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非終焉型思想観念 (BaekHyun)




「ベッキョナ」

 聞き慣れない声に、は、と顔を上げた。机の向こうに、いつの間にかギョンスが立っていた。両手にはコーヒーの入ったマグカップ。
 だが、それは決して研究に努める俺を励ますためのものではないのだろう。彼の表情が、その平坦な声色とは違い、やたら悲しげに歪められていた。
 俺はまたか、とため息をついた。   もうやめなよ   。そんな風に、彼が言っている気がしたからだ。
 しばらく間を置いて、少しずれていた眼鏡を押し上げた。「もう少しだけ」
 深く息を吐く音が聞こえた。俺は見向きもせずに手元の作業に意識を向ける。きっと煌々と白い灯かりから注ぐ光はそれをより滑稽に映していることだろう。だけど絶対、やめたくない。
 ギョンスがやがて目の前に座った。ギョンスは自分の分のコーヒーを口にしているが、一方で、机に置かれている熱々のコーヒーは所在を無くして機嫌が悪そうだった。やたらと湯気を上げているように見えた。けれども今はコーヒーを飲む気持ちにはなれない。
 あともう少し、もう少ししたら何かがわかるような気がするのだ。
 ギョンスがとん、とマグカップを置いた。

「いつになれば気づいてくれるんだよ」

 まるで独り言でも言っているかのようにギョンスが言った。だがそれでも俺は彼を見ようとは思わなかった。むしろ、意固地になって見ないようにしている気さえした。
 ”彼を生き返らせる”研究に対して、皆が言うことは同じなのだ。
 無理だ、無理だ、と口を揃えては、一様に呆れ顔をするのだ。ギョンスとて、例外ではない。一心に試行錯誤をする俺を、もうどうかやめてほしいとばかりに説得をしてくる。
 確かに、自分でさえ本当にできるかということに確信めいたものはない。
 けれども、俺は”彼を生き返らせる”方法があると、狂気めいて信じている。……というよりも、信じるほかないと言ったほうが正しいのかもしれない。
 机の写真立てに収まる彼に目をやった。この笑顔がいつも俺を、そう奮い立たせていた。
 不可能だという意見に抗いながらも、諦めずに研究に没頭している自分。俺はそこに最大の愛を感じているのかもしれない。彼が死んでからもう一年は容易に過ぎているが、こうすることで、自分が負っている罪悪感が少しでも軽くなっていくような心地がするのだ。
 いまでは青あざは無い手だがまだ”彼の跡”はそこに残っている。
 
「ベッキョナ」
「ごめん」

 馬鹿だとは思う。けれどギョンスには早くここから出て行ってほしかった。
 ギョンスは”あいつ”が死ぬ前から、出会う前からの付き合いで、結構長い仲になる。どのように俺があいつと出会ったか、付き合っていたかを彼は知っている。
 だから、一緒にいると、自分が惨めに思えてくるのだ。今でもあいつに縋りつくように生きる自分を、認めたくはなかった。

「俺はあいつを生き返らせる」

 きい、と座っている椅子が軋んだ。

「俺はやめない」

 自分で言っておきながらも、それはさながら、自分自身に言い聞かせているようだった。そうして騙して、俺は真実を受け入れたくないのかもしれない。
 胸元で何かがざわざわと騒ぐ。
 気づけば、作業をしていたはずの手は止まっていた。

「もう無理だよ」
「……」

 ギョンスの鋭い声に、俺は返事を返せなかった。ピペットから手を離す。それが吸い込んでいる、色の無い液体をじっと見れば、えも言われないような気持ちがせり上がってきた。

