うように言った。
 どうしてか、ベッキョンは小さいままでもいいじゃないか、と俺は思ったのだった。だけどそんなことを言っても、なんでと言われたらその理由は   ……俺にも、わからない。

「男は背が高い方が有利だろうが」

 不服そうに、頭の後ろでベッキョンが腕を組んだ。

「……有利?」
「モテるだろ」

 ベッキョンが振り返った。

「……ああ、……ああ」

 そんな理由で背を高くしたいのかと思った。それに、そんなことをしなくてもモテる気がするのに、とも思った。

「そんなに……モテたいの」
「なにお前ゲイ?」
「いや、違うけど」
「だよなあ、イケメンだもん。モテモテだろ?」

 にしし、とベッキョンが笑った。
    掴めない人間だ。
 彼は間違いなく、今日出会ったばかりのはずなのに。俺はその馴れ馴れしい口調にも態度にも、不思議と腹が立たない。むしろ清々しささえ感じるのだ。なんだか魔法にかけられたようだ。するりと、懐へ入られる、そんな感覚。
 ベッキョンが濡れた髪をふるふると震わせた。冷たい水滴が飛んでくる。仰け反ると、無意識に口角が上がった。

「飛ばすなよ」
「ん? はは」

 けれども俺がそう言った途端、ベッキョンは余計に頭を振りだした。
 笑い声が森中に響く。

「ベッキョナ、犬みたいだよ」
「あん?」
「いーや。べつに」

 ベッキョンは川に横たわっていたせいで頭からつま先までぐっしょり濡れていた。タンクトップやズボンもぴったりと身体に張り付いている。
 何を思ったか、俺はベッキョンの額に手を伸ばして、目に入りそうになっている髪を横へわけた。ベッキョンと目があった。すぐに、手をおろした。

「……風邪引くよ」

 ベッキョンの視線を避け、俺は周りの木々らに顔を向けた。「ん、ありがと」と、ベッキョンの声が聞こえてきた。
 そこで会話がぴたりと止まった。つらつらと、まるで友達かのようにしてしゃべっていたはずなのに、いまの沈黙は居心地悪い。風に揺られ、葉と葉とが互いに擦れ合う音がごうごうと俺に騒ぎ立てる。

「あのさ」

 振り絞るように、俺は言った。ベッキョンに目を合わせる。ベッキョンはタンクトップの裾を絞っていた。こちらを見ずに、んー、と短く返される。
 俺は唇をゆるくはんだ。それから、もう一度、振り絞るように言った。

「いまから、暇?」
「……ん?」

 風が消えた。ただ、これからの予定を聞いただけなのに、まるで告白でもしたかのような気持ちになった。
 このまま、ベッキョンと別れるのは惜しかった。
 ベッキョンは初めて出会った人間だと思う。性格というか雰囲気というか、全てが新鮮だった。いきなり話しかけてきたり、川へ引き摺り込んできたり、適当に名前を聞いてきたり……。
 今までにない不思議な感覚。胸の空くような、そんな彼の不思議を、俺はもっと知りたいと思った。
 けれども、ベッキョンはきょとんとした顔をしていた。自分から言ったにも関わらず、だんだんとみぞおちのあたりが冷たくなっていく。
 いきなりこんなことを言われてもやはり戸惑うのだろう。言ってもまだ初対面だ。俺は「忙しいなら、いいんだ」とすぐに手を振った。川から上がる。サンダルが濡れて、一歩足を出すときゅ、と音が鳴った。すると、ベッキョンが言った。

「なに言ってんの」

 振り返るとベッキョンは笑顔になっていた。

「行くよ」
「え?」
「行こうよ」

 ベッキョンが目を細めた。俺は込み上げる何かに、たまらず頷きを返した。
 山を下りていく間に、俺たちは色んな話をした。そうして、お互いにお互いのことを知っていった。
 ベッキョンは俺の高校から少し遠いところにある、街中の学校に通っていて、陸上部に入っているんだそうで、

「じゃあさっき走ってたのって……」
「自主練」
「へえ……」

 また、大変な努力家でもあった。陸上部に入ったのは高校生からだが、それからというもの、毎朝登校前に山をひとっ走りしているらしい。部活が無い休みの日も先ほどのように練習をすると聞いたときは返す言葉が無かった。
 俺とは、大違いだな、と思ったのだ。

 




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