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幻影 (BaekHyun)




 夜が街を支配する。太陽の光が届かない冷えた暗闇。身体の感覚が、消えかけていた。

「コイツマジで男かよッ! まるで抵抗できねえでやんの!! ギャハハハハハ!!」

 コンクリートに囲まれた路地は下世話な男たちの笑い声ばかりが反響する。けれどもひどい鈍痛のせいで、ぴくりとも指は動かなかった。呼吸を繰り返すだけの身体は鉛のように重い。這いつくばる地面はまるで凍っているかのように冷たくて、図らずとも身が震う。街灯に形作られた男たちのシルエットは逆光で、揺れる視界はその黒い影たちが支配していた。卑劣な笑いと、靴を擦って歩く音だけが聞こえる。
 彼らに"見つかって"から、どれくらい時が過ぎたのだろうか。   寒い。寒い、けれど、殴られた部分だけがやけに熱かった。お金くらいなら無くなったっていい。ただ、こんなところで死にたくない。最悪のシナリオが頭をよぎった。

「オレらマジでストレス溜まっちゃってんの。ごめんだけど、今日のサンドバック役ね」
「アハハハハッ」

 首をつかまれて無理やりたたされ、ごほごほと情けなくえづいた。なんだって指がこんなにも重いんだ。足や手は寒さでかじかんで、感覚なんてとうになくなっていた。
 掴まれたの喉からひゅうひゅうと音が鳴る。やめて、と許しを請うことも出来なかった。鼓動を繰り返す心臓が警鐘のように感じた。
 やっちゃえよ。誰かが言った。それを聞いた男たちが笑って次々に囃したてる。
 黒い影の男が笑った。   来る……! 恐怖に喉が鳴り、ぶるぶると足が震えた。

 次の瞬間。目の前の影が動いた。
    軋む頭蓋骨。宙へ飛ぶ身体。ぐにゃり、と視界が歪んだ。一瞬、空を舞ったかと思うと、すぐに冷たいアスファルトに叩きつけられた。

「……っく、ぅうう……ぅう……う   !」

 衝撃が、奥底から内臓を押し潰してゆく。低く、長い呻き声が出た。男たちとけらけら笑い声を上げる。そして時折ハイタッチをする音が鼓膜を揺らした。

   、は、……あ、はあ、……あ。……く、……ぁっ   !!」

 込み上げる苦しさと、襲う痛みの波。顔が歪む。震える手で頭を抑えた。目玉が揺れ、ちかちかと視界に光が飛ぶ。
    痛い、痛い、……痛い、……!
 かっと燃えたように熱くなった身体からはぎしぎしという音が聞こえる。うまく呼吸が出来なかった。肺を動かしているのに、動かない。むせては息をしてみて、けれど上手くはいかずにまたむせる。舌へ広がるのは鉄の味だった。吐き気が込み上げて、双眸には涙が滲み出した。
 ごう、と凍てつくような風が吹く。
 「運が悪かったなあ」どこからか、声がした。それでも、不思議と怒りは沸いてこなかった。いま感じているのは、怒りなんて感情ではない。
 ただ、ただ、自分自身が情けなかった。
 滲み出した涙はついに双眸から溢れて、頬をつたった。

「うっわあー、泣いてやがる!」
「ママたちゅけて〜、ってか!?」
「情けねえ〜!」
「カスだな、マジで」
「愛嬌でもみせてみろよ、ホレホレ」

 男たちが口々に騒いだ。うるさい。そう言いたかったのに、息をするので必死だった。白く染まったもやがみっともなく纏わりつく。自分のことを強い男だとは思ってはいなかったけれど、こんなにも弱くて、非力だとは思わなかった。肺がきしむ。涙が伝っては、落ちていった。

 すると急に、顎をつかまれて、ぐいっと顔の向きを変えられた。視線の先には先ほどの男がいた。にたにたと薄気味悪い笑みを浮かべた顔が近づいてくる。

「つまんねえーなテメエ、ほんとに。なぁーんか面白いこと、しよーぜ?」
「…………ッ、……   !?」

 するり、と冷たい手が服へ滑り込み、肌を撫であげた。驚きに肩がはね、思わず、目を見開いた。
    なにを。
 開きかけた口から言葉は出なかった。男が低く、笑った。その顔は、至極下劣な顔をしていた。

「……や……め……、っ!」

 きゅっと突起をつままれ、そんな趣味など微塵もないのにびくり、と身体が反応した。ぞわりと何かが背筋を走る。男の汚れた歯が見えた。   気持ち、悪い、   ……!
 かたかたと音を立てて震える歯を必死に食いしばる。強く、目をつぶった。

