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ストップモーション (ChanYeol)




 心臓がどくりと脈打った。世界が止まった。ステージの上で歌っている彼の姿以外はすべてモノクロになった。それくらい、彼の歌声は俺にとって衝撃的なものだった。学校の体育館にある、ほんとにちんけなステージだったけれども、どんなドームやホールにも負けてないと思った。ライトに包まれ、滑らかにメロディを紡ぎ出してゆく彼の声に、姿に、その時の俺はただただ釘付けになるばかりだった。

「うんめぇー!」
 ホットドッグを豪快に頬張ったジョンデが、幸せそうに身体を震わせた。
「お弁当、ついてる」
 口の両端にケチャップがついていることを指摘してやると、ジョンデは目を見開き慌てて口を拭った。俺は、子供かよ、と突っ込みながら、安っぽい赤タータンチェックのテーブルクロスに置かれたトロピカルジュースを眺めた。甘ったるい、砂糖の味しかしないスカイブルーの液体。なんだかさっきから体に力が入らない。
 文化祭のときは俺とジョンデでこれでもかってくらい、色んなクラスの食べ物を制覇していくんだけれども、今は何故だかそんな気分じゃなくなっていた。開会式が行われたあとすぐワッフルや焼きそばを胃に収めた俺なのに、一体何故だ。
 無意識にため息がこぼれた。
 食べる手を止めて、ちらりとこちらへ目玉を動かしたジョンデがアヒルのように唇を突き出した。
「心ここにあらず、やね」
「え?」
「お前」
 何があったん。そう言って、ケチャップをつけまいと注意して大口開いたジョンデだが、残念なことにまた唇の右端についている。下手くそか。調子に乗ってケチャップかけ過ぎるからだよまったく。
 ジョンデの言葉に大した返答が返せず、俺はただうやむやな反応で唸った。
 なんでかな。全然、お腹空いてこないんだよね。
 甘いトロピカルを一気に吸い上げた。ごろごろとストローが音を立て、青いそれはあっという間になくなった。
「べつに何もないよ」
「あほか。食いもん食うてへんやん、お前が」
 ホットドッグに食いつくジョンデ。

「なんですか人を食いしん坊みたいに」
「はい? 何も間違ってませんけどぉ?」

そう言うジョンデの鼻にはマスタードがついている。

「あんだとこの! ジョンデのくせに!」
「お、やるかあ?」

くすくす笑ってファイティンポーズをとったジョンデのおでこを後ろに押した。首を後ろへ仰け反らせたあと、ジョンデは眉をハの字にしてその部分を抑えた。
正直、俺はあの余韻からまだ抜け出せずにいた。左胸に手を当ててみた。俺の左胸は至極静かだった。さっきの体育館に心臓を置いてきてしまったのかもしれない、と思った。まるで鼓動を感じない。あ、いや、生きてるんだから動いてはいるんだけど。先ほどまでの恋にも似た胸の高鳴りに比べたら、動いていないのと変わりない。
トロピカルジュースの蓋を開け、中の氷を二三、口へ放り込んだ。
やだ、俺いま思いの外テンションが変。
嘆息つきながら目の前の友人に視線を移すと、紙皿に乗るホットドッグの最後の一口を差し出してきた。ジョンデと目が合う。

「食え」
「……。ああーん」

少しばかり辺りを見回したあと、お言葉に甘えてかぶりついた。ジョンデが満足げに微笑んだ。俺もつられて笑ったら、指まで食うなや、とホットドッグで膨らんだ頬をはたかれた。
何度か咀嚼をすると、ケチャップの酸味とソーセージの脂の甘みとが口内で絡み合って、舌の上で絶妙な味を生み出した。食べ物って不思議。口に含んで、味わって、飲み込んでお腹に溜まる。それだけで心が軽くなる。まるで魔法のように。
気の優しい親友の鼻にいままでついていた、マスタードを何も言わずに拭った。はよ言わんかい、と怒られた。ふふ、という笑いでもって返して、俺は頬杖をついた。まだなんかあるんか、とひとしきり口の端を拭ったジョンデは、次に、俺が飲み干したトロピカルジュースの氷をがりがりと噛んで確信めいたように呟いた。

   ベッキョニ?」
「……」

ずばり言い当てられ、眉がぴくりと動く。

「図星! え、いや、乙女か!」

ジョンデが吹き出した。お腹を抱えて爆笑する親友に、だんだんと自分でも気恥ずかしくなってきた。じわじわと熱を帯び始める頬に、つい声を荒げた。

「だってー! 本当に、めっちゃ……心掴まれたの! これ、ほんと、真面目に……」
「うわあー! 顔真っ赤やで自分! やーい! ピュアボーイ!」

囃し立てるジョンデに思わず立ち上がったが、結局何も言い返せず、へなへなと座り込んだ。歌とかあんまし興味ないはずなんだけどな、と頭を抱えて机に倒れた。白光に縁取られ、歓声に包まれるあの姿。再び思い出してしまった俺はたまらず髪を掻いた。そんな姿には目もくれず、ジョンデは呑気に氷を噛み、ぼりぼりと音を鳴らした。

「ぞっこんやんなあ〜、きもいなあ〜。とうとう、お前も一目惚れか」
「何にやけてんだよ! ただ素直に! 感動したんです! 僕は!」

むくりと起き上がって反論をした。

「ちゅうか、なーんで今まで知らんかってん! おんなし学年やん!」
「いやー、俺バスケ少年じゃんー、あんまし他に興味ないじゃんー」
「ほざけ」
「ほんとほんと。いままでバスケと勉強とジョンデしか見えてなかったの」
「ほざけ」

