明るい夜であった。透明な濃紺の上を流れる薄雲はほんのりと銀色に発光している。少しばかり強く吹き付ける風に、けぶるような雲はたやすく浚われる。呑まれたり吐き出されたりしながら、わずかばかりの隙間から覗く針の先のような星を見止めて忍びはうっそりと目を細めた。

「旦那はおもしろいことを言うね」

 ふ、と零すような笑いを伴って、忍びは同じようにして隣に座る主人の横顔を見詰めた。童の純心さというよりは無知な赤子のようにしてやけに執拗に夜空を見詰めていた主人は拙い仕草で忍びを見つめてまるい瞳をしばたかせた。幼さの残る仕草をする主人はつい十日前、数えるのも億劫になるだけの人を屠ったのであった。忍びは実にやわらかい色を孕んだ瞳で主人に笑いかけた。忍びもまた殺した。邪魔だったのだからしようがない。などということも思わずに忍びは色々殺した。邪魔なのは殺したので、忍びはこうして主人と肩を並べて静かな夜を謳歌していると、そういうわけである。

「星がけなげ、なんてさ」

 そうか?と傾げられた小首に忍びはどうにも懐かしい心もちに駆られた。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。うっそりほほ笑む忍びは過ぎ去りし頃の主人を思い出す。忍びは懐古主義ではなかったし、ましてや仕事と、興味の範疇のことに関する以外のことには一切の興味のない男である。たとえば主人の腹違いの兄の幼少の砌など、そこに主人が絡むことさえなければ忍びの記憶にはひとつたりとて存在していない。それでも現在の彼の動向にはちくいち気を張っている。なにも主人の兄に限った話でもない。忍びはそのことになんの疑問も抱いていない。実に。実に実に閉鎖的な忍びの記憶は結局のところすべて主人に集約するのである。言うまでもなく、それは忍びにとって自然の摂理同様のことがらだ。

「ならば、見てみろ佐助。星は光っている。どんなに雲が多かろうと光っている。じっとじっと光っている。ほんの僅かな隙間からであろうと、ほんの僅かな光しか届かなかろうとも光っているのだ。いいや、雲に隠れてしまおうとあれらは光っている。誰の目に触れなかろうと光っているのだ。これをけなげと言わずなんと言おう」
「雲の向こうのことなんて知らないだろ」
「知らぬ。だが解る」

 くっと上がった口角は自信に満ち満ちていた。主人はいつだって己を信じている。忍びはそれを否定しない。たしなめたり諭したり軌道修正を促すこともまたあるが、しかし頭ごなしに否定することはない。主人は愛されている。なんだか解らないなにごとかに愛されているのだと知っていた。我ながら、まるで妄言だと忍びは頬の内で自嘲するも、しかし覆ることはない。忍びが主人に抱く絶対の、ひとつであった。爛々ときらめく鳶茶の瞳に忍びは途方もないいとおしさを覚えた。

「そうだね。星は光るばかりだ」

 つ、と顎を上げた忍びの視線の先には星がある。先程まで居座るようにしていた巨大な雲海はどこぞに流れてしまったか、まぶすように極細の星々が忍びの瞳を射抜いた。拒絶のように細めた瞳のことなどは、星の及ぶところでないだろう、星々は絶えるところを知らない。忍びの物言いに奇妙なところを覚えたらしい主人はほんの少し眉を歪めて「佐助…?」とつぶやいた。沈黙する大気はきわめてささやかな震えすらもひとつとして歪めずに忍びの耳朶に触れる。忍びはおもむろに立ち上がると、主人のいぶかしげな視線を振り払うように大きく伸びをした。主人はしなやかに反る背中を見つめるばかりで、それ以上口を開くこともなく、ただ張り詰める弓のような背中が弛緩するのを待った。

「それじゃあ、俺様そろそろお仕事なんで」
「そうか」
「夜更かしは駄目だからね」

 忍びはにやりと薄く歯を見せて目を細めた。意地の悪そうな笑みにも母親のような物言いにも主人は「ああ」と返すばかりであった。主人は星の群集を背にする忍びを茫洋と見つめてから、ぽつりとつぶやく。

「佐助は夜の生き物なのだな」

 忍びは掴みあぐねるように少しばかり目をしばたかせて、思考するような素振りを見せてから「明るい夜は嫌いだよ」と言った。

「そうか」

 そういえば今宵は満月だったな。今は見えない白く醒めたそれはきっと忍びには似合わないのだろう。わけもなく主人はそう思った。朔の夜にでも、忍びを立たせてみようか。遮るものはない方がいい。山では木々が邪魔だろう、ならば屋根あたりだろうか。少し考えれば遮蔽物のない方向を見つけられるだろう。主人はとっくに失せた忍びがいた場所をぼんやりと眺めながらそのような算段を立てていた。










100425