その日のカノンはいつもと少し違ったのだ。アラームを三度消し母親に五度急き立てられてようやく目覚める朝でなく、一度目のアラームどころか僅か一コールで跳ね起きてアラームを止めた。何時になく静かな息子の自室に不審を抱いて母が覗けば慌ただしく服を着替える息子とばっちり目が合った。途端にぶわっと顔を真っ赤になる息子に思わず「あらあら」と漏らせば片足を突っ込んでいたズボンをかなぐり捨ててぎゃああと母を追い立てる。

「いきなり入って来ないでよ!」
「カノンももうそんな年頃なのねえ」
「なにが!」

 なんやかんやと追い出せばずるずると崩れてカノンははあああと吐き出して思わず顔を覆った。

「うっうう…」

 違うのに、と呟いてみても顔は熱くて熱くてしようがない。もう一度大きく溜息を吐いた。

「そうだったら、よかったんだけどなあ…」

 ぼんやりと呟いてから、はっと気付く。下半身丸出しで恋患う自分は実に間抜けそのものだ。慌ただしくズボンを拾い上げてからデジタルの時計を見る。約束の時間までに余裕がないわけでもないがありすぎるというわけでもない。だけれどリビングに降りるこの気恥ずかしさとかを考えればやはり時間は足りないように思われた。カノンはくるくるとよく動く顔を複雑にはにかませて、眩しそうに時計を見た。要するにカノンは何時になく有頂天だったのだ。



 広場に待ち合わせたのは10時きっかり。カノンよりも随分と大人びた雰囲気の彼はいつだってさらりとカノンの幾分先を行くから、今日くらいは彼を待ってみたいと思って二十分もはやく着くことを見越して家を出た。そこには恐らく半ば無理矢理に約束を扱ぎ付けた際の意地もある――幾分か、ともすれば気のせいと済まされそうな程度に柔和な声で「寝過ごすなよ」と笑った(とカノンは思った)彼に対する意地だ。そんな風に普通の、そんな会話をする彼にも吃驚して咄嗟に言葉すら失くしたけれど、画面の向こうの彼に食いつくように返事した理由を彼はきっと解らないだろう。そうと思えば苦ではない。とは言え―慣れないことをしている自覚はあるが―やはりどうしてもばたばたと慌ただしくなってしまって、出かけ際にもやはり勘違いしたままの母の「彼女を待たせちゃ駄目よ!」などといった余計なひと言に反論する余裕さえなかったほどだった。しかしその甲斐もあって、カノンが肩で息して広場に駆け込んだ時想定よりも更に4分早かったのだった。心臓が早鐘を打つのは決して急いた所為ばかりではない。息は白くなるほどの季節だが、カノンは背が僅かに汗ばんでいるのを感じる。弾む息を整えながら視線を彷徨わせるカノンが約束の相手を見つけるより――いや、見つけないより早く掛けられた声は、休日に賑わう広場でも十分に届いた。「円堂カノン」と呼ぶ声をスピーカー越しでなく聞くのはあまりに久しぶりで思わず心臓が大きく跳ねた。

「バダップ!」

 たっと駆け寄るカノンをバダップはどこか不思議そうに瞬きして見つめる。じっと注がれる視線にどこか居心地の悪さを覚えたころバダップは漸く口を開いた。なにせバダップは基本的に口数の少ないほうだ。