けらけらとジョンデが腹を抱えた。しかし実際部活は忙しいし、勉強とかとの両立もしたいからその他のことに気を配るようなことをしたくなかった。恋愛もあんまり興味ないし、こんな生活も普通に幸せだ。
うんうん、と一人で頷いていると、ジョンデがなにやらポケットからごそごそ紙を取り出した。各クラスの出し物が書かれたパンフレットだった。丁寧に折りたたまれたそれを、彼は広げて机に置いた。

「次どこ行く?」
「んー……、お化け屋敷、全部行ったっけ」
「は!? また行くのぉ!? 勘弁してくれや……」

唇を歪めて思い切り嫌な顔をするジョンデに俺は笑顔で肩を叩いた。遊園地なんかにある本格的なやつではなくて、あくまでも学生が作ったものであるから所詮は幼子がびびる程度のやつだ。それなのにジョンデったら、高校生にもなってびびりまくってる! まだ入って一歩二歩しか進んでないところでもう叫び出すもんだから、おもしろくてしょうがない。想像以上に驚いてくれるので、逆にお化け役の子のほうがびびってしまったり、足がすくんで動けなくなって止む無く途中退場だとか……本当のこと言うと、そんなジョンデが見たくて行っているようなもんだ。
俺って嫌な奴、とほくそ笑んだ。

「お前あんなんじゃ彼女と遊園地行けないぞ!」
「うっさい、ほっとけはげ!」
「はげてないもん」
「鬼畜! 鬼! ヨーダ!」
「ああー!それ言っちゃうか!」

両手で顔を覆い、泣き真似をするジョンデの頭をくしゃくしゃに掻き回した。こういうところ、かわいくて好きだ。高校からの付き合いだけれど、そんなところがこうして仲良くなれた理由だと思う。

「あ、そや」

突然、両手を下げたジョンデは、何か思いついたような顔をしていた。

「せっかくやから、ベクんとこ行こうや」
「は」

ベク? お前、そんなに親しく呼んでるのか。俺はジョンデを見つめた。なめらかに紡がれたその羅列はジョンデと彼との関係を感じさせた。

「うーんと、203、203……お、喫茶店やて」

ジョンデは固まる俺に無視をくれ、場所を確認し始めた。どうやら本当に行く気らしい。

「無理無理無理無理!」

ジョンデの腕を掴んで、首を振った。冗談じゃない。俺の心臓が死ぬ。会うなんて考えるだけでめまいさえしてくる。

「無駄無駄無駄無駄」

ジョンデが俺の真似をしてゆっくりと首を振った。至極おだやかなほほえみだった。ざわざわと胸の辺りで何かが騒ぎ出す。俺の体に住む小人たちが警鐘をごんごんと鳴らしまくっている。俺は小さい子供のように駄々をこねた。

「もおおお、なんでそうなるの! ねえ、ほら考えてよ、ハッピーウィルスがこんなに乗り気じゃないんだよ?!」
「もう〜なにがやねん、ええやんか〜。お前と絶対、仲よくなれるて! すぐマブダチなるで。友達の友達は友達、ちゃうか?」
「いやいやただの知り合いでしょ! じゃなくて、べつに会いに行くことないじゃん!」

そうだ。べつに本当に惚れてしまったわけではないのだ。彼に惚れたのではなく、声に惚れたのだ。だから、いや……思わず目を伏せた。どっちにしろ同じことだった。
ジョンデは大きくため息をついて顔をうつむかせた。そして、しんみりとした口調でしゃべり始めた。

「なんでーな。ベクに会うの……そんな嫌なんか? 俺の大事な大事な親友が、同じく大事な大事な友達に興味持ってくれたらこっちも嬉しいやん。やろ、そうやない? この俺の気持ちわからんか? めっちゃ嬉しかってんで。誘って、あそこに連れてってよかったわ、って。だからお前とベクとを会わせて、二人が仲ようなったらこれほど嬉しいことないなあ、って思ってん。……なあ、チャニョラ。あかんか? こんなこと言う俺、嫌い?」
「いや、大好き……   はっ!」
「あっらあ〜?」

口を押さえてわざとらしくジョンデが笑った。時既に遅し、という言葉ほどいまの俺に当てはまるものはなかった。にっと笑うジョンデに、いまさら反抗する気持ちは起きるはずもないだろう。
友人に向けてのものではあるけれど、こうもストレートに好きだと言われると、人間、どうしても嬉しくなってしまうものだ。そこらへんをよくわかっているこの"悪い"男に、俺はただ白旗を振った。
ふふふ、とその嬉しさをこぼしたジョンデは実に幸せそうな顔をしていた。わんこに似ている。
まあ、いいか。

「きーまり! よっしゃあ、ありがとうなチャニョラ〜愛してるで〜」

キス顔で迫るジョンデの顔を挟んだ。ぶさいくになった顔に思わず吹き出しそうになるのをこらえた。俺は少々あきれつつ、降参するように頬を緩める。

「愛嬌ふりまくなよな、俺に、まったく」
「へへへ。お口はミッフィーやで。はよ行こ」
「ちょ、おま、」

ジョンデはつくづく行動がはやかった。俺は目をしばたかせ、慌てて、先に行ってしまったジョンデを追いかけた。
だけど、いま行って、一体、俺はどんな顔をして会えばいいんだよ。廊下を走りながらふと思った。一瞬でファンになった俺は彼を見た瞬間きっと、アイドルに出会った少女さながら発狂もしくは固まってしまうに違いない。ああどうしよう、と一人で百面相をしていたら、いつの間にか隣りにいたジョンデに挙動不審だと心配された。
お前にはわからないだろうな! 突然マイケルジョーダンに会うみたいなもんなんだぞ!
無言で見下ろして訴えかけると、どう受け取ったのか、ジョンデはハの字眉で笑った。

