▼ショコラ







「適当に座っていろ。」









そう言ってこの部屋の主は今入ってきたばかりの扉を出ていった。
パタンという音をたててしまったそれの向こう側で、水道の音やガスの音がする。
何かがカチャカチャと触れあう音も聞こえてきた。
きっと二人分の飲み物を淹れてくれているのだろう。
雪がちらついていたから、多分それはホットだ。
いつも知らないところまで気を回してくれる神田だから。









『さむ……。』









雪のせいで湿ったコートを脱ぎながら、ぐるりと殺風景な部屋を見渡した。
コンクリート打ちっぱなしの無機質な壁に囲まれ、カーテンや家具は全て黒で統一されている。
必要最低限に置かれたそれらは、必要最低限の大きさで、必要最低限しか使われていないようだ。
外気と同じ位の気温の室内では、勿論吐く息は白い。
無意識に二の腕を擦ってしまっていた。
出迎えた神田はこれと言った厚着はしていなかった。
彼らしい白のシャツに少し長めのカーディガンとタイトなパンツ。
それどころか寧ろ涼しい顔でキッチンへ消えていったのだ。
身体を鍛えればこんな寒さにも耐えることが出来るのかどうかは謎だが、思えば気温が高かろうが低かろうが、雪が降ろうが台風が来ようが。
いつだって神田は涼しい顔をしていた。










「暖房をつけてなかったのか。」









二つのマグカップが乗ったトレーを軽々と、片手で持って帰ってきた今も涼しい顔をして言い放つ。
部屋の真ん中にある申し訳程度のローテーブルにそれを置き、持ったままだった私のアウターを奪いながら、壁に設置されたリモコンのスイッチを押した。
ピピッと言う機械音が聞こえたと思ったら、頭上のウイングが開き、温かな空気が吐き出される。
“初めて来た部屋の勝手が分かるわけがない”と、思っているうちに段々冷えきった身体が解凍されていく。









「いつまで突っ立っているつもりだ」

『あ、あぁ…。し、失礼…します?』









“お前の分だ”と言わんばかりにこちら側に置かれたマグカップからは、ホコホコと白い湯気が立っている。
ストンとその前に腰を下ろして、前に座る神田に何故か軽く会釈をしてしまった。









「なんで疑問形なんだ。」









“あ、”

首を少しだけ傾けて、だけど上から目線の偉そうな角度。
そして意地悪さを含んだ口元。
だけど、“ふ、”と漏れる声は、柔らかい。
少しバカにしたような、少し呆れたような。
それでいて何故か安心してしまう神田の笑みを見た。
それは神田が見せる仕種の一つ。

二人きりで居るときに、ホントに時たまに見せるそれは、彼の心のすごく柔かな部分に触れれた様な。
そんな錯覚を感じさせ、そしてすごく照れくさくなってしまう。
どちらかと言えば“苛立ち”や“不満”と言った表情を多めに見せる神田の、他人にはあまり見せないレアな顔を、不意に見せられたら。









『っ〜…、』

「●●?」









鼻筋の通った端正な顔の、切れ長の深い眼が此方を向く。
決して重くはないのだが、軽くマグカップを持った骨ばった手。
無機質な部屋に差し込む冬の太陽の明かりが、神田の黒く艶やかな髪を照らす。
その全てが一瞬で眼に飛び込んできて、脳に届いて。
それと共に耳を撫でる彼の優しい聲が無意識に私の頬を赤くさせた。
神田に気付かれれば、先程以上の照れくささが押し寄せてくるのだろう。
気を紛らわすかのように、出されたマグカップに口を付けた。









『や、なんでも、な……チョコ、?』









神田の事だから珈琲だと思った。
神田が好んでいるのかはよく分からないが、カフェに入ったとき、自販機で飲み物を買うとき、いつも彼は無糖の珈琲を選んでいた。
その姿をもう何度も見ていたから、部屋中に充満している芳ばしい豆の香りが、自分の為に用意されているマグカップからも放っていると思っていた。
と言うより彼がそれ以外を用意するなんて想像もしていなかった。









「あぁ。リナが飲んでたからな。お前も珈琲よりこういう方が飲みやすいんじゃねェかって。」

『リナリーが?』

「もやしに教えてもらったんだとよ。」

『アレンは好きそうだもんね、こういう甘いの!』









カカオ独特の甘ったるくてほろ苦くて、それでいてホッとする味。
ミルクと混ぜられたその濃厚なブラウンがゆっくりと喉を通過する。
茶と白が合わさったその懸濁液は、胃だけでなく身体中に広がって。
嚥下すると共に小さく息を吐いた。









「…俺はそんなモン飲まねェ。」

『えー美味しいよ?』

「甘ったるいモンなんて飲めるか。」









フンと鼻で笑いながら、ベ、と舌を悪戯に見せる。
“ブラックで十分だ”と、また手に持っていたマグカップに口を付けた。
主成分は大して変わらないんだよ、神田。
と言いそうになったけれど、それはチョコと一緒に飲み込んでしまおう。
彼がホットチョコを用意してくれただけで十分だ。









