長次は少しもふるえない表情筋の下で困惑した。目の前の男が途端に解らなくなったような、身の置き場を見失ってしまったような心地になった。小平太は顔をぐしゃりと歪めた。その拍子にぼとりと落ちた涙が畳に染みるのを、長次は見れなかった。ぼろぼろにぐしゃぐしゃに濡れた真っ黒い瞳が睨みつけるように長次に向けられるのに、どうしても目が離せなかった。その瞬間、間違いなく小平太は捕食者であり長次は小平太の獲物であった。獣は叫んだ。「長次のせいだ!」はじけるように響いたそれは一層長次を捕えて離そうとはしない。

「長次のせいだ、長次のせいだ!長次が私になにかしたんだろう!なにか、そうだ、私の知らない忍術なんだろう!そうに、ちがいない!」

 長次は困惑した。そんな覚えはまったくなかった。そもそも長次には小平太に責められる覚えがない。本来責められるのは小平太のはずだった。図書の貸し出し期限が過ぎていて、それの催促にと部屋に戻った長次が背を向けた小平太の肩を叩いた。振り向いた小平太は長次を視界に入れた途端暴れた挙句に(今にして思えば「嫌だいやだ」と喚くさまは、駄々を捏ねる子供によく似ていた)加減もなにも解らなくなった拳が長次の肩を打ったと理解したとなると一瞬脅えたような目をして次の瞬間には決壊した。わけがわからない。しかし否定すらも許さないとぎらつく眼差しに長次は言葉を失う。長次は寡黙であったが信念に基づいたそれではない。ただの気質だ。だから言うべきことにまで口を閉ざしたりはしない。ただ、今長次は間違いなく言葉を見失っていた。

「長次のせいだ!私がおかしくなるのは全部全部長次のせいなのだろう!私はこんなもの知らないぞ!私は馬鹿だが、こんな、こんなのは嫌だ!」
「小平太」
「こんなのは、私じゃない!」

 それはまっすぐに長次の心臓を抉った。縋りつくように長次の腕をきつく握りしめて、小平太は嗚咽を洩らさなかった。昂った獣の様な息ばかりが部屋に響いた。ずるりと崩れ落ちた小平太を反射的に支えるようにして長次も床に膝をついた。ずりずりと古びた床板に膝を擦りつけて、長次の肩口に額を押しつける小平太はそこでようやく、ぐすりと鼻を鳴らした。ああこいつは泣いているのかと長次もようやく、理解した。

「小平太」
「ちょう、じ」

 いつものように小平太の髪に指を通してから、長次は恐怖を覚えた。ふっと湧きあがったそれは戦場で感じるそれよりもずっと冷たかった。しかし、小平太は「いやだ」と叫ぶこともなく、ただ震える喉で呻いた。

「きっとわたしはしんでしまうんだ」

 それは嫌だと思った。








100510
恋だよ