「そんな緊張するようなひとやないで?」

パンフレットと現在地を見比べつつ、ジョンデがいとも簡単そうに言った。全然わかってないなあ。

「俺にとってはマイケルジョーダンに会うみたいなもんなの! そんでもってお前にとっては、たぶん、マイケルジャクソンに会うみたいなもん!」
「え、俺マイケルジャクソンと友達やったんか、えっ、俺すごない」
「……」
「なんやの」
「……ていうか、お前本当に友達なの?」
「は?」

太目の眉毛が動いて、眉間にしわを作った。俺の言った言葉の意図がわからない、という顔をしていた。

「いやベ、ベク……ベクって、さっき」

慣れない新しい響きにうまく舌が回らない。ジョンデはまたため息をついて立ち止まると食い気味に俺を見上げた。

「そんなん!」

俺の顔をしばらく見たあと、ふっと意味ありげにジョンデが笑った。何でいま笑われたんだ。立ち止まらせていた歩みを再び始めて、ジョンデは答えた。

「そんなん、もちやろ! ほんまに、もちの、ろんやで! だからさっき演奏見に行ったやんか! あんなあ、今朝誘ったときにもそう言ったで、わし」
「そう、だったっけ」
「ボケボケやな」

小馬鹿にするように鼻で笑ったジョンデの尻を叩いた。少し、今朝一緒に登校して来たときのことを思い返してみた。そういえば、俺の友達がー……、とかそんなこと言っていたような気が、しないでもない。
一年付き合ってて、ジョンデの交友関係を網羅できていないなんて……。少々のショックを抱えながら、ジョンデの後ろを歩く。
それにしてもジョンデがあのひとと友達だったなんて。あの、ジョンデが。

「漏れてんで、心の声、漏れてんで」

俺はあんぐりと開いた口を閉じられなかった。
ジョンデが俺の肩に手を置いた。

「何度か見たことあるはずやろ、俺とベク、おんなし合唱部」
「……いや、知らない……。見た覚えがない……」

ジョンデと仲良くなってから何度か部室へ行ったことはあるけれど、申し訳ないくらいにまるで記憶にない。もしかして幽霊部員じゃないの、と聞いてみたら、まあまあ真面目な子やで、とたしなめられた。
ていうか、合唱部なのに軽音楽部のやつに出てたけど、それはいいのだろうか。そんなゆるい感じなの、そこらへん。
合唱部だから、なんか、賛美歌とか、それこそオペラとか合唱曲とかしか歌いません、とさえ思っていたのに。
彼の歌はジョンデの歌を初めて聴いたときとよく似ていた。

「はああ。まったく、お前は節穴か」

やれやれといった感じでコメディ映画のアメリカ人さながら、ジョンデが肩をすくめてみせた。なにやら得意げに言い放った彼に対し「俺は節穴ではないよ。目は節穴かもしれないけど」と同じ動作でもってかえした。ジョンデはしらっとした目でこちらを見返したあと、無言で俺の尻を叩いた。


客引きする仮装姿の売り子たちやフランクフルトを頬張り食べ歩きをする生徒たちの間をすり抜けて行った先、急にジョンデが立ち止まった。
ここや、と指差した教室には"203HR"と書かれていた。
へえ、203HRなんだ。本当に同じ学年だったのか。ふうん、といった感じでクラスの飾り付けを眺めた。どうやらコンセプトはメイド喫茶らしい。入り口ではかわいい女の子がメイド服姿で受け付けをしていた。

「すまんな、ベクおる?」

教室をちらりと覗きながら、ジョンデが受け付けの女の子に話しかけた。女の子は少し考える素振りを見せたあと、なにやら笑みを浮かべて「いまの時間は客引きしてるよ」と教えてくれた。

「ほんま? ありがとな。   ほらチャニョラ、行くで」

ジョンデはこの教室に彼がいないことがわかると、すぐに引き返してきた。ぼうっと飾り付けを見ていた俺の腕をがっちりと抱え、校門で客引きをしているらしい彼のもとへ強引に連れて行こうとする。

「いやいや! あの、いや、なんか俺がすっごい会いたいみたいに、」
「あん?」

ジョンデは顎突き出して、しかし、歩みは止めずに振り返った。その形相にややひるむ。ジョンデは言葉では言い表しづらい顔をしていた。

「いや、その、だから」

なんでもないです。結局に気迫に負けて、消え入るような声で俺はつぶやいた。力の限り引っ張られる体に抵抗もできずただただ彼に我が身を任せた。こうとなったら腹をくくらなければ。友達の友達は友達、そう、みんな友達。仲良しこよしで大団円、ハッピーエンド。深くうなづき、深く深呼吸をした。

「いつまでもほうけたような辛気臭い顔されてた俺の、せめてもの倍返しや! 百倍返しや! 返事!」
「うぃー!」


俺より小さな巨人に連れられて、階段を駆け下りた。そうして、とうとう校舎から出てしまった。入り口の校門に着くとそこはいい匂いがあちこちからやってきて、俺の鼻腔をくすぐった。焼きそばの甘酸っぱいソースがじゅわりと焦げる匂い、ワッフルの生地が熱されて、ふわりとあふれさせる甘い甘い匂い、出店の食べ物屋さんからはそれだけでお腹が空いてしまいそうな、おいしい匂いがばら撒かれていた。
けれども、いまの俺にはそんなものまるで効果無しだった。なにせ、これから"マイケル"に会いに行くのだから。

