サンダユウは、決してバダップから愛されることを強要しなかった。望みまでもないわけではないけれどもバダップにそういった、睦言などの類いを請うたことは一度とてなかった。それを無償の愛などと称するのはむず痒くあったが、敢えて言うとなればそういった類いなのであろう。サンダユウはバダップへ注ぐ情をひとつも惜しまなかった。バダップに触れ得る僥倖ただひとつで彼は衝き動かされるのである。

「君のそれは」

 サンダユウが触れると、バダップは決まって深い緋色の瞳を注いでから一つの瞬きを皮切りにして僅かに伏せる。抱き締めても構わないかと尋ねて、ああと許しを得て、そうしてから漸くサンダユウよりも一回り以上は小さな―勿論彼だとて決して小柄なわけではないが、なにせサンダユウは随分と上背のある方である―バダップの肢体を緩慢に抱き寄せるのである。丁度首筋に当たる炎のように逆立った銀色の髪に鼻先を埋めれば微かにバダップの匂いがする。そのように形容すればこの真面目一辺倒の首席は洗髪剤の匂いだろうとやはり抑揚のない声で返すに違いない。しかし寮に備え付けられたシャンプーは誰しも共通なのにバダップ以外の匂いにこれほどサンダユウの心が浮き立つことなどはない。バダップだからだ。そう説いてもバダップは理解できないと言って目を伏せるのだろう。そういった環境を与えられてこなかったバダップはこういったことを理解できないのだそうだ。だからバダップはサンダユウに何も返せなくて、然るべきだ。
 バダップはしばらくしてサンダユウの背を探る様に腕を彷徨わせてから、めいっぱいに伸ばした手でサンダユウの首筋に触れる。彷徨う指先はその内にサンダユウの頸の下に添えられて押し黙る。程無くして再び背を落ちて中ほどで落ち着く腕を、サンダユウは奇妙にこそ思えど口にしたことはなかった。尋ねようかと思ったことがないわけではない。だけれどそう、所謂ところの恋愛関係にひどく疎いバダップにそれを尋ねるのは違うと本能的に察した。なんというか、今のバダップは手探りにものを覚える赤子と同じなのだ。王牙学園きっての天才がそのような姿を晒すのを愛おしくこそ思え、疎ましく思うはずがない。サンダユウはただバダップの好きにさせた。存外に体温の高い指先はサンダユウをうっとりとさせた。

「君の好意は敵意となにが違う」

 バダップの言葉を、サンダユウはひとつとして取りこぼさない。サンダユウの虚を衝いたその一言は常の彼となにひとつ変わらぬ色で落とされたものだからサンダユウは咄嗟、言葉を失くす。サンダユウに突き刺されたナイフは確実に彼の喉を抉ったようであった。呼吸さえも危うい。軍人としてあるまじきと叱咤する声も遠い。しかし当のバダップは尚サンダユウの背に手を回しているしその濃緋の瞳は微かに伏せられている。バダップは口唇を動かす。この存外小さな口腔から紡がれる言葉はなによりサンダユウを支配してならない。そうと認識して途端止まっていたかとさえ思われた心臓が早鐘を打ち出す。サンダユウの胸に額を寄せていたバダップには当然聞こえたろう。ふ、と上げられた双眸が真っ直ぐにサンダユウを射抜くので、サンダユウは思わず息を飲んだ。同様にサンダユウもその瞳を真っ直ぐに見返さずには居れない。そうと見れば濃緋の瞳が微かに揺れている。彼も困惑しているのかと知れば、まだしもサンダユウは自身の呼吸が楽になった。唾液を飲み下して張り付いた喉を潤す。

「どういうことか、教えてくれ」

 尋ねればまた、バダップは一層困惑した様子で視線を僅かに彷徨わせた。彼にしては珍しく言い淀む様子で一度開いた口唇を再度閉じる。サンダユウはただ辛抱強く待った。敵意との区別が解らないというなら何故彼は自分を拒まないのかと、ともすれば詰問してしまいそうな口はきつく噤んだ。

