とうとう暦は八月を迎えた。おかげさまでこのお国は夏真っ盛りだ。真上でじりじりと照りつける太陽を一睨みして、高尾は鼻筋をゆっくりと伝う汗を片手で拭う。

ふと、何処かの民家からちりん、と風鈴の涼しげな音が聞こえた。
昔の人はこの音だけで猛暑を乗り切ったらしいが、温暖化を差し引いても現代人には到底無理な話だと思う。ていうかありえない。どう足掻いたって風鈴だけじゃ死ぬだろ普通。どんだけ我慢強いんだよ。
高尾はがむしゃらに自転車を漕ぎながら、心密かに悪態をつく。
あんまりこういう悪口めいたことは考えたくないものだ、と高尾は自嘲する。
しかし、今現在重さ約八十キロをリアカーに乗せて自転車で運搬しているのだから、多少毒突いたって許されるだろう、と甘えようとする己に鞭打ってペダルを一層強く踏み締めた。

――やっとのことで交差点に行き着いた、というところで信号が点滅し始めた。高尾は已むなくペダルを漕ぐのを一旦やめ、真後ろで涼しい顔をしている緑間の方を振り返る。
そう、高尾と緑間は信号待ちにかちあう毎にじゃんけんをして、勝った方がリアカーに乗り込み、負けた方がそのリアカーを自転車で引いていくというルールを取り決めていたのだ。

「真ちゃん、じゃんけんやろーぜ」
「いいだろう。どうせ高尾が負けるのは目に見えているがな」
「それはどうかな。今日のオレは一味違うぜ?」

今日こそはぜってー勝つ、と意気込んだのはいいものの、結果はまあ、いつも通り緑間の勝利だった。何故パーを出してしまったのか、と自分自身の手の平を見詰め悔やんだ。
前方の信号をちらりと一瞥するが、未だ止まれを示す赤色が点灯したままだった。
高尾は再び顔を緑間に向ける。既にじゃんけんの決着はついてしまったので、この勝ち誇った顔をした大男と無駄話に興じようという訳だ。

「……真ちゃん」
「今度はなんなのだよ」
「あー、呼んだだけって言ったら怒る?」
「当然」
「そっか、じゃあ今度おしるこ奢るから許してくれよ」
「……仕方ないな、考えておこう」
「さっすがオレ達のエース様だ」

高尾は自ら放った言葉に対して遣るせない気持ちになって苦笑いをする。
普段あれだけ積極的にちょっかいを出している癖にこういう時に限って「オレ達の」とそつない言い回しで表現してしまうのは我ながら意気地無い所だと思う。本当はオレの、オレだけのエース様……と限定的な言葉を公言したかった。
何故なら、高尾は緑間に恋愛的な好意を寄せているからだ。出来るものならば是非恋人としてお付き合いさせて頂きたい、と常日頃思っているが、肝心の緑間の方が高尾をどう思っているかからきし分からない。
おそらく緑間にとって高尾は仲の良いクラスメイトであり、チームメイトという存在であると言っても過言はないだろう。だが、正直高尾と同じ部類の感情を抱いているとは思えない。
そんな相手に真っ正面から独占欲を示すだなんて、きっとドン引きされた挙げ句心の底から嫌われてしまう。このつかず離れずの距離感が壊れてしまうのを常に恐れている高尾には到底出来なかった。
高尾は立ち並ぶ民家の方を向いている緑間の横顔をじっと見詰める。

緑間はとても綺麗だ、と高尾は思う。
白く抜けるような素肌に色素の薄いさらさらの髪。細く長い鼻梁に整った眉。伏せられた長い睫毛の隙間からちらつくエメラルドグリーンの瞳に事あるごとに高尾は釘付けになる。それらはどれも自分にはないものばかりで、それ故に引き付けられるのかもしれない。

「オレは時々、真ちゃんが羨ましいって思うときがあるんだよね」

無意識のうちに心の声が漏れてしまった。高尾は慌てて口を塞ぐが、もう遅かった。
案の定緑間にその言葉がしっかり聞こえてしまっていたらしく、面妖な面持ちで頭上に疑問符を浮かべている。

「何故だ?」

緑間は眉間に皺を寄せながら首を傾げる。そういう可愛らしい動作を出し抜けで使ってくるからほとほと困る。しかも無自覚ときたものだ。
高尾は不意に、いつか緑間の所為でショック死してしまうのではないかと杞憂した。

「あー……まあ、その。ごめんやっぱ今の聞こえなかったことにして」
「全く、変なやつなのだよ」
「ちょ、緑間に言われたかねーよ」

今日のオレは暑さにやられているのか、少しおかしい。普段隠し通している筈の本心が、一言二言も失言してどんどん筒抜けになってしまう。
高尾はどうにかして緑間の気を逸らそうと、たわいない話をべらべらと捲し立てる。昨日のテレビ番組の話とか、妹ちゃんのテストの点についてとか。とにかくたわいない話だ。