ジョンデが言うには、先ほどクラスの子が彼が校門にいるということを教えてくれたというのだが、校門はなかなかの人だかりだった。ジョンデと俺と、きょろきょろと辺りに視線を動かしてみるのだが、なかなか簡単に彼らしき姿が見つけられそうもなかった。

「売り子、めっさおるなあ」

校門は賑やかだった。人が多いのもそうだけれど、客引きをする生徒たちの楽しそうな声もあって、一種のお祭りのようだった。まあ、もともと文化"祭"なんだけども。
人々の間をすり抜けながら、売り子もなかなか大変だなと思った。単に看板を持ってお客さんに声をかける売り子もいたが、中には着ぐるみをまとい、首から宣伝プレートを下げているものや、裸で暑苦しく「どうスかぁー!!」とお客さんにアピールをする男子生徒もいた。そんな人たちを見て宣伝の担当にならなくて良かったと感じつつも、やはり、どこかそこに青春のにおいを感じてしまって、うらやましさに胸が詰まった。

「うわあー、めっちゃ楽しそう、やっぱ売り子やっときゃ良かったなあ〜」

ジョンデがぶつぶつ独り言を言いながら、彼を探す。うちのクラスは記念撮影ブースだから、背景のパネルだったり絵だったりを準備するのが役割だった俺やジョンデはもう何も手伝うことが無かった。楽だからとそれにしたのが間違いだったな。と、いまさらながらに後悔をし始めても意味は無かった。

「もうさあ、あきらめよー」

背の高い俺でも見つからないことに少し痺れを切らし、かわいくごねてみたが、ジョンデはそれを華麗にスルーをした。ぷっと頬を膨らませていじける。そこまでするほどかとさえ思うが、逆にここまでしてくれるジョンデは優しいやつだなとも思った。

「ああんどこいってん〜……着ぐるみのうさぎは301のひとやし、裸のひとは絶対ベクやないし、ほんまにあの子ったら一体……」
「たぶんさ、あれでしょ、行き違いとかじゃないの? 縁が無かったんだよ、俺とベ   ベ、ベッキョン」

あやうく、ベク、と馴れ馴れしく呼んでしまいそうになった自身の口に驚いた。俺はもしかしたら、かなり、危険な状態かもしれない。
あんなほんの数分で、俺の何が変わったっていうんだ。同姓の、同い年。そんな男に会うという、ただそれだけのことにこれほど騒ぎ立てる自分はなんなんだ。にこりと笑っていた彼の笑顔が、何だというのだ。いったいどうしたんだ俺は。
左胸に手を当てて、眉をひそめる。するとそのとき突然ジョンデが隣で奇声をあげた。

   えっ!! あれまっ、おった!!! きゃあ〜!!!」
「えっ、」

誰かを指差して大声で叫んだかと思えば、ジョンデはまるで風が如く、颯爽とその元へ消えていた。別の方向を向いて気を抜いていた俺が振り返ったときにはすでにもう、彼は遠くのほうに移動していた。目を凝らしてそちらを凝視すると、ジョンデはメイド服を着た女の子とギャルサーを着た男をばしばし叩いて笑っていた。
無意識につばを飲み込んだ。ごくりと喉が鳴った。
目を閉じて、深呼吸をする。
女子の叫び声にも似た甲高い声援   、男子たちの囃し立てる声   
そんな猥雑な空間を切り裂く甘く艶やかな歌   ……、先ほどの記憶は鮮明に蘇った。
記憶のなかでステージに立つ名も知らぬ彼は相変わらず楽しそうにマイクを握り、目を細めながら満面の笑みで歌を歌う。よくわからないけれど、胸が高鳴った。
思い出しただけでも手のひらから少し汗すらにじんできていて、よくわからないけれど武者震いがした。我ながらかなり興奮しているらしいと気づいた。
開いたり閉じたりを繰り返してその手を見つめると、自然と頬がほころんだ。
文化祭。軽音楽なんてあんまり興味なくって正直一年生のころは一度も見に行かなかったけれど、そんな食わず嫌いだった過去の自分に張り手を食らわしてやりたい。去年の文化祭、といわれても、お化け屋敷で爆笑したり、焼きそばを頬張る自分しか思い出せなかった。それはそれでおもしろいかったけれど、その頃に出会っていたならば、いまのジョンデと彼のように、俺も彼と   ベッキョンと、友達になれていたのだろうか、と思った。

「うっし!」

人混みに紛れつつ、ジョンデがこちらを振り返って大きく手を降っている。チャニョラアー、と呑気に呼ぶ"奴"はこの俺の謎の緊張を知らないのだろう。
バスケの試合と同じくらい、いや少し上回るかもしれない足の震えが、俺の心臓を更に鼓動させていた。


相変わらず多い人の波をかき分けて段々とその姿が近くなるにつれて、俺の眉間にしわが寄っていく。え、どういうことだ   。メイドさんとギャルサーに挟まれているジョンデに目をやるとやけににやにやとした笑みを浮かべていた。

   やっと来たか! ……ベク、タオ! こいつが、パクチャニョル!」

俺は驚きのあまり声すら出てこなかった。というか、むしろ、息さえ止まった。
疑問符が頭で乱立する。どういうこと、とジョンデを見ることしか俺はできなかった。
それは、ジョンデがギャルサーに向かってベク、と言ったのではなかったからだ。
   ジョンデは確かにきっぱりと、メイドに向かってベク、ギャルサーに向かってタオ、と言ったのだ。

