「逃げなくていいの?」

目の前の彼奴は、血塗れの包帯の隙間から覗く隈取りを施した目を潤ませながら不思議そうに首を傾げた。それが人を押し倒して馬乗りになった奴が言う台詞か。内心毒突きながらも彼奴の白い頬に手を伸ばす。すると彼奴は、どのような反応を示すだろうか。ニマニマは知らず知らずの内に、柔和な微笑を湛えていた。

「そんなこと言って。逃がす気なんて毛頭ない癖に」
「まあね、」

伸ばされた手にやや戸惑い恥じらうように、彼奴は目線を一瞬だけ外した。その平静を取り繕いきれないかったかのような、間抜けた表情が面白かった。
彼奴のしなやかな頬に指先が辿り着いたのち、つう、と滑らせるように輪郭をなぞる。すると、擽ったそうに目を細め、手のひらに頬擦りをしてきた。戯れつくその姿はまるで飼い馴らされた猫のようだ。空いているもう片方の手を伸ばし、親指で彼奴の下唇に触れてみる。ふっくらとしたそれはまるで親指に吸い付いてくるように、しとどに濡れていた。

「美味そうだな。まるで熟れた果実のようだ」
「じゃあ腐る前に食べておくれよ」

彼奴は頬擦りしていた方の腕を離し、妖艶な笑みを浮かべる。さらに、真っ赤な舌を蛇のようにちろちろと出したかと思えば、下唇に乗せたままのニマニマの親指を身につけたボロボロの軍手ごと摘んで逃げられないようにして食むように口に含ませた。そして、馬鹿丁寧なほど丹念に舐め回し始める。指紋が擦り減ってしまうのではないかと焦る程指を舐めつづけては、時々緩く歯を立てる。それを幾度か繰り返していた。
ニマニマは不審に思い、彼奴のその無意味な行為について思考を巡らせ探りを入れる。はて、一体どういった風の吹き回しなのだろうか。若しや、ご機嫌取りのつもりなのか。なんにせよ己に覆いかぶさり指を一心不乱に舐め回す彼奴の姿は甚だ滑稽で、中々いい眺めだと内心せせら笑った。

「がっついちゃって…みっともないなあ。そんなに俺の指が美味いのか?」
「うん」

暫くしてからそう問い掛けてやると、唾液を惜しみ無く滴らせながらも漸く指を離し、頷いた。そして、名残惜しむように舌舐めずりをした彼奴の瞳はとろんとしていて、とても煽情的であった。
無意識のうちにごくり、と生唾を飲み込む。何故か彼奴の一挙一動にどんどん余裕がなくなっていき、一度は止まった筈の心臓がどくりと脈打ったような気がした。
そこで普段理性的でストイックでいることを心掛けてきたニマニマに、さまざまな欲求が芽生えた。彼奴の手の甲に爪を立ててみたい、水晶玉のような眼球を一舐めしてみたい、ふくやかな唇に齧り付きたい。
どうやら一度火がついた欲求に歯止めなどききやしないようで、ニマニマは無我夢中で己に跨がったまま呆けている彼奴の腕を掴み、器用に組み敷いた。すると、彼奴はニマニマの予想外の動きにだらし無く口をぽかんと開けて此方を凝視したまま絶句したのだった。
その反応に満足したニマニマはにたにたと笑いながら彼奴の諸手を片手で押さえ付け、自由を奪ったうえで鼻先をべろりと舐めた。すると、彼奴は恍惚とした表情で身体をわなわなと震わせた。そんな彼奴を見下ろし嫌みたらしい笑みを見せ付ける。

「なに?怖がってるの?さっき君は似たようなことを俺にやったじゃないか」
「…ニマ君のいじわる」

言葉の響きとは裏腹に、とても嬉しそうな表情の彼奴の首に巻かれた手ぬぐいをするすると解いていく。すると、普段隠されていた淡雪のように真っ白な首が露出した。それの美しさに躊躇することなく齧り付く。彼奴はほんの寸時だけ端整な顔をくしゃりと歪めた。ニマニマがゆっくりと顔を上げ首筋を見遣ると、綺麗に歯型がついていた。それを確と確認すると、まるで美食を玩味するように何度も何度も首筋に齧り付いた。その行為に満足して次にこうべを擡げた時には、夥しい数の歯型と共にねっとりとした黒い液体が彼奴の首やニマニマの口許や口内にこびりついていた。
少々お遊びが過ぎたかな。そんな杞憂をしながら口許の液体を空いていた左手で乱暴に拭う。そのとき、不意に彼奴とかちりと目が合った。
彼奴はひゅうひゅうと弱々しい呼吸をし苦悶の表情を浮かべていたが、ニマニマの目を見るや否やぱあっと破顔一笑をしてみせる。それに対し、ニマニマは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

「何笑ってるんだよ、気持ち悪いな」
「だってニマ君が格好良いんだもん」
「…は、」

予想だにしなかった返答に思わず目を丸くして口許を拭う動作を象ったまま、ぴたりと止めた。目の前で好き勝手されている彼奴は、猶もにこにこと笑ったままだった。
その反応に半ば興醒めしたニマニマは、拘束していた彼奴の腕をぱっと離し、虚空をぼんやりと見詰めながら舌打ちをした。

「調子狂うからさあ、やめてくれない?そういうの」
「へ、なんで?」

むっくりと起き上がった彼奴はきょとんとしながらニマニマの顔をじっと見据える。
恥ずかしい奴め、そんな可愛い顔で格好良いだなんて言われたら誰だって調子狂うだろうが。
彼奴の胸倉を引っつかんでそう訴えてやろうかと思ったが、すんでのところで胸中にしまい込んだ。
動揺を悟られまいと、ニマニマは外方を向いて胡座を掻く。そうして暫くの間無視を決め込んだものの、やがて瞬き一つせずに凝視してくる彼奴の視線に耐え兼ねてちらりと一瞥したのち元の方向へ向き直り、重い溜息を吐いた。

「全く…君には困らせられてばかりだな。頼むからあまり大人をからかわないでくれよ」
「からかってなんかないさ!それに、ニマ君よりは若いけど、僕だって立派な大人だよ」

彼奴は喉元を摩りながら躍起になって剥れる。そういうところがまだまだ子供なんだよ、と窘めそうになったが、どうせ水掛け論に発展するだけだろうと高を括って口を閉ざした。彼奴はそれを負かしたのだと勘違いしたのか、満足げなしたり顔でニマニマの背に手を回す。ニマニマは抵抗することはなく、ひんやりとしたその手を甘んじて受け入れた。

「ニマ君、大好き」
「…知ってる」

ニマニマの胸板に顔を埋めたあと、彼奴は此方の顔色を伺いながらころころと笑っていた。そのはにかんだようにも見える表情を目の当たりにして、不思議なことに胸の奥がむず痒くなる感覚を覚えた。
ニマニマは何となしに彼奴の額に己の額をくっ付ける。冷たい筈の彼奴の額から、温かな何かを感じた。

「続き、しよっか」
「うん!」

ニマニマはその言葉を皮切りに、いじらしい笑みを浮かべる彼奴に覆いかぶさる。そして矢継ぎ早にしなやかな唇に口づけをしながら再び彼奴を押し倒したのだった。



2011.12.09


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