欠陥人間 (KyungSoo)
ギョンスは身につけていたネックレスを外した。そしてじっくりと眺めると、確かめるように指でそっと触れた。先程までつけていたせいか、少し温もりを感じた。思わずため息がこぼれる。吐き出た小さな嘆息は白く変わって、やがてネックレスへと降りかかると消えていった。
これをもらってからというもの、毎日毎日つけていた。嬉しくて、幸せで、ふと首元に手をやるとわかる感触に心が温かくなった。だから、外そうなんて思いもしなかった。
手のひらでネックレスを幾度か転がす。すでに温かさは無くなっていた。
ギョンスはぐっと拳を握り締めた。そして、振りかぶったかと思えば、それを川へ、力強く振り下ろした。
辺りには申し訳程度の電灯しかないはずなのに、どこからか光を受けたそれはきらりと輝いて、闇へと消えていった。橋の上から放った思い出のネックレスは、いとも簡単に水の中へと姿をくらました。
これが定めなのだ。ぐっと唇を噛んだ。
同性愛だなんて。男として生まれたにも関わらず、同じ男に惹かれるだなんて生物学的に間違っていることなのだ。普通ではないのだ。そんな中で生まれた関係を、永遠だ、なんて言った囁きを信じた俺が、馬鹿だったのだ。わかっていたじゃないか。
この別れは、必然だ。
どうして嘆いたり、ましてや怒りに溺れる理由があるっていうんだ。
空になった掌をゆっくりと握った。ギョンスは目頭が熱くなるのを感じて、振り返ることもなくその場を立ち去ろうとしたが、背後から腕を掴まれて、その足を止められた。ギョンスが振り返ると、そこには自分と同じ歳ほどの青年がいた。眉をひそめ、その顔を睨んだがその男は何ともないといった顔で言った。
「捨ててしまってええんか?」
「……は?」
慣れない関西弁と馴れ馴れしい口調だった。ギョンスは掴まれた腕を振りほどいた。ほっといてくれ。という言葉すら口にするのも腹立たしいほどその男が無神経に思えた。
別に、赤の他人に心配されるほどじゃない。そんな気持ちを込めて一瞥して、ギョンスはまた歩き出した。男が慌てた。
「ちょ、待ちぃな! ごめんて! 怒らんといてーな!
……あのっ、俺のこと知らん?」
「知りません」
冷たい声で言い放ったギョンスに男が眉を曇らせた。そして盛大にため息をつくと、再度「知らんか」と言った。だが、ギョンスは思い切り無視をした。
「ひどいて……。おんなし大学通ってるやん……、そんでおんなし授業とってるやん……それも少数クラスの……」
ちらりと男を見ると嘘をついているようには見えなかった。それに、男の言う通り、どこかで見たことあるような気もしてきた。
「……何のようですか」
まあ仮にそうだとしても、大して交流もない人間にネックレスがどうだか、なんて聞かれたくもないし話したくもない。ギョンスは早くどっかに行けと思った。しかしその男は、反応を返したギョンスに嬉しくなったのか、にこにこと笑顔になった。
「あ、いやな! たまたま、見かけてん。そんで……前々から気になっててん! どんなひとかなて。せやから……、なんか捨ててたやん? 捨てる前にあんだけ愛おしそーに触ってたもんを捨ててしもていいんかなて、」
「
帰って下さい……!」
呆れの混じった怒声だった。ギョンスは足を止めて男をにらみつけていた。恋人と別れて、心がささくれていたせいもあったかもしれない。けれども普段のギョンスが声を荒げるようなことは滅多になかった。男が困ったように笑った。
その顔が、いくつかの記憶に重なった。似ている、とギョンスが拳を握った。
冷たくなった反応に見兼ねて言ってみた、別れようという言葉。本当は別れる気なんて全くなかった。しかしあいつはいい機会だとばかりに、実は、と告白をしてきた。すがるでも、止まるでもなく、俺を見送って。
結婚するんだ、だなんていったい、どういうことだよ。
ふつふつと消えかかっていた怒りが目の前の男によって再燃し始めた。心臓がむかむかしてきて、どこか痛みすら感じた。
「あなたが、たとえ同んなじ大学で同んなじ授業取ってていてそれが少数クラスであろうとッ、あなたには関係ないでしょう……! わたしの、個人的なことをお話する気はありません……帰って下さい、」