ギャルサーはいたって普通の背の高いイケメンで、そしてこれまた普通に黒と白のYシャツのギャルサーだった。
けれども隣り   視線を移した先の彼は、ピンクと白のフリルのメイド服を着ていた。華奢な体をしていて、すごく似合っていると思った。すらりとした脚。その脚には太ももまでを覆うニーハイとガーターベルトがちらりと覗いていた。ふわふわとカールがかかる髪の毛には、フリルとリボンのカチューシャ。
そう、彼はどこからどう見ても、れっきとした女の子だった。
いったい、これはどういうことだ   

内心狼狽しまくって固まっている俺を知ってか知らずか、メイドとギャルサーは軽くお辞儀をして自己紹介をした。

「あ、ベッキョンです」「タオでーす」

間違ってなかった。やはり、メイドの子がベッキョンと言った。ジョンデが俺を見てにっと笑った。その視線を追って、二人が俺へ視線を動かした。三人の目、計六個もの目が俺を見ていた。だがそれに合わせることもできず俺はただ、自分でもよくわからない、謎の空間見ていた。
人間って驚くと目が点になるって言うけれど、それ、ほんとなんだな、と思った。

「さ、チャニョラ、お前も自己紹介……、うっわぁー! あかん、こいつブレーカー落ちとるー!」

ジョンデが二人の間から飛び出しきて、立ち尽くす俺の体を爆笑しながら揺さぶった。ぐわんぐわん揺れる俺の頭。ステージで輝いていた彼との感動の対面。のはずが、彼は、彼女だった   
極度の緊張が、目前の更なる衝撃の光景によってぐちゃぐちゃに崩れ、ついに俺の脳みそは処理が追いつかずショートした。ジョンデの言う通り、ブレーカーが落ちてしまったように完全にブラックアウトしてしまったのだ。そう、もう、なんだかよくわからなくなった。俺はいまどんな顔をしているんだろうか、ちゃんと、息は吸えているのだろうか、心臓は動いてるんだろうか。俺ちゃんと立ってる?
すべての感覚というものが消滅したような気がした。ここはどこ、俺は誰、いま何の時間? ケチャップまみれでワッフルに挟まれたまま、焼きそばの波に埋もれて消えたいよ。
意味の通らない単語を並べ出し、どんどん狂いだす俺の思考回路を正そうと、ジョンデが俺の背中をばしばしと叩いた。

「起きろ〜」
「……なにこのひと、やばくない?」

ギャルサー、タオがいぶかしんで顔をゆがめた。ジョンデは叩いていた手を休めて、首を振った。

「色々あったんよ、こいつにも。たぶんなんかが衝撃過ぎて処理落ち起こしただけや。まあ大目に見てあげてな」
「衝撃? 処理落ち? ……ソコギのせい?」
「えっ、まじ? なんでよ、そんな?」

タオははてなを頭上に浮かべながらベッキョンを見つめた。ソコギと呼ばれたメイド、ベッキョンはタオと視線を合わせると、目を丸くさせた。ジョンデが首を傾けて、いたずらっぽく笑った。

「うーん、知らんけど、ベッキョニがかわいすぎてやろ」
「もお〜ジョンデ〜そういうのやめろよ〜」
「ええー、ちょっとー、僕のソコギに色目使わないでよー。ソコギもそんな嬉しそうな顔しないでよー」

仲良さげに話しをする姿に、俺は徐々に現実の状態を把握していった。巻き忘れていた懐中時計のねじを巻きだしたように、止まっていた歯車が、かちり、かちり、と動き始めた。
なんだ、ベッキョンって女の子だったのか。ああ、そうなんだ。そうだよ、なんだよ。あの時男に見えたのはブレザー着てたからだよ。最近そういうのよくあるじゃないか、ちょっと遠いところから見てたから気づかなかっただけじゃないか。あの短髪はウィッグだったんだよ、凝ってるな、そこまでちゃんとするのか。ああもう、たったそれだけじゃないか。なあ? そんなことだったんだよ。まったくどこに驚く理由があるんだよ、なあ、ほんと。よかったじゃないか。
ゆっくり自分の中で紐解いていって、それぞれにいちいち頷いた。それらを反芻することで俺はだんだんと笑顔になっていく。しかし、はて、と首をかしげた。   ん? 何がいいんだ?

ジョンデが再びばしんと俺を叩いた。喉につかえていたものが無くなかったように、肺へなだらかに空気が染み渡った。はっと我に返った。

「あっ、パク、チャニョルです、」

再起動を始めた脳みそで何とか言葉を発した。いつのまにか乾いていた口のせいで、若干噛んだ。どぎまぎとしたまま、お辞儀をした。

「ぷ、くくく、」

俺の渾身のお辞儀を見るなり、ジョンデが体を折り曲げて笑った。その双眸にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。なんだよなにがおかしい。俺はジョンデをじとり、と睨んだ。
メイドの、ソコギと呼ばれていたベッキョンさんはそんなジョンデの腰を優しくさすった。

「なに、ジョンデ、なんで笑ってんの」
「ジョンデきもーい」

優しい声で尋ねた彼女に重ねて、タオがけらけらと肩を揺らした。ジョンデをさするその手が気になった。ほっそりとした長い指に、白い手のひら。ジョンデはひーひーと色気も無く笑い続けていた。

「おい、ジョンデ、なんだよ」

答えを渋られた子供のように、少しいらいらとしながら詰め寄った。ちらりと見上げて、体を伸ばし、何かを言いかけようとするが、俺の顔を見るなり再びジョンデは吹き出してしまった。つばが顔にかかった。
とうとうむかついた俺はジョンデに殴りかかった。