「●●、お前…。」

『…ん?』

「…いや。何でもねェ。」

『なになに?そういうの気になるし!』









ローテーブルにマグカップを置いて神田の方に眼をやれば、此方をじっと見る彼の眼とかち合ってしまった。

部屋中に暖房の温風がいきわたり、ホットチョコのお蔭もあって、冷え切っていた指先は既にスムーズに動いてくれる。
寒さのせいで竦んでいた肩ももう解されてくつろぎモードに切り替わった思考のせいで、此処が神田の部屋だという事実がどこかに飛んで行ってしまっていて。


不意に交わった目線は逸らすことが出来ない。
いや、逸らさせてはくれない。
奥深くに吸い込まれてしまいそうな位、神田の眼には力があると思う。
現に今。
その眼に見つめられていることで、息が詰まる程、だ。









「お前、此処に来た理由があるんだろ。」

『え、あ…。』

「ソレで、満足できたのかよ。」









ソレと呼ばれた飲み物の効果は飲んでいなくとも知っていたようで。
確かに神田の用意してくれたこのホットチョコのお蔭で、頭の中の悶々としたものは少し鎮まっていた。
此処に来るまでの道のりの中、昨日、一昨日。
遡れば遡るだけ思い出す、私を圧迫するストレス達。
今日、此処へ来た理由は、それらに耐えきれず彼に救いを求めに来たのだ。









「それならそれで構わねェ。」









神田に何かしてほしいわけではない。
愚痴を聞いてほしいわけでも、アドバイスを欲しいわけでもない。
ただ、頭に浮かんだのが神田だった。
そして彼に逢えば、ストレスも少しは晴れると思ったのだ。









「●●。」









藍色の眼が私を射抜く。
思わず触れたいと思った。









鎮まったと思っていた私の精神状態は一気に異常モードに突入してしまった。
いつもならそんな考えは微塵も浮かび上がってこない筈で、寧ろ強がりを発揮していた筈だ。
それが彼のホンの少しの甘い罠のような聲に、優しげに向けられる眼に。
吸い込まれるような感覚で魅入らされてしまった。

何か言わなければと、開けた口はただ空気を吐き出すだけでなんの役にも立たず、膝の上に置いていた手は、何かを求めるように互いを握りしめた。









「……●●。」









神田の聲が耳を愛撫する。
くすぐったくて心地好くて。
ずっと聞いていたくて、それだけじゃ足りなくて。


そうだ。
私にとって神田は全てを満たしてくれる存在。
そして、貪欲に足りないと求めてやまない存在なのだ。


神田が私の名前を呼ぶ度に、目が合う度に、触れてくれる度に。
何にも代えがたい幸福感が押し寄せる。
そしてそれは無惨にも一瞬で消えてしまう。
いや、消えると言うよりも、別の感情が上回ってしまう。









「満足、なんだな?」









ポンと肩に置かれた大きな手。
触れられている部分が熱い。
神田の体温が服を伝って、全身にじわじわと侵食していく。
そしてその熱がもっと、もっと、と私を掻き立てる。
そうやって頭の中でぐるぐると混ざり会う理性と欲が、段々私の思考回路を鈍らせる。


鈍った思考はとても厄介で。
心臓をどくどくと煩く鳴らせ、呼吸を浅くさせる。
吸っても吸っても脳に酸素は行き渡らず、空気中にいるのにも関わらず溺れているかのようで。
そしてこの熱の下げ方は、一つだけだと知っている。









『…ふれて、も?』










どうにか絞り出した聲は思いの外低く、思いの外余裕がなく。
きゅっと両手を握り締め、唇と瞼を閉じた。









「…どうぞ?」









神田が口角を上げて少しだけ笑う。
少し悪戯に、だ。
いつもなら彼のこういった表情にカチンときてしまうのだけど、今は違う。
寧ろそれすら、私の鈍った思考を煽る。
人一人分程離れていた身体をゆっくりと動かして、神田の座る前に膝で立った。
ここ数年でぐんぐん身長を伸ばした彼を見下ろすのは滅多にないことだ。
上目遣いの切れ長の鋭い眼が、誘う。

自分の手が自分の物じゃないかのように、神田に吸い寄せられて、彼の端正な顔に添えた。
男の人なのに滑らかな頬の弾力を掌が感じた、瞬間。
強く引っ張られる力に身体が傾いて、その衝撃で腕が神田の首裏に滑り込む。
ストンと着地した筋肉質の膝の上。
頬に触れる神田の胸板。









「●●」









耳元で、ゼロ距離で、吐息を含んだテノールが響く。
腰に回った力強い腕が、全身で感じる神田の体温が。
私の肩にふわりと落ちる彼の髪が。


その全てがカカオなんてものと比べ物にならない位、甘い。









『…っ、』















きっとね。

私を溶かすのも、解かすのも、融かすのも。
君だけなんだよ、神田。
君だけが私を満たして。
君だけが欲しい。

私の髪を梳く神田の指先と、頬の真横で脈打つ心臓を感じて、神田の背中に腕を回した。




















End

20130223

最初は全然神田にする気も、リク消化する気も(すみません)無かったのです。
ここ最近のストレスにイライラして途中あたりの文章を書いていたら(思わず触れたいと思った、付近)、こういう形に収まりました。
むりくりくっつけたわけではないのですが、必然的に消化していた『神田夢・現パロ・神田の一人暮らし部屋・甘短編』でした。
割と思うままに書けました。
気に食わなかったらすみません…。
今の自分の心境的に大満足です。神田さんに満たされたいです。
お願いします、連載を…!


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