「もう、無理だよ」

 言葉を繰り返したギョンス。「なにが、」とやっとのことで返した俺の声は、しかし、思いの外小さかった。

「理解できないよ、俺には」
「……なにが」
「お前が」

 俺が?
 反感を込めてそうギョンスを見返したら、その大きな瞳がぎょろりと動いた。瞬間、心臓を掴まれたように息が詰まった。

「あんな風にされて……、それで、こんなになってまで生き返らせたいなんて……理解できない」

 こぶしにきゅっと力がこもった。湧き上がるような文句の数々を口にしてやりたくなった。何故俺がこの研究に、この試みに固執しているのかを並べ上げてギョンスをねじ伏せてやりたかった。けれど、俺はもうそんな気持ちにはなれなかった。
 時間が現実を見せたのだ。
 俺の不純で稚拙な動機の”ぼろ”を、ありありと気づかせた。
    だけど、俺は。
 強く下唇を噛んだ。

「……やめたく、ないんだよ」

 やめたらそれを認めることになってしまうから。自分のしていることが、全く愚かな行為であることを受け入れることになってしまうから。
 やがて、唇を噛むそれががくがくと震えていると気づいた頃には、既に頬へ熱のこもった雫が伝っていた。
 鼻が鳴る。落ち着きたくて長く息を吐いたがしゃくりあげるものがそれを邪魔する。はらはらと流れていく涙は、すぐに苦しくなってきて、空気を吸い込んでも、吸い込んでも、少しも肺を満たすことは無かった。
 震える手で、口を抑えた。

「なんで……」

 ギョンスの声がした。ギョンスは眉間にしわを寄せて、噛みしめるような表情で押し黙った。
 少しも驚くことのないその様子から、とっくに彼は気づいていたのだろうということを悟った。どうして俺がやめないのか、なんてことはとっくのとうにわかっていて、それで研究をやめてほしいと言ったのだ。
 ”なんで”
 その一言に、ギョンスの思いが詰まっている気がした。 
 すう、とギョンスが立ち上がった。こちらへ歩いてくる。ちらり、と彼が写真立てに目をやった。

「あんなやつもう忘れればいいのに」

 何かを含んだようなその言葉。俺は首を振った。忘れるなんてできない。
 側に来たギョンスが俺へ手を伸ばした。頬へ温かい感触が這う。心がきゅうと締め付けられた。

「あんなやつ、死んで当然なんだって」

 ギョンスは幼子に語りかけるようなやさしい口調だった。俺は再び首を振った。そんなわけない、死んでいいはずの人間なんていない。
 思い出の中の”あいつ”が笑った。
 今でも色褪せることがない、その笑顔にやはり、彼が死んだ哀しみを感じた。

「俺は……、」

 あいつはいつだって俺を笑顔にしてくれる、太陽みたいな存在だった。研究することばかりで、特に能も無い俺に、愛していると言ってくれた、そんなやつ。
 なのに、死んで当然だなんて。