「くく……や、やめ、まじお前……、その顔やめ……くくく!」
「変な顔で悪かったなこの、早く言いなさい、気になるでしょうが、この」
「いたっ、痛いです! イケメンです! ヨーダみたいだなんて誰も思ってないです!    ごめごめごめ、っくく、いまの嘘やん! 冗談やん! ちょ……っ、ベクかタオ、この子とめて……!」
「やだ」

ベッキョンとタオの乾いた声が重なり、響いた。二人ともしらっとした目でやり取りを見ていた。

「あうっ痛い! あはは、チャン、チャンヨルさん痛いです! くくく、マジたんま、あ、ほら言うから! あはははは! ……ふふふっ、やめてください! ごめんなさい!」

降参の言葉を聞いて、俺は両手を素直に下ろした。さあ話してみろ、と頬を膨らませて、腕を組む。周りの人たちの視線を受けながら、ジョンデはまなじりの涙を拭ってゆっくり深呼吸を繰り返した。タオがジョンデの頭を撫でた。しばらくして落ち着いてきたジョンデはタオにお礼を言ったあと、あごに手を当てながら唸った。

「ええっと、なんて言おうかな。うーん……。あっ、ベッキョナ」
「ん?」

ジョンデはふいに振り返って名前を呼んだ。名前を呼ばれたベッキョンは鈴のような声で返事した。

「俺ら、ベッキョンを探しててん」
「え?」
「さっき、体育館行ってさ、お前のライブ、こいつと見てきてん」

腰をぐいっと引き寄せられた。

「うわ、ほんと?」
「おお、ほんとほんと」
「ソコギ、歌うまかったよお〜お」

タオが頬に手を当てて飛びはねた。彼もライブを見ていたらしい。変なイントネーションでその感動を表した。ちらり、となんとなくベッキョンを見たら、ちょうど視線がぶつかった。俺はすぐに目を逸らした。ジョンデは勢い良く口を開いた。

「ほんでほんで、ほんでな! こいつ! チャニョルやねんけど! ベクの歌聴いて、め……っちゃ、感動してん!!」
   ちょっ、」
「え?」

俺の腰を抱く男の顔をばっと覗き込んだ。つま先から頭まで、一気に体が熱くなった。待て待て待て、そんなこと言わなくてもいいでしょ! にやにや笑うジョンデからはその意図がまったく読めなかった。ベッキョンは口をぽかんと開けていた。
待ってましたと言わんばかりの形相で、ジョンデが身を乗り出してまくし立てた。

「そやからそのあとは何してても上の空! いつもばくばくゴリラみたいにごはんむさぼるこいつが、ついにはホットドックも食べずにトロピカルジュースなんて飲んでてんでっ。俺が話しかけても無視するし、ケチャップをつけた俺を笑いもせんと『お弁当ついてる』とか優男気取りでほざきよって。というかそもそもお弁当て言い方なんなん!? 普通にケチャップやろおー?! お弁当なんて言い方せんと、ついてるよ、とかだけでええやん!? なんなん、お弁当ついてるよて!! ほんま、せやから、俺だんだんいらっいらっしてもうて」
「だから、ソコギに会いにきたの?」
「せやで」
「……、……」
「ふーん……」

いまの会話のなかで、俺はあまりの恥ずかしさにただただ己の口を固く結ぶばかりだった。俺はいまなら死ねると思った。ベッキョンが俺を見ている、そんな気がしたけれど、どんな顔をして見ているのかを確かめる勇気はなかった。
俺はどうにでもなれと天を仰いだ。そのまま、ジョンデのおしゃべりは続いた。

「ほんでなこいつ俺の友達やからな、お前ともすぐ仲良うなれるって思って連れて来てみたけど、どう?」
「おもしろい人そうだよ、ソコギ。友達になってあげたら?」
「あら、タオも気に入ったん?」
「いや、本人目の前に友達になれないなんて言えないでしょうが。……でも、あんな歌で感動してくれたなんて、ちょっと恥ずかしいけど、出た甲斐あったなあ。すっごく嬉しいよ」

ベッキョンが頬を赤らめながら(俺の目にはそう見えた)、頭をかいた。そして、「ありがとう」と俺に言った。俺を見ながら、俺に。
もう内心、「きゃあー!」と叫びたくなるほど、心がむずむずした。俺の体に住む小人はいまお祭り騒ぎをしている。
タオはちらちら俺やベッキョンを見ながらなにやら、おおー、とつぶやいてみせたが、何かにひっかかったのか、眉を寄せて尋ねた。

「うーん、え、それだけなの? ジョンデってそれだけで笑ってたわけ?」
「え?」
「ジョンデ、程度低くない?」
「ちょ、おま、ひど」

言われてみれば、確かに。タオの的確な指摘に、ジョンデへ視線が集まった。まあ、そりゃあ、ベッキョンを目の前にして戸惑う俺がおもしろいっちゃおもしろかったんだろうけれど、あそこまで爆笑するほどではないだろう。ベッキョンも、うんうん、と頷いていた。ジョンデはあわてて両手を振りながら「続きがあんねん!」と言って話を切り出した。

「ええええっとー、まあ……なんだかんだありましたー、ほんで、こうしてベク見つけましたー、ついにチャニョルは自身のハートを射止めた人物と会えましたー」
「あー、まあ、そうだね」

至極てきとうな調子で返したベッキョンが俺を見上げた。俺はそれを受け止めきれず目を逸らした。視線を逸らした先にはタオがいた。きりっとした猫目が俺を射抜く。なんとなく、緊張した。
ジョンデはベッキョンのつま先から段々に視線を上げて、それが頭までたどり着くと、彼女の瞳を見つめて言った。

