! 成長/2→5年






 夏はあまり好きじゃない。おそらくそれは幼い頃からの感情ではなかった。そう、ずっと夏は好きなはずだった。村に面した海がゆらめくに任せてきらきらと反射するのを見れば心のいずこかも波打って、そのざわめきに身を任せるのだ。それは夏でなく海が好きだったのでないかと言われればなるほどそれもそうなのだろうが、しかし三郎次が好んだのはたしかに夏の海であった。たとえば冬の海なぞはまるで白々と牙を剥く獣のそれそのもので幼心ながらにそれがたいそうおそろしかった。夏のどよりとした湿気はとくいでもなかったが、しかし海に身を沈めればそれも関係なかった。
 ふ、と三郎次は茫洋と落としていた瞼を押し上げた。忍術学園には海の匂いだとか、そういうものがない。山に囲まれ自身もまた山中にある土地である。種様々な虫の声の隙を縫ってざわめくのも、青青と葉をつける梢である。じとりと膚を這う、重たげに水を孕んだ空気が倦怠感を招いて三郎次は不機嫌をあからさまに眉を顰めた。夏の匂いに微かな声を上げる心臓を宥めすかすように小さく息をついて、だらしなく床に身を転がしながら再び瞼を落とした。ひやりと心地よい床に頬を押し当てると廊下の床板を踏み鳴らすのがみつよつばかり耳朶に触れた。その中から次第にこちらへ向かう馴染の足音を拾い上げた。

「左近いるか?」

 顔を覗かせた久作に「いない」とやはり瞼を落としたままに返すと、久作は「なんだ」と顔をほころばせた。ゆるく上がった口角を見こそしなかったが、しかし僅かに含んだ笑みを耳聡く拾い上げてやはり不機嫌そうに顔をゆがめるのだ。それでも倦怠感の方が勝るらしく、いつもの噛みつくような勢いはなくて、それが一層久作の笑みを誘った。

「相変わらず夏は苦手なんだな」
「うっさい。左近なら委員会だぞ」
「そうか」

 じゃあま、どっかの穴にでも落ちてるかなと続いて、三郎次はひそりと笑いをこぼした。立派に不運委員会基、保健委員会を務めついに来年委員長となる幼馴染はまた今日も濃紺の制服をどろだらけにして帰ってくるのだろう。

「来年大丈夫なのかなあいつ」
「まあ、なんとかなるんじゃないか?」

 そうだな、とうなずいて空気の動く気配に、これで左近を探しに行くのだろうと床板になついているときしと微かに音を立てた床と、ごくごく近い気配にようやく三郎次は瞼を上げた。くつろぐ気色で腰を下ろした久作を見上げて三郎次はもういっそう眉を寄せた。

「いいのかよ」
「なにが」
「左近」
「ああ」

 あいつが読みたがってた本がようやく返却されたから教えてやろうかと。急いでる風でもなくゆるりと笑う久作に「ふうん」と曖昧に頷いた。もっとも、なおも寝転んだままでは僅かに身じろぎした風にしか見えなかったが久作はだからといってそのようなことに執着する風もなく、普段ではそう見れやしない三郎次のようすにやはり機嫌よさげに口角を緩めた。

「なににやにやしてるんだ」
「ん? うん」

 やたらに眉を顰める三郎次を見下ろす。ほとんど睨みつけるような視線を受け止めながらもそれが三郎次の常であったから特に気に留める風もない。それどころかやたらに楽しげにする久作に、むしろ三郎次の方が奇妙に口角を歪めた。

「気持ち悪いぞおまえ」
「そうかな。そうでもないと思うが」
「いやいや」

 ゆるりと首を傾げる久作に顔を目一杯歪めて見せてから、それでもなおおもしろいものを見るように顔をほころばすようすになにやら居た堪れない心地を覚えて逃げるように寝返りを打った。

「ずっと夏でもいいな」

 ぽつりと落ちた呟きに、冗談じゃないと吐き捨てた。






100623