「忘れたわけじゃないでしょ、あいつにされたこと」

 ギョンスの手が俺の髪へと伸びた。除々に梳き始めたそれに肩が震える。

「あの時も言ったのに、   もうやめろ、関わるな、って」
「あれは……っ」
「お前は聞いてくれなかった」

 髪を撫でる手は、辛辣な言葉にも関わらず止まりはしなかった。そのやさしさが、痛い。
   もうしゃべらないでくれ。そう思ったけれど、ギョンスは続けた。

「初め見た時から俺は気に食わなかった。変だと思った。そうしたら……案の定で」

 あいつはいいやつだった。いいやつ。   機嫌さえ、悪くなければ   

「俺は覚えてるよ。お前が顔にあざを作ってきた日のこと」

 思い出の中の”あいつ”が、不機嫌な顔に変わった。俺は途端に息を飲んで、「ちがう」と言っていた。「なにが違うの」とギョンスが俺を見下ろした。

「疑惑だけで別れろなんて言ったわけじゃない。俺は見た。べろべろに酔い潰れて、店で暴れ出すあいつを」

 俺は無意識に、左手を掴んだ。身が竦む。「ちがう、」手の甲の辺りを撫でると、ぼこぼことした皮膚の感触に当たった。心臓が気味の悪い鼓動をし始めた。

「いつだったか、酔った時のあいつと話したことがあるんだよ。俺は。……その時さ、聞いたんだ……、お前のこと」

 ギョンスの瞳がびたりとも動かない。その瞳に、のらりと立ち上がるあいつを思い出した。手を振り上げて、容赦なく、俺を打つあいつを。

「あいつ何て言ったと思う?    俺には、信じられなかったよ」

 彼が怒った時、俺はただ強く目を閉じて、気が済むのを待つだけだった。そうすれば、彼はそのうちに俺の少ないお金を抜き取ると、どこかへ消えていく。

「……どうして?」

 ギョンスが眉を顰めながら笑った。その顔が彼と重なる。あいつは言う。   愛してるから、   。だから俺を殴るのだと、顔をくしゃくしゃにしながら訴えるのだ。

「っ……、」

 うつむいて、やさしく髪を撫でてくれていたギョンスの手を払いのけた。もう何度目なんだろうか。俺は前もギョンスの手を払いのけた。その度に罪悪感と、自分の愚かさにも気がついていたのに、俺は今回もその手を払ってしまった。
 俺が変えられると思ったのだ。だらしが無い習慣も手癖の悪い性格も、全部、俺と一緒にいれば直せると、彼が言うから。やさしく微笑んで、髪を撫でて、あるいは泣きながら俺を抱きしめて、言うから。

「……む、…りだ」
「……」

 沈黙が痛い。けれども彼は死んでしまった。彼は俺に手を上げてすぐ出て行って、それっきり帰ってこなかった。彼は事故で死んだらしい。道路に虚しく横たわる彼の姿を、抱き寄せたときの彼の重さを、今でもしっかりと覚えている。その時は雨が降っていた。

「俺が殺したんだ……、」

 暗い路地で寝ている彼を見つけたのは俺自身だった。またいつもの店で酔い潰れているんじゃないかと思って外に出たら、しばらく歩いたところに彼がいたのだ。
 血だらけの身体。雨に洗われて、彼のそれが辺り一帯に染み渡っていた。
    お前が俺を苛立たせるんだ。
 先の口論。あいつはそう言った。俺のせいであいつは苦しいのだと。

「俺が……っ、」

 あいつが笑う。綺麗な顔で笑う。俺は愛していた。どんなにひどいことをされても、その後に笑いかけてくれる彼がいるから。
 愛していた。心の、底から。

「……、」

 ギョンスが俺を抱きしめた。冷たくさめきっていた俺の身体が温もりに包まれる。   が、違う。
 目頭が熱くなって、ほろほろと涙が溢れていった。頭を擦りつけ下を向くと、しゃくるようにしか息ができなくなっていた。
 抱きしめられる力が強くなる。

「なあギョンス……っ」
「ん?」

 やさしい声。背中を撫でている手のひら。
 だけど思い出すのはまぎれもなくあいつのもの。

「俺ならできるんだ……っ、」
「……」

 あいつの手が、涙を流す俺の顔をやさしく挟み込んでくれる。涙を掬って、鼻水を拭いてくれて、ごめん、って。

「俺なら、あいつを変えられるはずだから……っ」

 愛してると囁く彼。汗ばむ身体と熱い口付けでくらくらとする頭。幻なんかじゃないんだ。嘘なんかじゃないんだ。繋がるたびにそう思った。
 どんなに声を上げようとも、怒ってこようとも、殴ってこようとも、ああ俺を愛してくれているのだと感じるのだ。自分が間違っていたと、後悔して。

「そうだよなあ……? なあギョンス、俺ならっ、……変えられるって……愛してくれてるって……っ」

 ギョンスの服を強く掴む。俺は縋るように顔を上げた。けれどもギョンスは俺を見下ろしたまま、その黒い瞳を涙で濡らしていた。




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