「ベク、タオと売り子やってるやんかあ」
「ああうん、まあね。タオとは学年もホームルーム違うけど、タオいると女の子の反応いいからさ、頼んだの」
「えっソコギそれって俺がかっこいいってこと? えっねえねえ、そういうこと?」

彼は空気を読まない性格なのだろうか。読めないというよりは、むしろ逆に、意図的にそうしてるような気がした。
ベッキョンやジョンデは無言で彼を見つめると、話に戻っていった。

「で……、お前なんでそんな格好してんのん」
「は? なんでって……」
「ちょっとおー、ねえねえ、無視しないで〜」

ジョンデは腕組みをしながらベッキョンに尋ねた。なんだか、彼氏みたいな口調だった。そこにいちいち反応する俺も俺だが、ベッキョンはそんなジョンデの質問へもいたって普通に考えている素振りをみせた。しかし相変わらず無視をされるタオが泣きそうな顔で俯いた。彼がかわいそうだけれど、そんなタオに再度無視をくれたベッキョンに思わず、すげー、と思った。明らかに手馴れていた。俺は賞賛の意味もこめて、タオの背中をさすった。タオが、ありがと、と顔を歪めた。
ベッキョンは自分の着ているメイド服の裾を少し持ち上げて、食い気味に主張した。

「できればしたくなかったよ! こんな格好! 母さんに見つかったら、もうたぶん死ねるね」
「えっ、まじそうなん? なんか、案外乗り気かと思った」けらけらと軽快にジョンデが笑った。
「馬鹿言え。クラスの女子たちが強引に着せたんだよ、ほんと……」ベッキョンは顔を両手で覆った。
「いや、にしても……妙に気合入ってんとちゃう?」

ジョンデがまじまじとベッキョンを眺めた。ベッキョンが頷く。俺も頷く。そんじょそこらのアイドルなんかよりもかわいいと思ったからだ。

「まじで、ほんとそれ。ご丁寧にさ、ほら、ガーターベルトまで……」

ベッキョンがため息をついた。そして突然スカートをちらりとめくってみせた。新しいラジコン買ったんだぜ、と自慢するスネ夫のような、あるいは、わたしは目玉焼きにはしょうゆをかけるの、といった何の変哲も無い事を言うかのようなトーンで、彼女はスカートをめくってみせたのだ。
露わになったつやりとした白肌が、目に、飛び込んだ。

「え、ちょっ!」そう叫んだ俺は、思わず、自分の顔を叩く勢いで視界を遮った。なに、この子! なにそんな普通ですよ、みたいな感じで見せてんだよ!
無意識に体が熱くなるのを感じた。
いやていうか、なに普通にお前ら見てんだよ!

ベッキョンやタオはとても不思議そうな顔をして俺を見つめていた。加えてジョンデは俺を見て目を閉じ、やれやれと肩をすくめてみせた。
そんな三人の様子を見て不審に感じた俺は恐る恐る視界を遮っていた手をおろした。いったい、なんの真似だ。そう疑問に思ったのもつかの間だった。次の瞬間、ジョンデは勢いよくベッキョンに抱きついていた。   な、なにを。

   お、おおお、まえ!」

なにしてんだよ! 思わず声を荒げた。けれどもひどく動揺する俺に反して抱きつかれたベッキョンは、何ともない、こんなの日常ですよ、というような顔でまったく微動だにしていなかった。むしろ急に叫んだ俺に驚いていた。
二人はそれほどまでの仲だったのか。呆然と彼女を見つめた。ジョンデからは友達としか聞いていなかったから、俺は、いや、……そんなまさか。胸に手を当てた。待ってくれよ、呼吸が苦しい。突然のジョンデの行動はいとも簡単に俺を狂わせた。

さらに、もうなに急に、と、とても落ち着いた声でジョンデに聞いたベッキョンに、俺は五百くらいのダメージを食らったと思う。残りのライフもたぶんあと半分かな。自嘲気味に笑った。
なんかい俺を驚かせば気が済むのだ、ジョンデは。じっくりこちらを伺うような目で見てくる友人をはなはだ腹立たしく思った。まあ、けれど一先ず息を整えよう、と深呼吸するも、「ずるーい」と言ってベッキョンに抱きついたタオによって、それははばかられた。

「ちょっと、タオまで」

心臓が、これでもか、というくらい跳ねあがった。それこそ、胸いっぱいに膨張してるんじゃないか、と思うくらい俺は苦しくなった。
再度受けた改心の一撃にへなへなと脚の力が抜けていく。かろうじて残った体力ゲージは赤色へ変わり、おそらく、俺にこのままだと死ぬぞ、という点滅を繰り返していることだろう。それでも、座り込むまいとして立っているのが俺には精一杯だった。

「おー、まいがー……!」

天から金タライがおとされたのではないだろうかという衝撃だった。やはり、あのとき、あの瞬間、俺はベッキョンに恋してしまっていたのかもしれなかった。初恋は実らないという言葉に対して、俺は実らせてみせるぜとふてぶてしく鼻をすすった俺に同情を送ろう。初恋は実らないみたいだぜ、チャニョル。歓喜に沸いていた数秒前までの自分の気持ちを返せ、と俺は思った。

「…………」

目の前の三人が目をぱちくりとさせた。まだ何かあるのか、まだお前らのターンか。俺はそんな三人を見て同じく、瞬きを繰り返した。しかし、しばらく彼らを見つめていると俺は、なにやら俺と三人との間に妙な空気があることに気がついた。何かを取り違えている。そう思った。
ジョンデが「やっぱりかあ」と小さな声で言った。眉がピクリと動く。俺はその言葉に目を細めてその言葉の裏を探そうとした。しかし俺よりも先にタオが、あー! という声を上げて、ベッキョンを指差した。謎が解けた名探偵さながら得意げな顔をしていた。白い歯がきらりといたづらに光る。けれど指を差された当の本人はわけがわからない、と交互に左右を見た。いや、俺もさっぱりなんのこっちゃわからないよ。
ジョンデが唇をところどころで噛みながら、言いづらそうに口を開いた。