「急ぐ必要はなかっただろう。約束の時間まで未だある」

 ささやかな、それこそ自己満足の筈だったサプライズがこうして失敗に終わるというのはどこか決まりが悪いもので、カノンはなんとなく曖昧に笑ってみた。

「君こそ。一体いつから待ってたのさ」
「9時には到着していた」
「9時!? うそ、寒かったでしょ!」

 周りも憚らずに声を上げれば変声期前のカノンの声はよく通った。周囲の人も一瞬こちらを見たがなにごともないと知ればまたそれぞれに時が流れる。そのような一連のことにもカノンは頓着しなかったしバダップはそもそも人の視線に慣れているというのもあってかさして気に留めない。ただくるくると表情を変える目前のカノンへと濃い緋色の瞳を向けた。カノンは大きな瞳を更に丸くして無作為にバダップへと手を伸ばした。外気に晒されてひんやり冷たいバダップの頬にそうでなくとも体温の高いカノンの手が触れると、バダップはただ静かに目を眇めた。体の横に落とされた手が無防備だった。じっと黙って自身を見下ろすバダップの赤い瞳に思わずカノンは口を閉じた。不思議なくらいにバダップは無防備だった。そうしてからバダップはゆっくり瞬きをした。

「お前の手は温かいな」

 カノンの耳朶を直接に打つ言葉は対峙した時とまるで違う。カノンより、同い年の友人やそうでない親や知人よりも、カノンの知る限りの誰よりもバダップの声は澄んでいる。少し低めの落ち着いたトーンをした声はカノンの耳を過ぎて胸に真っ直ぐ染み渡るのだ。少し伏せ目がちになったその拍子に彼の睫毛の長さを知った。真っ直ぐ伸びたそれは微かに震えて、ともすれば影を落とせそうなほどに。そこではっと息を飲んでカノンはバダップから飛び退るように手を放した。

「ご、ごめん!」

 彼はきっと触れられるのが得意ではないはずだとカノンは思った。視線の合わなかったバダップの瞳に戸惑いを見たのだ。それはそうだろう、王牙学園の内情に決して長じているわけではないが少なくともあのオーガの様子を見るに友好や社交性を築くというところに重きを置いてはいないだろう。たまにするだけの僅かな通信からでさえ環境の大きな差異を知った。多分彼はこういった普通の触れ合いさえ知らない。それが悲しいことだと言う権利を恐らくカノンは持っていなかったが、とても寂しく思った。カノンが、寂しかったのだ。バダップは再びカノンを見た。彼は何時だって真っ直ぐに人を見る。「問題ない」という声は単調だがそれはバダップという個性だ。それをカノンは寂しくは思わない。

「うん、」

 カノンは体の横に落とした手をぎゅっと握りしめて、それからすぐにだらりと崩した。基本的に人懐っこく人間関係というのにさして難儀した経験のないカノンに、バダップという人はとてもむつかしくてならないのだけれど諦めようとは思わなかった。これほどまでにひとりの人を切望したことがないカノンにこれはほんの少し重たい。だからカノンは思わざるを得ない。ひいじいちゃんなら。

「少し早いけど、行こうか」
「ああ」

 カノンが踵を返して歩き出せばそれに合わせてバダップも横に並ぶ。こうして横に並んでみれば背もそうだが脚の長さが大きく違うことに気付く。すらりと長くて、かっこいい。そういえば彼の私服を見るのも初めてなのだ。またかっと熱くなる耳を冷まそうと両耳を手で覆うけれど、先にバダップが言った通りにむしろ耳の方が冷たいくらいでどうにもちぐはぐだ。横に並ぶバダップが挙動不審な様子のカノンをしばらく見遣る気配はしたが、意識してしまうとどうにもそちらを向けそうにない。外気に触れながらも一向に引く気配のない指先の熱に思い出すのはバダップの頬の冷たさだ。この手ならば温めることもきっと容易いのに、触れることもままならないなんてうまくいかない。再び浮かびかけた考えを振り払うようにカノンは頭を振って小さく息を吐き出した。とうとう首を傾げたバダップににっこり笑ってカノンは両手をぐっと握った。

「いっぱい、楽しいことしよう!」

 きょとんと、存外に幼い様子で瞬いてからバダップはあるかなしかに笑って「ああ」と肯いた。きゅうと締まる胸に、やっぱり君が好きなんだとカノンは唇も動かさず喉も震わせず呟いた。何時からだろうと思うのがきっと野暮っていうやつなんだ。







110614(途中)
待ち合わせまで。続くか未定。内容は考えてるのに
てゆかカノンの両親てどこいるの?