振り返ったあの瞬間、心のどこかで腕を掴んだのがあの人であることを願っていた。
ごめん、あんなの嘘だ、僕らもう一度やり直そう。なあギョンス
。そんな、声を待っていた。けれども、どうだ。実際掴んだのはどこの誰とも知らない変な男だった。
なんて、惨めなんだ。無意識に奥歯を噛み締めた。
ギョンスは再び身を翻して、冷え込んだ夜に姿を消した。残された男は、その姿を神妙な面持ちで見つめていた。
目を覚ますと、やけに頭が痛かった。頭を押さえて起き上がると、ふうんと香った自身の匂いに昨夜のヤケ酒を思い出した。ついため息が出た。重い体をベットから退かしたものの、自分が昨日の洋服のまま寝ていたことに気がついた。しかもコートまで着ている。重苦しいコートをベットへ投げつけ、再度深いため息をついたギョンスはシャワーを浴びにバスルームへ向かった。
袖を掴んで左の手、右の手、と腕を抜いていき、そうして服の裾を引っ張り上げる。冬の冷たい空気が体を包んだ。もう、冬なんだなあ、とぼんやり考えた。硬く締められたベルトに手をかけ、穴を突き通していた金属をゆっくり抜くと、そのままチャックへ手をかけてジーンズと一緒に下着を下ろした。
ふ、と鏡に視線がいった。そこへ映った自分の体に、ギョンスが唇を噛んだ。
白い体に赤く、てん、てん、と痣が残っていた。首、胸元、太もも、下腹部……。全部、先日までの営みでついたものだった。
あの頃は幸せだったなあ、とギョンスが自分を笑った。
シャワーの蛇口を捻った。熱いお湯が勢い良く降ってきた。冷え切った全身をあたたかく撫でていく。四肢のこわばりがじんわりとほどけていくように感じた。
ギョンスはふと昨日の男を思い返した。あの時掴まれた腕に、なんとなく触れる。
捨ててしまってええんか
? 脳内に男の声がこだました。そろり、と首に手をあてた。ネックレスはもちろん、なかった。
捨てたくなかったに、決まってるだろう。
そこにある手が、そのままゆるく首をくくっていく。
諦めたくなかったに、決まってるだろう。
無数に開く穴からは勢い良く水が溢れ、ギョンスに当たってはその体の上を滑らかに流れていった。滴り落ちて一箇所に消えていく無数の水たち。まなじりからこぼれ出たもう一つの水は、降り注ぐシャワーに混じって消えた。
するり、と首から手が離れた。ギョンスはしばらく熱い湯を浴び続けた。
「次の英文の解釈は、我々日本人にとっては非常に難しいのですが……」
好きな授業はずなのに、まるで耳に入ってこない。頬杖をついて、ギョンスは最後列の机に座っていた。わずかに遠いところで講義をする教授は椅子へ座りっぱなしで、相変わらず手の届く範囲にしか板書をしていなかった。ぼそぼそとしゃべるマイク越しの声は、あまりにしわがれていてある種、子守歌ようにもとれた。
うわの空、とはこういうことか。ギョンスは教授を眺めながらぼんやり思った。ちらほら、といる学生はほとんどが寝ている者ばかりだった。
なんだかめんどくさい、全てが、気だるい。今朝からついてばかりいるため息を、またひとつした。
そのとき、教授が背を向けている方の扉から、一人の男が顔を出した。わずかばかり視界の端に映ったそれを、ギョンスが何気無く見やった。
思わず、目が見開いた。
「あ、いつ……
」
扉から顔を出したのは他でもない、
忘れもしない、昨日の男だった。
うわ。思わず口から出たのはそんな言葉だった。気だるさに取り憑かれた身体は、もうあんな奴を相手する気すら残ってなかった。ギョンスの顔が曇る。
どうか、俺に気づきませんように。心の中で念仏のように何回も唱えて、顔を伏せた。
けれども、男はそろりそろりと泥棒が如く、音も立てずに講義室へ侵入し、そしてすぐにギョンスの姿に気がついた。男はにやり、と笑みを浮かべて、迷うことなくギョンスの座る場所へ走って行くと、そのままそこへ腰を下ろした。
男が満面の笑みでもって、ぽん、とギョンスの肩を叩いた。
「おにーいさんっ」
「……」
何がお兄さんだ。危惧していた予想がまんまと実現してしまったギョンスが呆れた顔で男を見た。
