まあいいか (KyungSoo)
あ、やばい。
一定に刻んでいたリズムが、途切れる。ひりひり、目頭が熱くなったかと思えば、途端に視界はぼやけ始めた。咄嗟に動かしていた包丁を離して、手の甲で目頭を押さえる。
瞬間。ほんの僅かな隙間から涙が頬を伝った。
「……、」
が、決して、俺は悲しいから泣いているわけではない。
涙の原因はひとえに
まな板の上に散らばっている、たまねぎ。
「うー、……目が、目が」
みんなが起きる一時間前。まだやや仄暗い朝早く、朝食を作るためにキッチンに立っていた。誰もいないしんとした部屋でただひとり、目の痛さから右へ左へと動き回る。こんな光景を見られたらまた"変わってる"だとか"四次元"だとか言われそうだけれど、どうしようもなく、ひりひりと目に染みるたまねぎの成分。
こんなとき誰もいないのがまたさみしい。誰かがこの場にいてくれたならば、目に染みた、なんて言って笑い合えるというのに。
ぱたぱたと移動しながら、テーブルの上のティッシュを探す。一枚手にとると、すぐに涙を滲ませた。が、そのとき、誤ってたまねぎを触りまくっていた指が目頭へ突っ込んでしまって、身体を走った痛さのあまり腰が折れた。
「いっ、
!! い、……った……ぁ!」
たまねぎ臭い手。つうんと刺激するその匂いが、より一層、虚しさを引き立てる。一体、一人で、何をやっているのだろうか。ぽろぽろと零れる雫。頬を伝い出したそれはさながら本当の涙のようだ。鼻水さえ垂れてきた。ずずず、と鼻をすする。
すると、ちょうどその時。きぃ、と扉が開いた音がした。
起こしてしまったか。おもむろに顔をあげると、そこに居たのは。
「ヒョン……?」
「
お、あ、ジョンイナ」
眠気まなこ
かと思いきや、起きてきたジョンインはしかと瞳を開いていて、俺の方を凝視していた。まあ、髪は、相変わらずぼさぼさだけれど。
どうやら想像以上に一人芝居がうるさかったみたいだ。ジョンインなんて、滅多に起きてこないのに。
俺は申し訳なさを感じて、すん、と鼻を鳴らした。
「ごめん。ジョンイナ。うるさくて起こしちゃっ
た、」
引き寄せられる身体。言葉尻を言うよりも速く、俺は何故かジョンインに抱き締められていた。
きつく、ぎゅうっと包み込まれ、ジョンインの身体にすっぽりと埋まる。
「……ジョ、……イナ?」
突然抱き寄せられて困惑したが、胸元へ強く押し付けられているせいで彼の顔色は窺えなかった。
厚くなった胸板が頬に当たっている。どくん、どくん、と伝わる心拍。それに合わせて俺の心臓が性懲りも無く脈打つ。また、すん、と鼻を鳴らした。
やがて、背中へ回されていた腕が頭へと及んだ。よしよしと、大きな手でなぐさめられるかのように髪を掻き撫でされて、みるみるうちに頬へ熱が帯びていく。
誰か、起きてきやしないか。
そんなことを考えてしまいながらも、撫でられている感触がつい気持ちよくって、目を閉じた。
けれどもしばらくすればその感触も止まり、抱き締められていた腕の力も緩んだ。目を開ければ、そこへジョンインの顔が現れた。ジョンインは眉根を寄せていた。
「どうしたの」
「……え」
どうも、なにも。そんな気持ちを込めて瞳を覗き返せば、すう、と手が伸びてきた。涙が残っていたのかまなじりを優しく拭われた。
「どうして、泣いてるの」
「あ、……いや、それは」
「何かあったの」
視界の端へ映る、キッチン。
髪を撫でてくれていた手がするりと頬へ添えられる。真剣な眼差し。これは、本当に心配してくれているときの目だった。ごく、と喉が鳴る。
い、言えない。
この涙が悲しいからでもなく、辛いからでもなく、ただ単にたまねぎの硫化アリルのせいだ、なんて、口が裂けても言えない。それは、なんか、今更……恥ずかしい。
思わず目を逸らした。
「ヒョン?」
「いや、その、何でもないから」
ちく。たく。進む時計の針に、早く朝食を作らなければという思いが掻き立てられる。このまま、こうして抱き合ったままでいたい、のだけれどそうもしていられない。
やんわりとジョンインを押し退けた。ひた、と後ろ足を踏み出したジョンインが困ったように口をつぐむ。
言って、やるべきだろうか。こんな風に心配してくれているのは恥ずかしくも、嬉しい。けれどもだからこそ、何だか余計に言い出しづらくなる。
苦笑いを浮かべた。
「ごはん、作らないと」
キッチンへと向かった足は、しかし、ジョンインによって阻まれた。
掴まれた腕。不意をつかれて引かれれば、いとも簡単に身体は傾いた。
背中にジョンインの温もりを感じた。そして脇を抱え込まれると首元からその体温がじんわりと染みてきた。
「あ、あ、あの
」
「俺がいますから」
耳腔が揺れる。いや、正確には俺の身体も揺れた。切なげに囁かれた言葉が、きゅう、と心臓を締め付けた。
「……何があったかなんて、言いたくないなら言わなくていいです。だけど
ただ、……」
俺は振り返った。言葉に窮したジョンインの顔が急に見たくなった。
けれど、目に入ったのは揺れている瞳。本当は俺に問いただしたくてたまらないのだろうか。
ジョンインの手がそっと頬へ触れた。
「そんな顔をされたら俺は、悲しいです」
「……
ジョン、イナ」
つい、目頭が熱くなった。純粋な心で、人を心配することが出来るジョンインが、どうにも愛しくて。
耐え切れず、俺は抱きついた。
「
ありがとう」
流れる涙を隠したかった。泣いているのはもはやたまねぎのせいなんかではない。幸せに膨らむこの胸が、こらえ切れずに弾けてしまったみたいだ。
ジョンインのスウェットが濡れていく。もう、と笑い声が聞こえた。ぐ、と涙を擦り付けてやる。そうして、顔を上げた。
笑っているジョンイン。少し高い位置にあったその顔へ手を伸ばして、かかとを浮かす。
「
、……ふふ」
軽いリップ音が部屋へ響いた。けれど、自分からキスをしたのが何だか恥ずかしくなって、くしゃくしゃとジョンインの前髪を掻き回した。
ジョンインが笑う。つられて、俺も笑う。
結局、その日ジョンインに涙の理由を話すことはなく、事は有耶無耶になってしまったのだけれどそれでもいい気がした。
ジョンインに抱き締めてもらいたくなったら、また、たまねぎを切ろうと思う。