ミスターKの訃報に、ヒデだとて何の感慨も無かったわけではない。彼はまごうことなくオルフェウスの監督だったのだから、思う所が無い筈がない。だけれども、なんというか、それは勿論そうなのだがこの感慨の種類は間違っても彼を恩師だと思ってのことではない。それもそうだ。少なくともオルフェウスの中に彼を恩師と思う選手はいなかろう。なにせ、最後こそどうであれ彼はそういう人生を生きたのだ。ヒデの中に彼に対する同情といった類いのものはない。彼と己の関係は実に希薄だ。直接的とは到底言えない。ルシェやオルフェウス、殊更フィディオを介して初めて彼と己は互いを認識した。そこに生じた関係に名付けるならばきっと対立だった。明確ではないが多分敵対だった。
 だけれどもフィディオは違った。それがいたく問題だった。ニュースになるより早くフィディオに訃報を知らせたのは、ヒデ自身だ。当然と言えば当然、ヒデはオルフェウスのキャプテンで、ミスターKはオルフェウスの監督だったのだから。
 枕詞にヒデは「落ち着いて聞け」と言った。現実、フィディオが取り乱すことも有り得るだろうしそれも構わなかったと思っていたけれどそうして普遍的な言葉を選んだのはヒデだ。ヒデにはフィディオがどうするかさっぱり判らなかったのだ。なにせ、フィディオは過去にフィディオが関わった誰よりミスターKに執心―どうにもしっくりせぬものだが―しているようだったから。とにかく、そうしてヒデはフィディオに伝えた。フィディオは一度、何事か唇をうごめかせてきゅっと閉じた。瞬きを忘れた瞳は遠かった。
 ヒデは半ばなあなあに、そこはかとなく強引にミスターKと対立した。反してフィディオはひたすらにミスターKに寄り添った。似ていると感じたのだろう、事実彼等を形成する過去は客観的にも似通っている。もしかしたらそうでないのかもしれないがそのようなことは大したことではない。ただヒデにとっては、彼に心を寄せすぎたフィディオが大切だ。ヒデと彼が対立し彼とフィディオが通い合っても、ヒデはフィディオと対立する心算もないし予定もない。フィディオは大切なチームメイトだ。



 キャプテンが監督にかい摘まんだ報告を済ませると、「お前は」とミスターKは言った。皮肉めいた口元がいやな大人を象徴している。彼は反面教師のカリスマ的存在だ。

「恨み言を言うためにわざわざこんな所まで遣って来たのかね」
「前にも言いましたが、俺はそれほど暇じゃありません」

 ヒデは僅かに笑った。ですが、と続けるとミスターKは器用に眉尻を上げた。

「せっかくだから、そうですね、宣戦布告でも」
「宣戦布告か」
「初めて貴方と、きちんと敵対しようという気になりました」

 真っ暗なサングラスで目元を隠した彼は、「ふん」と鼻を鳴らした。実につまらないと言った態度だ。色の薄い海の、真っ白な砂浜だ。どこか、古びた写真の中に迷い込んだようにあらゆる輪郭がおぼろげな中で彼と自分だけが明瞭である。ヒデはふう、と空を仰いだ。世界中を旅するヒデだが見知らぬ海だった。彼の思い出か深層心理か、とにかく緩やかに打ち寄せる波は遠く聞こえる気がするほどに静かだ。海に向いて在る簡素な木の椅子に踏ん反りかえって、まったく彼は相変わらずの様子だ。などといったことを言えるほどにヒデは彼を知らないのだが、何故だかこうして邂逅の機会を与えられてしまってまったく世の中はこれだから。彼がぐ、と凭れ掛かると椅子がぎしりと微かな悲鳴を上げる。

「死人と敵対などと、存外につまらない男だな。ヒデ・ナカタ」
「結構です。死んでようがいまいが、大切なチームメイトを傷付けた貴方を許せないものですから」
「キャプテンだからか」
「キャプテンだからです」

 ミスターKはもう一度鼻を鳴らした。シニカルに傾く口唇がどうにも作り物くさい。ヒデはサングラスの向こうにあるはずの双眸を見つめた。黒いプラスチックの双眼にヒデの姿が反射する。ミスターKは黙りこくって、組んだ膝の上で組んだ指先を解いてから、組み直した。彼は僅かに顎を引いた。ヒデではなく、その背の海を見ているようだった。

「あれも愚かなことだ。私のような人間の為に何故傷付く」
「さあ。フィディオに尋ねたら如何です」
「下らん」

 ミスターKはぱっと腰を上げた。ヒデだとて年の頃にしてはそれなりに長身の方だが、ミスターKはそれをあっさり上回る。ヒデは彼を見上げることを止めて海の方へと首を巡らした。白い波が薄く泡を引いて足先の砂を攫う。三度、それを見送った。

「下らないのは死んでも治らない貴方の虚栄でしょうに」
「……」
「否定しませんか」
「事実だ」
「そうですか」

 ヒデの声を背に受けて、彼は徐にその長身を屈めた。足元から拾い上げたのは鮮やかな色の花束だ。イタリア街のワゴンででも売っていそうな花だと、ヒデはひそかに思った。殊更に華やかではないが、鮮やかであたたかなそれをミスターKは黙って見下した。花束を包む白い包装紙が、がさと僅かに立てる音にヒデはミスターKを見遣った。花束を引っ提げた長身の男。実に不釣り合いでヒデは密かに笑った。ミスターKはまたつまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らした。

「下らん」

 そう言う彼が足元から真っ白になってばらばらと崩れていくのをヒデは見送った。よくよく見れば風に舞うそれは花弁のようで、とうとうヒデは「ふは」と吹き出した。肩も半ばに消え去った彼がじろりとヒデをねめつけるのが判ってヒデは益々肩を震わせた。






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