よっ、と言いながら手をひらひらさせていて少々いらっとした。昨日は夜だったから顔がよく見えなかったが、実におせっかいそうな顔だ、とギョンスは思った。眉間のしわに手を当てた。
「会って早々そんな顔せんでもええやん〜」
男が目を細め、唇を尖らせた。ギョンスは大きくため息をついた。
「そんな顔だってしたくなります……」
「あははは、なんでーなあー」
「はあ……? あなたに会ったからですよ……」
ギョンスが席を立った。すると、男も立ち上がった。
「……なんですか」
「俺、ジョンデ」
「……きいてませんよ」
「ふはは、ええやん。きいてくれよ」
とてつもない脱力感に襲われて、ギョンスは仕方なく膝を折った。何言ってもこいつはついてくる、と確信したからだった。
どうしてこうも俺に付きまとうんだ。訝しむようなギョンスの視線が何回も上下する。
けれども、男
ジョンデは満足げに腕を組むと、高らかに言い放った。
「友達になってくだ」
「断る」
「はや!」
言葉の端を聞き終わる前にすっくと立ち上がったギョンスに、ばっとジョンデが抱きついた。振りほどこうと体をひねったが、がっしりとホールドされた腕は固く絡み付いていた。
「ええやーーーーーん! 友達になってーなあー!」
「やだ、いやだ。話せ、この」
「なんでなん! どこが嫌なん! 俺悪いひとやないのに!」
「そういう、問題じゃ、ない、っ」
講義中ともあってさすがに大声でしゃべることもできず、小声でこそこそ話してはいるものの、男二人がこうも絡む様を見られたらと思うとギョンスは気が気ではなかった。
眉を寄せて抱きつくこの男が何をしたいのか、さっぱりわからない。
「離せったら」
「離したらどっか行くやん」
「行かないから、とりあえず、離せって」
「約束! 約束やで」
するり、とジョンデが離れていくと、先ほどまでの温もりがなくなったせいか、どこか胸がすぼまるような気持ちになった。そんな自分に気づいたギョンスが、はっとして頭をふった。
講義室はぼそぼそとしゃべる教授の声だけになった。
いつものギョンスならば、ジョンデの言うことなど聞かずにさっさとここを出て行っていた。しかし、なぜかそうする気にはなれなかった。にこにこと人懐こく笑うジョンデを、昨日のように無下に突き放せないと思った。
ギョンスは開いていた真っ白のノートをぱたり、と閉じ、ジョンデのほうへ向き直した。
「あのさ、なんなの」
「いや、だから。俺と友達になってくれ」
「なんでそうなるの。なんで俺なの」
「なんで? なんで……。理由は……、特にない」
「はあ?」
嘘でもいいからなんか考えろよ。俺なんかよりも面白いやつはいっぱいいるし、というか、もっとタイミング考えろよ。
ギョンスの気持ちを見透かしたかのようにジョンデがはっは、と笑う。
「あの夜な、自分でも知らんと、ハッ! って気ぃついたらもう声かけててん」
「……」
「なんでやろな。なんか運命感じたの」
「……運命なんて言葉、男に使うなよ……」
使っていいのは、俺みたいなやつだけだよ。ちらりとジョンデを見ると、それもそうかもな、と肩を揺らしていた。
俺が同性愛者だと知ったらこいつはどんな反応するのだろうか。ギョンスはそんな場面をぼうっと浮かべたが、どちらにせよ、めんどくさいことになると思った。
「でもな、昨日の今日でまたこうやって会えた。
やっぱ仲良うなっとかんと、て」
遠くの教授を見つめるジョンデは、つぶらな瞳で、よく見ると漆黒のまつ毛がくるりと上を向いている。誰が見ても見惚れるような顔ではないけれど、誰とでもすぐに仲良くなれそうな顔だった。
初めはいらいらとした声で返していたギョンスも、だんだんと彼のペースに取り込まれていって、それから、気がつけばしばらく他愛もない話をお互いしていた。
今朝感じていた気怠さはとっくのとうに消え、ジョンデのつまらないギャグでさえも、笑ってしまうギョンスがいた。
慣れない関西弁が、心地いい。
「ふっ、……」
「なに笑ってんのん」
「……べつに」
授業が終わると、ジョンデは思っていたよりもすんなりと別れて、次の授業へ行った。彼はどこまでもついてくる、とそんな風に思っていたせいか、彼の当然の態度がどこか冷たく感じた。