「君が俺に優しくするのは俺への好意からだと認識している。君は決して俺を害さない、その様に触れていることも理解しているつもりだ」

 違いはないか、と尋ねるバダップにサンダユウはそうだと肯くしかなかった。否と答えよう筈がない。サンダユウの慕情はサンダユウが思うよりはっきりとバダップに伝わっていたようだった。その事実にサンダユウは胸が締め付けられるように熱くなるのを感じる。それだけのことがこんなにも喜ばしいのだ。やはり、彼が好きだ。どうしようもなくなるほどに。歓喜に震える眦を見止めたバダップはますます困惑の色を濃くした。「俺は」とまたも彼は言い淀む。うろ、と彷徨う視線は必死に何かを探す幼子に似ている。そうとまでなってサンダユウに触れ、必死にこの情を拾い上げようとしてくれるバダップの姿はあまりに不器用で、やはりどうしたところで愛しいのだ。

「だが、俺は君がそうやって触れる度に苦しい。胸が裂けそうに痛んで呼吸が出来なくなる。こんな状態になったのは初めてだ。理解が出来ない」
「バダップ、」
「君が俺に触れる時、君の脈拍と体温が僅かだが上昇する傾向にあるとも解った」

 そう言われて漸く彼がいつもサンダユウの頚を確かめるように触れる意味を知る。データ以外で物事を計る術だとて勿論知っているだろうに、数字化でもしなければ理解できない感情で、行為なのだろう。ハニートラップなんて策を知っていて、恋慕の情を知らないのがバダップ・スリードという少年だ。ふ、とバダップが僅かに視線を落とす。サンダユウの視線から逃れたのだ。

「俺にも、同様の症状が見られる。色々と考えてみたがやはり、この苦痛の原因もこれだろう」

 体がわなないた。思わずバダップを抱きしめる腕にも力が篭って、しかし辛うじて彼を抱き潰す愚を避ける。サンダユウはこの胸が裂けるのでないかとさえ思った。たかだか掌大の器官に、この感情が収まりきると誰が思えようか。

「君は苦しくないのか」

 再びサンダユウを真っ直ぐに見詰める双眸に、そっと息を吐いた。

「…俺も、苦しい」
「だが俺は君ほど、君になにかをやれているわけではない」
「そういうことじゃない」

 思わずきつく言い咎めてしまってからはっと口をつぐむが、バダップはそれを咎めるでもなくただサンダユウの言葉を咀嚼するように「そうか」と何処かうろんに顎を引いた。前髪の間から覗く濃緋の双眸が瞼の下に消える沈黙にじっと耐える時間は、今のサンダユウには余りに長く思われた。一分も無かったろう時間の後にサンダユウを見つめる双眸は迷子のそれに似て不安げに揺れた。何故だかそれに戦いて思わずサンダユウは足を引きかけたが背に回るバダップの腕を振り払えずに不自然に震えた。誰より聡いバダップはそれでもサンダユウの軍服を離さない。

「俺は、君の好意に触れるのが辛いんだ」

 バダップはそう言って息を吐くとサンダユウの胸に額を預ける。サンダユウはどうにも堪らない気になって、とうとうバダップの肩をきつく抱き締めた。鍛え上げられた体はそれでも軋みを上げすらしないが、それでもサンダユウはそのようにバダップを抱き締めたことなどなかった。いずれこの国の未来を荷うであろう彼は間違いなくこの国の至宝であった。その彼に触れる僥倖を得たからには、サンダユウは見返りなど求めずにただひたすらに愛すると決めていたしそうでなくとも彼の存在は無為に愛されるに足りた。サンダユウはああ、と溜息を漏らした。

「バダップ、好きだ。好きだ」

 バダップに、それが恋だと教えてやるのは実に容易い。何も知らぬ彼は存外にサンダユウに信頼を置いているようだからきっとそれを疑わないだろう。だけれどそれは幾分惜しい。なんでもかんでも優秀なこの天才が自身のことでこのように一生懸命になる様は多分にそそると思わずにおれない。自身の心境の変化が面映ゆくなって、サンダユウはバダップの米神に唇を押し当てた。背に回っていたバダップの手が不意打ちに跳ねた気配さえも愛しくてならず、もう少しばかり彼を苛めてからもっと甘やかしてやろうと考えた。





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