「……あんな、その、えっと、チャニョラ、」
「ソコギは男だよ!」

もごもごと言いごもるジョンデについに耐え切れなかったのか、なにやら言葉を言いかけていた彼の言葉を遮って、タオは高らかにそう言い放った。
俺の頭上にまた、金タライが落ちてきた。
どんでん返し。ちゃぶ台返し。せっかく整理した俺の頭の中の情報は無常にも再びくつがえされた。俺は底の見えない奈落へと真っ逆さまに落ちていくアリスのような気分だ。
ステージで輝いていたベッキョンという名前の彼に一瞬で落ちた俺。ざわざわとした空気を細く力強く切り裂く声。宝物を見つけたような子供のように胸が高鳴って、うわあ、凄い奴がいる! と目を輝かせていたのに。彼は、彼女で。完璧な女の子の格好をしてて。えっ、そっち? そっちだったの? だなんて本当に困惑しちゃって、でもなんかよかったかもなんてどっかでそれを喜んじゃってて。
でも実際   彼女はやっぱり彼だった。彼は彼女だったけれど、やはり彼女は彼だったわけで。
じゃあ内心喜んでいた俺はなんなんだ? となるだろう。生まれてこのかた数十年、まだ恋心すら抱いたことすらない俺なのに、ようやく、やっとできた恋かと思いきや、俺は同性に恋をしたのか、と。嬉しいような、そんな自分が自分でも信じられなくて、受け入れ難くて、だけど相変わらずどきどきいってる心臓に判断が鈍るんだ。
風が吹いている。きっといま、まだタオが彼女が男だということ言ってから一秒も経っていないかもしれない。呆然と立ち尽くすしかできない俺の目の前の光景はモノクロで、本当にゆっくりゆっくりとしか動いてくれていない。

今日は、なんて日だ。
色のない世界に立ち尽くしながら、それでも視線がいくのは他でもない、ベッキョンだった。
女の子、だけれども、生物学的には男。いや、最初から男だった。俺は、心のどこかで彼が女であることを望んでいたのかもしれない。だからこそ困惑しつつも頭の中で強引に彼の男らしさに目をつぶってしまったのだった。
しかし、いったい、この敗北感は何なのだろう。

「メンタル、崩壊……だぜ」

今度の攻撃でついに俺の体力はついにゲージがゼロになった。こうかはばつぐんだ。そんなゲームの言葉がぴったりだ。俺は地面に膝を着いた。道を行く人たちの視線が少し痛い。ジョンデが俺をなだめてくれたが、さっきまで爆笑していた人間の声は俺には届かない。どうせならタオのように潔く豪快に笑ってほしかった。
ぼやける視界のなか、ベッキョンを女だと勘違いし、あまつさえ声まで荒らげて反応した自分を心底、後悔した。普通に、何でいまのいままで気づかなかったのか不思議なのだが、ベッキョンの声はどう聴いても女の子のそれではないし、首に巻かれたフリルで隠れてはいるもののちゃんと喉仏だってでていた。がらがらと何かが崩れてゆく喪失感に俺はたまらず頭を掻いた。

するとそのとき、誰かが笑った。
ジョンデでもタオでもなかった   ベッキョンだった。一連の事態を把握したベッキョンが小気味良く笑っていたのだ。こらえるようにして絞り出る笑い声。ベッキョンはそして豪快にわはは、と笑い出した。おお、おお、笑ってくれ。こんな俺を、鼻で笑い飛ばしてください。そのほうがいっそのこと気が楽になります、はい。がっくりとうな垂れた俺のこうべはもう、起こすには重すぎた。

   っくくく、……あはははっ、うっそでしょ! いくらなんでも……くくく、」
「ソコギ、笑うねえ……」

タオが気の毒そうな顔で俺を見る。ごめん、いまは見ないでくれ。目が合ったタオに訴えかける。タオがニヒルに笑った。いいんじゃないの。そんなことを言っている気がした。
いつの間にか涙をにじませながら、腰を折って笑うベッキョンが苦しそうに手を振った。

「いやいやっ、だって……! ふふっ、あ、ジョンデ! こいつ、名前なんだっけ」
「……チャニョル、」

うな垂れる情けない姿にだんだん俺の気持ちを理解してきたのか、心優しき友人は申し訳なさげに俺の名前をつぶやいた。
ふうん、チャニョルか。再度確かめるように、そして自分に言い聞かせるようにして、満面の笑みでベッキョンは何度も頷いた。俺は困惑しながらそんな彼女   のように見える、れっきとした"彼"を見上げた。彼は目を細めて楽しそうに笑ったあと、すうっ、と俺に手を差し出した。ほっそりとした長い指に、白い手のひらだった。
俺は四肢を地面につけたままベッキョンの顔をぽかん、と見つめた。

「チャニョラ、俺とお前はもう友達だ。ほら、そんな顔してないでさっさと立てよ。ん?」

ベッキョンが首を傾けた。かわいいひらひらの格好をしていて、華奢できれいな手をしてても、じわり、と滲んだ色気は男のそれに間違いなかった。そんな彼に少しどきりと反応したのはたぶん、そんなギャップからだろう。
意外と、男らしい口調なんだな。
俺はにっと笑って、ベッキョンの手を握った。



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