日付が変わる少し前というのは深夜というにはまだ浅いような気がする。昼とは比べものにはならないものの、街灯で煌々と照らされる人気はまばらと言うにはいささか多い。居酒屋に吸い込まれていく影もあれば足早に去る背広もある。彼の背を追い立てるのは額に角を生やした嫁さんだろうか。一回りは年上であろう泥酔したオヤジを支える青年が夜闇に隠すようにこぼしたのは失望とか後悔よりもっと曖昧で端的な疲労だろう。そういう人々を横目に見ているような見ていないような、猿飛佐助はラフな部屋着そのままに、それほど暗くも感じない現代の夜道をのろのろと歩いていた。サンダルを引っ掛けただけの足はぺたぺたと間抜けた音ばかりを小さく響かせて、ときたま近所のコンビニのビニル袋が音を立てる。中では無造作に放り込まれた何種かの酒の缶が収まっている。佐助はやれやれと言わんばかりに長々と嘆息。耳に煩い蝉の声は一層の倦怠感を煽る。こういう夜はクーラの効いた我が家でのんびりとしてたいものだ。じわじわ背筋を這い上がる暑気にもいちど嘆息。幼なじみの家たるマンションに着いたのはそれと同時であった。
 インターホンを押してからほどなく、こちらが名乗るより早く無愛想に「開いてる」とだけ言ってオートロック式のエントランスの戸が開く。自動ドアが閉まらない内に通り抜けながら、いくらカメラ付きだからといって名前も聞かずに開けるのは無用心じゃなかろうか。施錠をしていないのもまた然り。手応えも軽く回るノブに小さく息を落とした。おざなりに放る「おじゃまします」に返る声はない。サンダルを無造作に脱ぎ捨てる。脱衣所からインターホンの親機までのフローリングがびしょぬれなのを見てやはり溜息。小さく漏れるシャワーの音を耳に入れつつ、その小さな小さな川を一足に飛び越えてキッチンへ。来るまでの道中にも結露で濡れた缶を整頓された冷蔵庫に収める。無防備に開錠する彼女も彼女ならば恋人でもない女の家を我が家同然に動き回る俺も俺なのだろう。傍目から見た俺達は五十歩百歩もいいとこに違いないと考えて小さく苦笑いした。補足するならば恋人であったとてまさか我が物顔では振る舞いはしない、俺はそこまでなあほじゃない。
 ぼんやりと何をするでなくキッチンにいたのはそれほどの時間でもなかったろう。暇を持て余すより早くシャワーの音が止んで数秒後風呂のドアの開閉音。風呂場の開閉音の、あの独特さは一体何なのだろうか。結論を出すよりも遥かに早く多量に水を孕んだ足音に佐助は細く長く息を吐いた。本日最長のそれは、実に多量の諦観を含んでシンクへ落ちる。やれやれと振り向いて腕を広げてやれば誰もが羨む最高のプロポーションを備えた美女の裸体をその視界に捉えるより早く飛び込んできて少しびっくりした。震えもしない背中に腕を回せば薄いTシャツを越えて染み込む水の冷たさに呆れた。夏とは言え限度があろうに。濡れる不快感はこの際あっちへ置いておく。手入れの行き届いた白い指が一層白くなるまでに力を込められるとさすがに痛かったが、これはそっちへ。白い背中を二度三度叩いてやる。このように幼子を慰める仕種を、普段の彼女なら決して受け入れたりはしなかろう。すると糸の切れたように膝から崩れた彼女を支えつつ二人一緒にキッチンの床に座り込む。坐り心地はあまりよろしくなかった。ぼたぼたと大粒の滴を落とす金髪を撫でてやる。何も言わず泣きもしない彼女にいっそ呆れる。なんと不器用な女だろう。じわじわと湧く庇護欲とかそういうのは、ずっと昔から抱えたそれでいて、多分俺達にとって互いがどんなに居心地のよい相手だろうとも擬似家族的以外にはなれない決定打だ。ぼんやりとかすがを抱えたまま、そろそろ風邪を引くんじゃないかと思った頃俺の肩口に額を押し当てた彼女がずるずると息を吐き出した。

「くやしい」

落ちた声はあんまりに明瞭だった。

「そ」

返事にしてはあまりに端的、むしろ淡的なそれを聞くとかすがが小さく頬を上げたのを横目に見た。ようやく顔を上げた彼女は水も滴るいい女。








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失恋かすがちゃん