 その、次の瞬間だった。

   !」

 それは一瞬の出来事だった。
 目を開けたとき、そこに男はいなかった。何が起こったのか理解できず、はたりと固まった。すると、そばでどさりと音がした。恐る恐るそちらへ首を回すと、さきほどの男がすっかり伸びきっていた。ごくり、とつばを飲みこんだ。
 誰かが叫ぶ声と拳が肉を打つ音がこだまする。どうやら、たくさんの影が蠢いているようだった。痛さに悲鳴を上げる体をなんとか起こして、音のするほうに目を凝らした。

「…………!」

 そこには、影が舞っていた。遠くの街灯をスクリーンにして、大きな影があちらこちらを飛び回っていた。シルエットの線は細くて、質量など持っていないかのように軽やかだった。先ほどまで自分を囲んでいた男たちも声をあげて向かっていくが、影は見事に攻撃をかわした。大きく開いた脚が力強く男を蹴り上げる。光に縁取られた影は輝いて、美しかった。

「…………す、……ごい……」

 少し変わった構えや蹴りをしていたが、それにしても、強かった。俺なんかじゃまるで歯も立たなかったのに、影はたった一人で立ち向かい、倒していく。鮮やかで、華麗な動きだった。素人目に見ても無駄や隙がないのがわかった。
 目元に残っていた涙を全て拭い取って、鼻をすすった。身体の底からむくむくと感動や憧れが湧き上がった。胸が高鳴る。なんてかっこいいんだ、と思った。

 夢中でその姿を追っていると、急に、ぴたり、と影の動きが止まった。光の中に立ち尽くすシルエットが光を遮る。突然止まってどうしたのか、と辺りを見回すと、すでに男たちはアスファルトに転がっていた。みんな、倒してしまったのか。
 影が再び動いた。影は何回か体を払うと、ぱん、と手を鳴らした。その乾いた音が小気味良く響いた。
 終了、とでも言いたいのだろうか。俺はしばらくその影を見つめた。けれども、ぼうっと眺めているうちに、影はそこから立ち去ろうとしていた。

「待って……   !!」

散々なぶられたはずなのに、気がつくと反射的に立ち上がっていた。引き止めるために思わず出た声が路地に反響する。影が背を向けたままぴたりと止まった。

「待って、ください……! あ、あの、ッ」

 ちゃんとしゃべりたいのに、うまく呂律が回らなかった。けれどもどうしても礼が言いたくて、体を引きずりながらも、影に近づいていった。

「男の癖に、情けないですよね……、あのままだったら、どうなってたか……」

 影は背の高い男で、金色の髪をふわりと風になびかせていた。どきどきと胸が高鳴る。情けない姿を見られた少々の恥ずかしさもあったが、それでも感謝と尊敬の思いのほうが勝っていた。
 本当に、このひとが現れなかったら、と思うとぞっとした。明日の朝には冷凍死体になっていただろう。自嘲をもらした。
 けれども男は一向にこちらを向こうともせず、何もじゃべらない。
 やはり、あきれているのだろうか。唇をかみ締める。けれどそれでもお礼を言わなければ、とその大きな後ろ姿を見つめた。

「あの、助けていただいて、」

 ありがとうございました、と感謝が続くはずの言葉を遮るように、男がこちらを振り返った。

   ぼく、助けてない」

 ゆっくりとした口調で男がしゃべった。ぱちりと目が合う。しかし俺には、何を思って、何を考えてそう言ったのかわからなかった。

「助けてないよ」

 逆光で顔が良く見えなかったが、男が笑っている気がした。眉をひそめて、俺は首を振った。

「でも、」

 しぃー。
 すうっと伸びてきた指が唇に押し当てられる。それは温かかった。はたと男の顔を窺うと、すぐにするどい狐目が俺を捕らえた。わずかに心臓が跳ねた。近づいてくるその顔は、ひどく整っていた。

   助けて、ないの。……わかった?」
「…………」

 妙な圧力に負けておもちゃのように何回もこくこくと頷くと、男は満足げに微笑んで離れていった。離れたせいでまたその顔は見えづらくなったが、暗がりの中で目だけがつやりと光っていた。背中がぞくりとした。初めてこんな人間に会った。
 すると、ごう、と冷たい風が吹き抜けてきて、あまりの強さに思わず目をつぶった。閉じかけの瞳に映った男はわずかに笑っていた気がした。
 目を開くと、そこにはすでに誰もいなかった。男は、消えていた。

「、……うそ……」

 先ほど確かにひとがいたところへ手を伸ばして握り締めた。けれど、開いた手のひらをいくら覗いてみても、やはり、空っぽだった。は、と顔を上げた。
 すでに風は止んでいた。
 ぷつり、と弦が切れたかのように膝が折れる。膝をついたアスファルトはまるで凍っているかのように冷たかった。




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