「……つまり、何が言いたい?」

あまりにも脈絡のない尻切れ蜻蛉の話がお気に召さなかったのか、今まで頷くことすらしなかった緑間がいきなり口を挟んだ。なんだよ急に、と高尾は困惑しながらも応対する。

「ええと、つまり、今日は暑いですねってこと?」
「そんなの言われなくても分かっているのだよ」
「まあまあ。しかし本当あちーな。いっそこのまま海いきてえな……っつってもこの辺じゃ東京湾ぐらいしかないか」

それきり緑間が黙り込んでしまい、会話が有耶無耶のまま途切れてしまった。気不味さに耐え切れなくなった高尾が緑間の顔色を伺うと、相変わらずむっつりだんまりしている。ひょっとして怒らせてしまったのだろうか、と高尾は肩を窄める。そんな高尾を余所に、思考を巡らし終わった緑間は何事もなかったかのように口を開いた。

「ふん、勝手にしろ」
「えっいいの?」

高尾はその思ってもみない返事に、口をあんぐりと開け大袈裟に驚く。

「ふむ……そうだな、おしるこ三日分で手を打ってやらんこともない」
「あー本当緑間好きだわ」

げらげらと馬鹿笑いしながらまた要らんことを言ってしまった、と高尾は緑間から顔を逸らし前を向く。どうやら、口は災いの元っていう言葉は強ち間違いではないらしい。高尾は己の口の軽さに呆れて物も言えなかった。

「……そうか」

緑間の短い返事に含まれた感情を察知した高尾は、思わず声を荒げる。

「あっ今真ちゃんめっちゃ笑ってるだろ!なんで!?」
「ッ!振り返った訳でもないのに何故ばれたのだよ!詮索はするな!」
「オレのホークアイをあまりナメないでいただきたい。なーんて、な」

まあ、今のはぶっちゃけホークアイとか全然関係ないんだけどね、緑間がやけに嬉しそうな声色だったから気付いただけだからね、という言葉は然るべきと飲み込んでおく。しかし、野郎に好きと言われて破顔するとは一体どういうことなのか。

信号が青に変わったのを皮切りに、高尾はペダルに足をかける。それきり、さっきまで互いに饒舌に話していたのはまるで嘘だったかのように、ぴたりと会話は途切れた。

日が傾き始めたところで、漸く緑間の家の近くまで辿り着いた。このまま緑間を家まで送り届けたら、今度は自分の家まで独りぼっちで帰らなければならないと思うと、なんとも心悲しい。
そんな取るに足らないことを考えていると、緑間が突然ボリュームを極力抑えた声音でぽつりと呟いた。

「海、行かないのか」
「え、」

高尾は思わず急ブレーキをかけ、唖然として振り返る。しかし、緑間は高尾から顔を背けるように、住宅街の隙間を縫って顔を出している暮れなずみをぼんやりと見ていた。
緑間の丁度背後に位置する太陽の眩しさに、高尾は目を細めながら手を翳す。逆光で視界が悪いからか、緑間の影や輪郭が周りの景色に溶け込んでいるように見えた。

「いつか、誰かと海に繰り出したいものだ」

緑間は珍しくフフ、と声に出して笑った。バクバクと高鳴る心臓の音を悟られる前になんとかしようと、高尾は胸を押さえ込む。
誰か、か。その誰かがオレであってほしいと高尾は心寂しさを覚える。しかし、臆病者の高尾にはその感情をストレートに伝えることなど、やはり出来なかった。

「はは、カノジョが出来たら一緒に海までデートしに行けばいいんじゃない?」

高尾が投げやりに微笑み掛けると、緑間は目を丸くしキョトンとする。

「……なんだ、オレはてっきり高尾が連れていってくれると思ったのだが」

この乗り物で、と緑間は落胆した様子でリアカーの縁を撫でた。高尾はその意味が今ひとつ理解出来ずにどぎまぎする。

「え、ちょ、し、真ちゃん?それってどういう意味?」
「チッ、このうすのろめ。そのままの意味に決まっているだろう!」

今日はここまでで構わん、あとは自力で歩いて帰ると言い残してリアカーから降りた緑間は、脱兎の如く夕闇に佇む街並みを走り去っていった。

――今のはオレの都合の良い錯覚、だろうか。走り去る寸前にちらりと見えた緑間の顔が、真っ赤に火照っていたような気がした。

期待しちゃってもいいですか

実は高→緑と見せ掛けて高→←緑です
2012.08.30
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